冬の匂い
「冬の空気って漂白剤のような匂いしません?消毒液のような」
「そうか?ただ、冷たいだけだと思うけど」
「しますよ、だから冬になると“病院”が浮かぶんですよね」
「…風邪引きやすくなるからじゃねぇの?」
「はぁ、大澤さんはとことん現実を突き付けてきますよね、もうちょっと情緒を味わいましょうよ」
「え?まぁ今は煙草の匂いしかしないけどな」
「…そうですね」
寒空の下、煙なのか息なのか判断のつかない白い気体を口から吐くとふわりと上昇しながら消えていった。
ビルの間から見える星は、澄んだ夜空に点々と穴を開けているようだ。
「あ、終わっちゃった、戻らなくちゃ」
そう言うと金本は名残惜しそうに灰皿の上で手首を捻る。
「あぁ〜面倒くせぇな、寒くてもいいからここに居たい」
「駄目ですよ、ほら、手伝いに行きますよ」
屋上の扉を半分開けた状態で俺に手招きする金本。
眼鏡の似合うクソ真面目な男だ。
非常口の灯りを頼りに階段を降りて行き、地域課の階が近づくと怒号混じりの騒がしい声が聞こえ始める。
酒に酔った若者グループが廃墟で馬鹿騒ぎしているところを通報され、中には未成年もいた為まとめてしょっ引いたら大騒ぎになっているのだ。
さっきまではガキだけだったが、今は迎えに来た親までも騒いで更に状況の混沌が加速している。
子は親の背中を見て育つ、ほんと、一人一人に言って回りたい。
丸めた紙が目の前に飛んで来て、それを避けると後ろに居た金本に当たり「いて」と小さな声が聞こえた。
イキって俺達に喧嘩ふっかけてくる奴や、泣き喚いたり、親子喧嘩がはじまったり、耳を塞ぎたくなる空間に溜め息しか出ない。
当直の日にコレに当たってしまうとは、ついてない。
「あ、大澤さん、そこの寝てる子の身上調書がまだなのでお願いします」
指を差された方に目を向けると、“小娘”が机の上に顔を伏せて寝ていた。
こんな騒がしい中でも良く寝れるもんだ。
近づいて真横でコンコンと机を叩いても起きる気配は無い。
「この、出来損ない!いつまで俺に迷惑かけるんだ!」
迎えに来た親であろう男の声に反応して顔を向ける。
その男は子の服を掴みながら怒鳴り散らしている。
息子と見られる人物は振り回されながらも無表情を貫いていた。
きっと父親を刺激するといい事がないと今までの経験で培って来たのだろう。
男が拳を振り上げた。
それを見た俺は思わず声を荒げる。
「おいっ!」
思いの外声が通り、場が水を打ったように静まり返る。
一斉に集まった視線に奥歯の苦虫を噛みながらも、俺は腹に力を入れた。
「自分の子だろうと無抵抗な人間に暴力を振るうのは駄目だ、今ここで手を出したらお父さんを逮捕しますよ」
目を見開いて男を威圧する。
男は不服そうな顔をしながら手を離し、力の抜けきっていない背中を向けるとその場から立ち去った。
「ヤクザだ、ヤクザがいる」
机に伏せて寝ていた小娘が顔を起こして呟いた。
「ヤクザじゃねぇよ、お巡りさんです」
そう言うと椅子を引いて腰掛ける。
書きかけの身上調書に目を通すと、まだ17歳の高校生だった。
家は一等地の高級マンション、保護者の欄は空欄になっている。
「親御さんに連絡するから、電話番号教えて」
「うちの親は来ないよ、私、捨てられたから」
「捨てられた割には綺麗な身なりだな」
「うん、金持ちホームレスなの」
寝癖の付いた前髪を手鏡で確認しながら淡々と話す。
「ねぇ、お巡りさん、」
手鏡を閉じると声のトーンを変えた。
「私、思うんだけどさ、東南アジアとかに住む同い年の子達って、学校行かずに働いてるじゃん?家族とかの為に」
「まぁ、そういう国あるわな」
「そういう子ってさ、私らみたいに馬鹿な事しないよね」
「自覚あるんだな」
「貧しくて可哀想だなって思うけど、私達みたいな虚しさを抱えて無さそうっつーかさ、…どっちがいいんだろうね」
「さぁな、でも、貧しいからって可哀想ではないぞ、人は与えられた環境の中でそれぞれの幸せを見つける事が出来ると俺は思っている」
小娘はカラコンで茶色に色付けた瞳を俺に向ける。
「隣の芝生は青く見えるとは言うものの、その人にしか分からない幸せがあるんだよ」
俺がそう言うと、しっくり来ないとでも言うように首を傾げた。
「俺だって40で独り身だし仕事は大変だけど、煙草は美味いしそれなりに幸せだと思ってる」
「…やば、めっちゃ無理ある」
小娘は片頬を引き攣らせてドン引きしている顔を見せた。
言葉で心を動かすなんて無理だ、俺もそう思っていたからその表情はよく分かる。
でも世の中には色んな人間がいて各々がそれなりの幸せを感じて生きてる、それは本当だと思う。
でないと、生きていけないだろ。気付いてないだけなんだよ、多分。
なんて、説教くさくなるから口に出すのは止めた。
「はい、親御さんの連絡先教えて下さい」
世の中には色んな人間がいる。
この当直の数日後、今まで出会った事の無いほど、純粋無垢な人間に俺は出会った。
その子は氷のように透明で、何処か危なっかしくて、手を差し伸べずにいられない、そんな子だった。
俺は、手を差し伸べたのか、手を伸ばしたのか。置き場所のない感情に、溜息ばかりが増えていった。




