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氷震と溜息


午前中は青空が見えていたのに、今は白い雲が空を覆っている。

晴れている方が気温が低いと言うが、曇っている方が寒く感じるのは、気持ちの問題なのだろうか。





「少し話してから戻るから、ここで待っててくれ」

「ん、分かった」


金本に俺の推測を話すと「頭が追いつかない」と言うから他のやつに運転を頼んだ。

着いたのは単身者向けの、小さな古いアパート。


呼び鈴を鳴らすと、スコープを覗く間を置いた後、住人が顔を覗かせる。


察しているのだろう。

俺がここに来た理由は、きっと分かっているんだ。

だからそんな崖っぷちに追い込まれたような顔をしているんだよな。


震える唇を内側にくるんで表情を誤魔化すと、大きく扉を開いて俺を招き入れた。


灯油を燃料とした暖房器具、室内干ししている洗濯物、そして、醤油と砂糖で煮詰めた料理の匂い。


「…すみません、今、豚の角煮作ってて、出来上がるまで少し待ってもらえますか?」

「うん、いいよ」


髪を一つに結い、エプロンを着てキッチンに立つ。

白いセーターの腕をまくり、お茶を入れる。

急須の注ぎ口と湯呑みが小刻みに衝突し、小さな悲鳴を上げている。

直視できず、俯く。


「どうぞ」

「…ありがとう」


宮本は俺の前にお茶を置くと、向かいに座った。

俺はお茶に手をつける事なく、腕を組み、あぐらをかいていた。


どのくらい沈黙があっただろうか、向かい合って座っていると、ふぅと息を吐いたあと、宮本は口を開いた。


「私を、迎えに来たんですよね?」

「…そうだ」

「大澤さんなら、気付いてくれるって、何処かで思ってました」

「…」

「…あの、大澤さんは、何で私だって分かったんですか?」

「…土だ」

「土?」


プレス機の下に落ちていた黒い塊は、油に塗れた泥だった。

それの成分を分析したところ、粘性黒土と砂を混ぜた黒土混合土、そして、それに混じって溶け残った塩化カルシウムが確認された。

黒土混合土はサッカーなどのスポーツ用グランドでよく使われている物で、塩カルは凍結防止などの為に冬の運動場では定期的に用いられている。

その2つをあの場に持ち込む可能性のある人物は、宮本しかいない。


「調べたら、ちょうどその日は塩カルの散布日だったんだよ」

「…そっか、大澤さん、サッカーしてたから知ってるんですよね」

穏やかな口調。

それが余計に痛々しく感じるのは、俺が気持ちを切り替えていないのかもしれない。


「事件の経由を、聞かせてくれないか?」


少しづつ瞼を落とすと、宮本は語り始めた。


「……夕食後、お皿を洗っている時でした…」




会社から電話が掛かってきて、家を出ました。

寛には、ちょっと買い物行ってくるって言って家を出たんです。


会社に着くと、社長がすごく怒ってて、金型が壊れてる、お前がやったのかって。

私じゃない確証はどこにも無かったから、ひたすら謝ることしか出来なくて…。


すると、いきなり腕を掴まれて体を引き寄せられたんです。

「本当に悪いと思ってるなら、他にも償い方あるだろ」って。


社長のお腹が当たって後退りしたら、もう片方の腕も掴まれて、さっきまで怒ってたのに、顔が笑ってるから怖くなったんです。


首を横に振りながらごめんなさいって絞り出すのが精一杯で、その間も社長は鳥肌が立ってしまうような事をずっと言ってて。


何されるか分からなくて、怖くて、とにかくその場から逃げたくて仕方なかった。

腕を回して抱き寄せられると、鼻息が顔に当たって、嫌だって感情が爆発したんです。

それで社長を突き飛ばしたら、足を滑らせてプレス機に頭を打ってしまって…。




「本当はその時点で救急車を呼ぶべきでした、それなのに、私は…」


宮本は言葉を詰まらせ、俯いた。

自身を落ち着かせようと、肩を大きく上下させ、深呼吸を繰り返している。


鍋の蓋が震え、噴きこぼれる音が聞こえると、宮本は「すみません…」と立ち上がってキッチンに向かった。


俺は、コンロの前に立って鍋の中を確認する宮本の背中を見ていた。


「…母の事を言われてしまったんです」

絞り出したその声は小さく、僅かに聞き取れた。

立ち上がって彼女の背後まで歩み寄る。


「…お前の母親は、従順だったぞ…お前達を食わせるために俺の言う事を聞いた…って…」

首筋から覗く顎のラインから雫が垂れていく。

溢れそうになる感情を飲み込むように、喉を鳴らして空気を飲み込むと、彼女は続けた。


「グラグラって足元が揺れたんです、氷が割れる前兆のように、ヒビが入って、生き物のように、揺れて、…気付いたら鉄床を手に持ってて…」


「きっと、私は酷い顔をしてたと思います、社長の怯えた表情が…頭から離れない…」


宮本は袖で顔を拭くと振り向いた。

「すみません、私に泣く資格なんてないのに」

「…んな事ねぇよ、泣いていい」


俺はポケットに手を入れると中からビニール袋を取り出した。


「これは、君が使ったのか?」

俺が手に持っている物を見ると宮本は首を横に振る。


「そっか…、これさ、棚と壁の間に落ちてたんだよ、使用済みを入れるバケツの側の」

ビニール袋の中の黒い端切れは、おそらく床を拭いたであろう砂と油が付着している。


「明美がさ、塚原はいつもバケツを見ないで放り投げるからまともにウエスを捨てる事すらしない奴だって言っててさ、」

俺が全てを言い終える前に宮本は何かを察したように眉間に皺を寄せる。


「塚原さんは何もしてないです、彼は関係ない」

首を振りながら宮本は言う。

「うん、分かってる」

「…私、電話したんです、だけど、彼は出なかった」

「電話?」

「会社から電話が掛かってきた時、社長と2人になるのが嫌で塚原さんに電話したんです、でも、また喧嘩になるかもって思って、出る前に切ったんです」

「そっか… 」


床は、奥さんが踏み荒らしたのではなく、塚原が拭いた跡だったんだ。

塚原は宮本の着信の後に会社に向かい、そこで倒れていた社長と床に残った宮本の足跡を目にしてウエスで拭いた。

咄嗟の判断だったのだろう、だからいつもの癖でウエスを放り投げた。


「鉄床にはな、塚原の指紋が検出されているんだよ、拭き取ろうとしたような跡が」


塚原は守ろうとしたんだ、宮本を。


「何で、そんな事を…」

宮本は自分のせいで塚原が罪に問われる事を危惧しているのだろう、顔に不安が色濃く滲んでいる。

余計なお世話かもしれないが、口下手な塚原の代わりに俺は代弁をした。


「そんな顔するなよ、塚原は泣けるほど好きな人がいるって言ってたんだよ、彼女の為なら何でもするって、そういう存在は、簡単には見つけられない」


静かに聞いていた宮本は、耐えられず、涙をこぼす。

荒くなった呼吸を整えるように息を吐くと、宮本は震える唇を開く。


「私は…、塚原さんが思っているような人間なんかじゃないんです、だって、社長は色んな人から嫌われていた、だから悲しむ人なんていない、って思うようにして自分を励ましてたんですよ…最低でしょ?」


「…俺はそれを聞いて安心したぞ」

俺がそう言うと宮本は戸惑いの表情を見せた。


「君の人間らしい所が垣間見れて、安心した」


コップから溢れるように流れ続ける涙を、追いかけながら袖で拭いていく。


「…すぐに…自首すべきでした」

過呼吸に胸を震わせ、声を絞り出す。


「でも、寛…が…ひと…りになっちゃう…」

キッチンに置かれた新品のタッパーが目に入る。

ギリギリまで、弟に残そうとしたんだ。


「寛は…気付いてたんです…あの日、私は外に出たのに、何も言わなかった…あの日から私の様子がおかしいのも、きっと…気付いてる…」

「うん、そうだな、でもあいつは強い男だよ、大の大人2人に立ち向かおうとしたんだぞ、大した度胸だ」


俺がそう言うと、宮本は一歩踏み出し、胸に顔を埋めた。

鼓動のように震える体は、崩れてしまいそうな程、弱々しい。


ズボンのポケットに両手を突っ込む。包み込みたい衝動を抑える為に。

それなのに、俺は、彼女の髪に頰を寄せていた。


法律なんて無くなっちまえばいいのに。

これほど思ったのは、人生で2度目だ。





空を見上げると、白いはず雪はほんのり灰色を帯びて降っていた。

大きなボタン雪は静かに宮本の頭上に舞い降り、音も無く背中を撫でる。


車の後部ドアを開けると宮本は体を乗り込ませ、扉を閉める。


「姉ちゃん!」


大きな声が響き、顔を向ける。


そこには数メートル離れた曲がり角から姿を現した寛が立っていた。

その声は宮本にも届いたはずだが、彼女は振り向かなかった。

運転手に何かを伝えるように体を前に倒すと、車は動き出す。


「姉ちゃんっ!姉ちゃんっ!!」

寛はランドセルと水筒を揺らしながら走ってくる。

走り去る車のリアウィンドウから見える後頭部は少しづつ、下がっていく。


「ねっ姉ちゃんっ」

寛が横まで来ると俺は腕を出して止める。

「離せよっ!姉ちゃーーん!!」

腕を振り払おうと暴れる寛の胸ぐらを掴むも、すり抜けられそうになり、両手で彼の体を押さえた。


「離せよぉ!何で姉ちゃん連れてくんだよ!ずっと家に居たって言ったじゃねぇか!ふざけんなよ!!」

俺を睨みながら怒鳴るその声は、泣き叫んでいるようだった。


「ふざけんなよぉ!返せよぉ姉ちゃんを!」

そう言って俺の服を引っ張り、腹を殴った。

強気な表情を崩さず、喉を震わせて寛は涙を流す。

掛ける言葉が浮かばず、俺は寛の荒ぶる感情を体で受け止めた。


ダウンが破れ、直した箇所が前より大きく裂けた。

羽毛が雪と共に地面に舞い落ちる。


泣きじゃくる寛の頭に積もった雪を払うと、腕で包んだ。


「…大丈夫、大丈夫だから、また会えるから」





現実は残酷だ。


この現実を突きつけるには、あまりにも、幼すぎる。

俺は寛の小さな頭を力強く撫でた。




雪が無音で積まれていく。

世界が白くなっていく。


冷えた空気を大きく吸い込み、胸が空になるまで吐き出す。

白い水蒸気は、雪と空に溶け込みながら舞い上がっていった。



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