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水蒸気


「ここです」

金本が言い終わる前にシートベルトを外した。


日が登り切らない薄明かりの中、車を降りて真っ先に感じ取ったのはキンと冷えた空気の中に混じる機械油と鉄の匂い。


後方を走っていたワゴン車に乗っていた鑑識は停車とほぼ同時に後方ドアから降りると、手際よく準備を済ませて初動捜査へと向かう。


当直をしていた俺と金本が向かったのは住宅街の外れにある小さな町工場だった。

臨場要請を受けて半分寝ていた脳は一気に覚醒し、布団代わりにしていたダウンに袖を通した。


表には通行人も野次馬もいない、通報したばかりの静かな緊張感が漂っている。

大きな倉庫のような造りのその鉄工所は、錆びたナットが外壁に茶色の縦線を描きながら建物の歴史を物語っていた。


規制線の準備をする同僚に軽く挨拶を済ませ、シャッターが開けっぱなしの正面玄関へと向かう。

手袋を引っ張りながら体の向きを変えると、柔らかなハンドクリームの匂いと共に「え」と言う声と衝突しかける。

道路の向かいから歩いて来た人物も中に入ろうとして俺達と動きがシンクロしたのだ。


声を発した人物に目を向ける。

ピクリと体を跳ねさせびっくりした様子を見せたのは若い女性だった。


「従業員ですか?」

顔と髪をマフラーに半分埋めているその女性に声をかけると、“捜査”と書かれた腕章と顔を交互に見ながら「はい」と小さな声で答えた。


「早いですね、いつもこの時間に?他の人は何時頃出勤するんですか?」

7時前を差す腕時計を睨みながら聞く。

「あ、えっと…」

女性はマフラーを下げると、鼻先が赤くなった顔が露出した。

目を泳がせながら小動物のように細かな挙動をし始める。


「大澤さん、怯えてます」

金本が割って入る。

「申し訳ございません、我々は通報を受けて駆け付けた警察の者です、中には入らずこちらでお待ち頂けますか?他の従業員の方も見えたらそうお伝えください」

「…はい、分かりました」


「睨んじゃダメじゃないですか、怖がってますよ」

「睨んでねぇよ」

女性に背を向けると金本が小声で言い、すかさず反発する。





第一発見者は社長の奥さん。出勤して工場内の電気を付けたところ、血を流して倒れているご主人を見つける。


「昨日は1人で残って仕事してて、夜中になっても帰って来なかったんです、連絡しても繋がらないし、たまに飲んで帰って来る事があったからあまり気にしてなくて…」

死体発見のショックが抜けないのか、虚な目で一点を見つめ、息を吐くように声を出した。


「ご主人は良く1人で仕事を?」

「はい、でもあまり現場で仕事をするような人では無くて、資材調達とか顧客対応とかを主にしてたので…」

「不躾な質問ですが、ご主人を恨んでいた人物やお心当たりは?」

「………人間…、生きていれば誰かしらに迷惑はかけます、でも、殺されるほど誰かに恨まれるような人では無かったと思います」

頷きながら話を聞き、寄り添う姿勢を見せる金本。

目で合図を送り、俺はその場から離れた。


地面に無秩序に置かれた工具に注意を払いながら、パシャパシャとカメラのシャッター音に導かれて向かうべき場所へと足を運ぶ。

奥へと進んでいくと建物全体に充満した鉄の匂いが強くなっていく。

いや、鉄ではない、血だ。

乾いてヒビ割れた血溜まりの前で、足を止めて、手を合わせた。


恰幅のいい白髪混じりの男性の遺体。

仰向けで地面に横たわるその顔の上には鉄を打つ際に土台として使うアイロンのような形の鉄床かなとこが食い込んでいる。

揉み合った際に倒したのか、辺りには空のコンテナが散乱していた。


「死後どの位だ?」

近くにいた検視官のに声を掛ける。

「そうだな、12時間前後といったところだな」

検視官はベルトコンベアの付いた大きな機械を指差すと「あそこの出っ張ってる所」と視線を誘導する。

「まずそこの出っ張りに後頭部をぶつけたみたいだ、髪の毛と皮脂の様な物が着いてる」

「で、倒れた所に、コレ、か」

「恐らくそうだろうな」


足元には重油のような黒い機械油が薄い膜を作っていて滑りやすくなっている。

「足跡は?」

鑑識に声を掛けると首を横に振った。

「奥さんが取り乱して歩き回ったみたいで、駄目でした」


俺は鑑識の邪魔にならないように、ホトケの頭の方へと近づいた。

その場でしゃがみ、凶器に目を凝らす。

鉄床の胴部分には“25KG”とエンボス加工で表記されている。


扱いに注意が必要な鉄の塊を、顔に落とす。この行為が示すことは犯人が被害者に対する強い恨みと殺意だ。

魂の抜けたような奥さんの顔が頭に浮かび、ため息混じりに鼻から息を吐いた。


腰を捻り背後にある大型の機械に目を向ける。

重厚感のあるその機械は、容易く動かせるようなものでは無く、ぶつかった時の衝撃は相当だと考えられる。

足元を見ると機械に溝があり、床との間が少し空いている箇所があった。

そこに小さな黒い塊を見つけ、ジップ付きの小袋に入れるとそれを鑑識に託した。

「これも頼む」

「はい」


鑑識は、大きな袋を取り出すと近くにあったバケツを覆いながら持ち上げた。

鉄製のそのバケツには錆と油汚れに埋もれながら『使用済ウエス』とマジックで書かれた字が微かに読み取れた。

「それは?」

「油汚れを拭いた端切だ、古い服を切って再利用しているんだろう」

中を見ると油を吸って黒光りしている様々な柄の布切れが入っていた。


「大澤さん」

金本が機械の間から顔を覗かせ手招きをする。


「従業員の方が集まってきたのでそろそろ行きましょう」

その言葉に一瞬、白い吐息に滲む赤鼻の顔が脳裏を過ぎった。

「おう、分かった」



久保田製作所

被害者は社長の久保田俊夫くぼたとしお

第一発見者は奥さんの久保田三都子くぼたみつこ

従業員7人、これから関係者への聴取が始まる。


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