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ラウンド2:悪の具体例──アイヒマン、戦争、法の限界

(短い休憩を経て、スタジオの照明が再び切り替わる。やや暗めの照明に、議論の緊迫感を演出する赤系のアクセントライトが加わる)


あすか:「お待たせいたしました。『歴史バトルロワイヤル:悪の解剖学』、ラウンド2を始めましょう」


(クロノスを操作すると、「ROUND 2:悪の具体例」というホログラムが投影される)


あすか:「ラウンド1では、四つの視座から『悪の定義』を探りました。法への違反、人間の認識、思考の放棄、歴史の審判——それぞれの立場が明確になりました」


(四人を見渡す)


あすか:「しかし、定義はあくまで抽象論です。ラウンド2では、具体的な事例を通じて、それぞれの立場を検証していきます」


ナポレオン:「具体例か。余は抽象論より実践を好む。いよいよ本題だな」


アーレント:「具体例に向き合うことは、時に痛みを伴います。しかし、避けて通ることはできません」


あすか:「その通りです。今夜取り上げる事例は三つ。まず、アーレントさんが言及されたアイヒマン裁判。次に、ナポレオンさんの戦争。そして、ハンムラビ王の法典に内在する問題点」


ハンムラビ:「余の法典に問題があると?」


あすか:「検証させてください、偉大なる王。それがこのラウンドの目的です」


スピノザ:「具体例を通じて、抽象的な議論が試される。哲学にとっても、重要なプロセスです」


あすか:「では、最初の事例——アイヒマン問題から始めましょう」


---


あすか:「アーレントさん、改めてアイヒマン裁判について詳しくお聞かせください。彼はどのような人物だったのでしょうか」


アーレント:(少し目を閉じ、記憶を辿るように)「アドルフ・アイヒマン。1906年生まれ、ドイツ人。ナチス親衛隊に入隊し、ユダヤ人問題を担当する部署で出世しました」


(煙草を手に取りながら)


アーレント:「彼の仕事は、ヨーロッパ各地からユダヤ人を『移送』すること。列車の手配、収容所との調整、人数の管理——彼はそれを、恐ろしく効率的にこなしました」


ハンムラビ:「つまり、官僚だったのだな」


アーレント:「ええ、まさに。彼は自分を『輸送の専門家』と呼んでいました。何を輸送しているか——人間を、死の収容所へ——という事実から、彼は目を背けていた」


ナポレオン:「目を背けていた? 知らなかったということか?」


アーレント:「いいえ、知っていました。彼はアウシュヴィッツを視察しています。ガス室も見た。しかし、それを『自分の責任』とは考えなかった」


スピノザ:「認知的な切り離し、ですね。事実は認識しているが、感情的な結びつきを断っている」


アーレント:「その通りです。法廷で彼は繰り返しました。『私は命令に従っただけです』『私は法律を遵守しました』『上からの命令がなければ、私は何もしなかったでしょう』」


あすか:「彼にとって、それは正当な弁明だったのでしょうか」


アーレント:「彼は本気でそう信じていたようです。それが最も恐ろしい点でした」


(立ち上がり、ゆっくりと歩きながら)


アーレント:「私が見た彼は——空虚でした。自分の言葉を持っていない。すべてが借り物のフレーズ、陳腐な決まり文句。『死体の山』を『最終解決の遂行』と言い換え、『殺人』を『特別処置』と呼ぶ。言葉のすり替えによって、現実から逃避していた」


ハンムラビ:「しかしアーレント女史、彼は当時の法に従っていた。ニュルンベルク法は、ユダヤ人を市民権から排除した。彼の行為は、その法の枠内だった」


アーレント:「王よ、それこそが問題の核心です」


(ハンムラビに向き直る)


アーレント:「法に従えば、それで免責されるのでしょうか? 法が『すべてのユダヤ人を殺せ』と命じたとき、その法に従うことは正しいのでしょうか?」


ハンムラビ:「……それは、法そのものが誤っていた場合の話だ」


アーレント:「では、誰が法の正しさを判断するのですか? 法に従う者が、法を批判することは許されるのですか?」


ハンムラビ:(しばらく沈黙してから)「難しい問いだ。余の時代、法は神の意志の反映だった。法を疑うことは、神を疑うことに等しかった」


スピノザ:「そこに問題があります。法を絶対視すれば、法の誤りを正すことができなくなる」


ナポレオン:「余から見れば、アイヒマンは単なる臆病者だ」


アーレント:「臆病者?」


ナポレオン:「然り。彼は自分で決断する勇気がなかった。『命令に従っただけ』という言い訳は、責任から逃げる臆病者の論理だ。真の軍人は、不当な命令には抵抗する」


アーレント:「皇帝陛下、あなたの軍隊では、命令への抵抗は許されていたのですか?」


ナポレオン:「……」


アーレント:「正直にお答えください」


ナポレオン:(渋々と)「軍の規律上、命令への不服従は処罰の対象だった。しかし——」


アーレント:「しかし?」


ナポレオン:「余は、明らかに不当な命令を出したことはない。民間人の虐殺を命じたことはない」


アーレント:「本当にそうでしょうか? スペインでの弾圧は? ハイチでの奴隷反乱の鎮圧は?」


ナポレオン:(表情が曇る)「……それは——」


あすか:「ナポレオンさんの事例は、次のセクションで詳しく取り上げましょう。まず、アイヒマン問題を整理させてください」


(クロノスを操作する)


あすか:「アイヒマンは法に従った。しかし、その法自体が不正義だった。では、彼は悪なのか——それぞれの視座からお答えいただけますか?」


ハンムラビ:「余の立場からは……複雑だ。法に従った者を罰することは、法の権威を損なう。しかし、その法が人間性に反するならば——」


(苦悩の表情で)


ハンムラビ:「余は認めねばならぬ。法だけでは、このような事態を防げぬのかもしれん」


スピノザ:「私の立場からは、彼を『悪』と断罪することに意味があるか疑問です。しかし、彼の行為が600万人の死に寄与したことは事実。その因果関係を理解し、同じことが起きないよう防ぐことが重要です」


アーレント:「私の立場からは、彼は明確に悪です。しかし、その悪は——悪魔的な悪意からではなく、思考の不在から生まれた。彼が『考えて』いたら、彼は同じ行動を取らなかったかもしれない」


ナポレオン:「余の立場からは——」


(複雑な表情で)


ナポレオン:「彼が悪かどうかは、歴史が判断した。彼は処刑された。敗者として裁かれた。それが歴史の審判だ」


アーレント:「しかし皇帝陛下、それでは不十分です。『敗者だから悪』では、なぜ彼が裁かれるべきだったのか、説明できません」


ナポレオン:「では、女史はどう説明する?」


アーレント:「彼は——人間であることを放棄したからです。考えることを、他者の顔を見ることを、自分の行為の意味を問うことを、すべて放棄した。それは人間としての義務の放棄であり、だからこそ裁かれるべきでした」


スピノザ:「興味深い。あなたは『人間としての義務』という概念を導入されました。それは、王の言う『法』とも、私の言う『因果の理解』とも異なる」


アーレント:「ええ。法を超えた、しかし恣意的でもない、人間性に根差した義務。それを私は探求しています」


ハンムラビ:「しかし、その『人間性に根差した義務』の内容は、誰が決めるのだ? 結局、誰かの主観ではないか?」


アーレント:「確かに、その境界線を引くことは困難です。しかし、いくつかの極限状態においては——ホロコーストのような——境界線は明確だと、私は信じています」


あすか:「アイヒマンは『普通の人』だった。だからこそ恐ろしい——それがアーレントさんのメッセージですね」


アーレント:「その通りです。彼が怪物なら、私たちは安心できる。『自分はあんな怪物にはならない』と。しかし彼が普通の人間だったなら——私たちは自分自身を疑わなければなりません」


---


あすか:「では、次の事例に移りましょう。ナポレオンさん、あなたの戦争についてです」


ナポレオン:(身構えるように)「余を裁くつもりか」


あすか:「裁くのではありません。検証するのです。あなたの戦争は、悪だったのでしょうか?」


ナポレオン:「余自身に答えさせるのか。面白い」


(立ち上がり、堂々と語り始める)


ナポレオン:「まず、事実を確認しよう。余は約20年間、ヨーロッパで戦争を続けた。その間に死んだ兵士は——正確な数は分からぬが——おそらく数百万人」


スピノザ:「数百万人……」


ナポレオン:「ロシア遠征だけで60万人以上が命を落とした。フランス軍だけでなく、ロシア軍も、そして民間人も。余はその責任から逃げるつもりはない」


アーレント:「責任を認められる。それはアイヒマンとの違いですね」


ナポレオン:「当然だ。余は皇帝として決断を下した。その結果について、余は責任を負う」


ハンムラビ:「しかし、責任を負うことと、悪であることは、別の話ではないか?」


ナポレオン:「その通りだ、王よ。余は責任を負う。しかし、余が悪だったかどうか——それは別の問いだ」


あすか:「では、その問いに答えていただけますか? あなたの戦争は、悪だったのでしょうか?」


ナポレオン:(しばらく考えてから)「余は——悪ではなかったと信じている。しかし、善でもなかった」


スピノザ:「善でも悪でもない?」


ナポレオン:「余の戦争には、二つの側面があった。一つは——革命の理念を広めること。自由、平等、法の前の正義。封建制度を打破し、民衆を解放すること。これは善だと、余は信じている」


アーレント:「もう一つは?」


ナポレオン:「征服欲。栄光への渇望。余は正直に認める——余には野心があった。ヨーロッパを支配したいという欲望が。その欲望が、どこまでが理念で、どこまでが私欲か——余自身にも、正確には分からぬ」


(窓の方を向き、遠い目をする)


ナポレオン:「ロシア遠征。あれは余の最大の過ちだった。理念のためではなかった。大陸封鎖令を完遂するため——つまり、イギリスを屈服させるため——余は60万の大軍をロシアに送った」


ハンムラビ:「結果は?」


ナポレオン:「壊滅だ。冬将軍に敗れた——とよく言われるが、それは言い訳に過ぎぬ。余の判断が誤っていたのだ。補給線の問題、撤退のタイミング、すべてにおいて」


アーレント:「あなたは『考えて』いましたか? その決断の時に」


ナポレオン:(振り返り、アーレントを見つめる)「……余は考えていた。考え抜いたつもりだった。しかし——」


(席に戻りながら)


ナポレオン:「余は、自分の判断を過信していた。これまで勝ち続けてきたから、今回も勝てると。それは——思考停止ではないが——思考の歪みだったかもしれぬ」


スピノザ:「興味深い告白です。あなたは自分の限界を認められた」


ナポレオン:「セントヘレナで6年間、余はそれを考え続けた。孤島に閉じ込められ、することは回想と反省だけ。余は自分の過ちを、骨の髄まで理解した」


あすか:「その反省の結果、何が見えましたか?」


ナポレオン:「余の真の栄光は、40回の戦勝ではない。ナポレオン法典だ」


ハンムラビ:「法典か」


ナポレオン:「然り。余が死んでも、法典は残る。それがヨーロッパの法律の基礎となり、人々の生活を変える。戦争で得た領土はすべて失った。しかし、法典という遺産は——今も生きている」


アーレント:「しかし皇帝陛下、法典を作るために戦争が必要だったのでしょうか?」


ナポレオン:「必要だった——と言いたいところだが、正直、分からぬ。別の道があったかもしれぬ。しかし、余が生きた時代、余に見えていた選択肢の中では——戦争なしに革命を守ることは不可能に思えた」


スピノザ:「つまり、あなたの認識の限界内では、戦争は必要だった」


ナポレオン:「そう言ってもよい。余は神ではない。全知ではない。余が持っていた情報、余が見ていた世界の中で、余は最善と思える決断をした。その決断が誤りを含んでいたことは、今なら分かる」


あすか:「ハンムラビ王、ナポレオンさんの戦争を、法の視点からどう評価されますか?」


ハンムラビ:「戦争には法がある。いや、あるべきだ。余の時代にも、戦争の作法——捕虜の扱い、民間人の保護、略奪の禁止——を定めていた」


ナポレオン:「余もそのような規則は設けていた。しかし——完璧には守られなかった」


ハンムラビ:「そこが問題だ。法を定めても、それが守られなければ意味がない。貴公の軍隊は、どの程度規律を保っていた?」


ナポレオン:「正規軍は概ね規律正しかった。しかし、占領地での略奪、スペインでのゲリラ戦への報復——余の目の届かぬところで、残虐行為があったことは否定せぬ」


アーレント:「そして、それは『あなたの責任ではない』のですか?」


ナポレオン:「……余の責任だ。余が最高司令官だった。部下の行為は、余の責任に帰する」


アーレント:「その点は評価します。しかし、責任を認めることと、それを防ぐことは、別の話です」


ナポレオン:「防ぐことは——不可能だった。戦場の混乱の中で、完璧な規律を保つことは」


スピノザ:「不可能だったのか、不可能だと信じていたのか——その区別は重要です」


ナポレオン:「哲学者よ、貴公は戦場を知らぬ。理論と現実は違う」


スピノザ:「おっしゃる通り、私は戦場を知りません。しかし、『不可能だ』という信念が、思考を停止させることがあります。『もっと努力すれば可能だったかもしれない』という可能性を、最初から排除してしまう」


ナポレオン:(苛立ちを抑えながら)「では、貴公ならどうした? 60万の軍隊を、完璧な規律の下に統制できると?」


スピノザ:「私にはできません。しかし、それは私が軍事的才能を持たないからです。あなたには才能があった。その才能を、勝利のためだけでなく、規律のためにも使えたのではありませんか?」


ナポレオン:「……」


アーレント:「皇帝陛下、私はあなたを断罪したいのではありません。あなたはアイヒマンとは違う。考えて決断し、責任を認めている。しかし——」


ナポレオン:「しかし?」


アーレント:「あなたの決断の結果、何百万人もが死んだ。その事実は変わりません。『考えていた』ことは、免罪符にはならない」


ナポレオン:「では、何をすれば免罪されるのだ?」


アーレント:「免罪されることはありません。しかし、それを認識し続けること——自分の行為の重みを忘れないこと——それが、せめてもの誠実さではないでしょうか」


ナポレオン:(深く息を吐いて)「……余は忘れておらぬ。セントヘレナの夜、余は夢を見た。死んでいった兵士たちの顔を。彼らの多くは、余の名を叫びながら死んだ。『皇帝万歳』と。その声が——今も耳に残っている」


(静寂が流れる)


ハンムラビ:「王の重荷だな。余も知っている。民を守るために戦い、民を死なせる。その矛盾を背負うのが、王という存在だ」


ナポレオン:「王よ、貴公には分かってもらえるか」


ハンムラビ:「分かる。余もメソポタミアを統一するために戦った。余の手も、血で汚れている」


---


あすか:「ここで、三つ目の事例に移りましょう。ハンムラビ王、あなたの法典についてです」


ハンムラビ:「先ほど、余の法典に問題があると言っておったな」


あすか:「検証させてください。法典には、身分によって刑罰が異なる条文がありますね」


ハンムラビ:「ある。自由人、半自由人、奴隷——それぞれで扱いが異なる」


アーレント:「具体的には、どのような違いがあるのですか?」


ハンムラビ:「例えば、自由人が自由人の目を潰せば、その者の目も潰される。しかし、自由人が奴隷の目を潰した場合は、金銭で償う」


スピノザ:「つまり、奴隷の身体は、自由人の身体より価値が低いと」


ハンムラビ:「そのように解釈することもできる。しかし、余の意図は——」


アーレント:「王よ、現代の感覚では、これは明らかな不正義です。すべての人間は平等であるべきではありませんか?」


ハンムラビ:(少し声を荒げて)「娘よ、4000年も未来の感覚で余を裁くのか?」


(立ち上がり、威厳を込めて)


ハンムラビ:「余の時代、身分制度は社会の基盤だった。自由人と奴隷の区別は、天地の別と同じくらい自明のことだった。それを無視して法を作れば、法は守られぬ。守られぬ法に、何の意味がある?」


スピノザ:「王のおっしゃることには一理あります。法は、その時代の社会的合意を反映するものです」


アーレント:「しかし、その論理では——ナチスの法も、当時のドイツ社会の合意を反映していたことになります」


ハンムラビ:「それは——」


アーレント:「王よ、私はあなたを非難したいのではありません。4000年前の社会で、あなたの法典は画期的でした。弱者保護の理念、過剰な報復の禁止——これらは時代を超えた価値を持っています」


ハンムラビ:「では、何が問題なのだ」


アーレント:「問題は、法を『絶対的な基準』と見なすことです。あなたの法典は、あなたの時代には正しかったかもしれない。しかし、それが永遠に正しいわけではない」


ナポレオン:「そこで余の出番だ」


(自信に満ちて)


ナポレオン:「余の法典——ナポレオン法典は、『法の前の平等』を確立した。身分に関係なく、同じ法で裁かれる。これは、ハンムラビ王の法典からの進歩だ」


ハンムラビ:「ほう、進歩と言うか」


ナポレオン:「余は敬意を込めて言っている。貴公の法典がなければ、余の法典もなかった。しかし、2000年の間に、人類は進歩した。余の法典は、その進歩を反映している」


アーレント:「では皇帝陛下、あなたの法典は、植民地の人々にも適用されたのですか?」


ナポレオン:「……」


アーレント:「ハイチでは、奴隷反乱を弾圧し、奴隷制を復活させましたね。『法の前の平等』は、どこへ行ったのですか?」


ナポレオン:(苦々しい表情で)「あれは——経済的な必要性があった。フランスの砂糖産業を維持するために」


アーレント:「経済的必要性。それは、奴隷制を正当化する理由になりますか?」


ナポレオン:「正当化はせぬ。しかし——」


スピノザ:「ここに、興味深いパターンが見えます」


あすか:「パターン?」


スピノザ:「ハンムラビ王は、自分の時代の身分制度を『当然のこと』として受け入れていた。ナポレオン皇帝は、植民地での奴隷制を『経済的必要性』として容認した。どちらも、自分の時代の『当たり前』を疑わなかった」


アーレント:「そう、それこそが問題です。私たちは皆、自分の時代の『当たり前』に囚われている。それを疑うことが、思考の第一歩なのです」


ハンムラビ:「しかし、すべての『当たり前』を疑っていたら、何も決められぬではないか」


アーレント:「すべてを疑う必要はありません。しかし、自分の判断が『当たり前』に影響されていないか、常に点検する必要があります」


ナポレオン:「それは——」


(考え込むように)


ナポレオン:「余がハイチで奴隷制を復活させた時、余は『当たり前』に囚われていたのか? 植民地経営とは、そういうものだという——」


アーレント:「おそらく、そうでしょう。あなたはフランス本土では革命の理念を守った。しかし、植民地では——その理念を適用することを、無意識のうちに除外していた」


スピノザ:「認知の範囲の問題ですね。私たちの思考には、必ず盲点がある」


ハンムラビ:「では、どうすればよいのだ? 盲点があることは認める。しかし、盲点が見えないからこそ、盲点なのだろう」


アーレント:「だからこそ、対話が必要なのです。異なる視点を持つ者との対話。自分一人では見えない盲点を、他者が指摘してくれる」


ナポレオン:「今夜のこの対話のように?」


アーレント:「ええ、まさに。王よ、皇帝陛下よ、私はあなたたちを断罪したいのではありません。あなたたちの限界を指摘することで、私自身の限界についても考えたいのです」


スピノザ:「謙虚な姿勢ですね」


アーレント:「私にも盲点はあります。20世紀の人間として、私が『当たり前』と思っていることの中にも、未来の人々から見れば誤りがあるかもしれない」


ハンムラビ:「では、絶対的な正しさなど、存在しないのか?」


アーレント:「絶対的な正しさ——それは分かりません。しかし、絶対的な誤り——それは存在すると、私は信じています」


あすか:「絶対的な誤り、とは?」


アーレント:「人間を人間として扱わないこと。他者の尊厳を完全に否定すること。ホロコーストのような——いかなる時代、いかなる文化においても、それは誤りだと、私は信じています」


ハンムラビ:「それは……余にも理解できる。余の法典の序文にも、弱者を守る理念があった」


スピノザ:「私も、その点には同意します。善悪が相対的だとしても、人間の苦しみは現実です。苦しみを最小化することは、どの立場からも正当化できる」


ナポレオン:「余も——認めよう。余の戦争は、多くの苦しみを生んだ。それは、いかなる理念によっても、完全には正当化できない」


---


あすか:「ここで、ラウンド2を整理させてください」


(クロノスを操作すると、三つの事例が図示される)


あすか:「三つの具体例を通じて、それぞれの立場の強みと限界が見えてきました」


(アイヒマンの図を指しながら)


あすか:「アイヒマン——法に従っていても、悪は成立しうる。法は必要条件だが、十分条件ではない」


ハンムラビ:「認めよう。法だけでは不十分かもしれぬ」


(ナポレオンの図を指しながら)


あすか:「ナポレオンの戦争——考えて決断しても、その思考に盲点があれば、悪を生みうる。思考は重要だが、万能ではない」


アーレント:「その通りです。思考は出発点であって、終着点ではありません」


(ハンムラビ法典の図を指しながら)


あすか:「ハンムラビ法典——時代の『当たり前』を反映した法は、後の時代から見れば不正義になりうる。法も思考も、時代の制約を受ける」


スピノザ:「だからこそ、私は『悪』という概念を相対化したいのです。絶対的な悪の基準がなければ、私たちは謙虚にならざるを得ない」


ナポレオン:「しかし、謙虚さだけでは世界は動かぬ。決断する勇気も必要だ」


あすか:「法は明確な基準を与えるが、法自体が不正義になることもある。思考は重要だが、思考に盲点があれば誤りを防げない。歴史は評価を変えるが、それで今の判断ができるわけではない」


(四人を見渡す)


あすか:「それぞれの立場に、強みと限界がある。どれか一つだけでは、悪を完全に定義することも、防ぐこともできない」


アーレント:「だからこそ、複数の視点が必要なのです」


ハンムラビ:「法と思考の両方が必要、ということか」


スピノザ:「そして、自分の限界を認識する謙虚さも」


ナポレオン:「しかし、最終的には決断しなければならぬ。謙虚さと決断のバランスが難しい」


あすか:「そのバランスをどう取るか——それが次のラウンドのテーマです」


(クロノスが「TO BE CONTINUED...」と表示する)


あすか:「ラウンド3のテーマは『悪と正義の境界』。必要悪は存在するのか、考えることの限界はどこにあるのか——さらに深い議論に進みましょう」


(照明が変化の準備を始める)


あすか:「——少し休憩を挟んで、ラウンド3に参ります」

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