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ラウンド1:「悪の定義」──四つの視座を明らかにする

(照明が切り替わり、スタジオ全体が白色基調の知的な雰囲気に包まれる。静かなアンビエント音楽が流れる中、あすかがクロノスを操作する)


あすか:「さあ、最初のラウンドを始めましょう。テーマは『悪の定義』です」


(クロノスから「ROUND 1:悪の定義」というホログラムが投影される)


あすか:「先ほど、皆さんには一言で『悪とは何か』をお答えいただきました。法への違反、人間の認識、思考の放棄、歴史の審判——四つの答えは、まるで別の言語のようにも聞こえます」


(四人を見渡す)


あすか:「このラウンドでは、それぞれの立場をより深く掘り下げていただきます。なぜそう考えるのか、その根拠は何か、そして——他の立場への疑問があれば、遠慮なくぶつけてください」


ナポレオン:「遠慮なく、か。余は遠慮というものを知らぬ」


アーレント:「それは美徳なのか欠点なのか、議論の余地がありそうですね」


ナポレオン:(笑いながら)「女史は手厳しい。気に入った」


あすか:「では、順番に参りましょう。まずはハンムラビ王から。なぜ『法に反すること』が悪なのか、詳しくお聞かせください」



ハンムラビ:(居住まいを正し、威厳を持って語り始める)「よかろう。まず、余がバビロンを治める前の世界を想像してもらいたい」


(テーブルに手を置き、遠い目をする)


ハンムラビ:「都市国家が乱立し、王が立っては倒れ、民は誰を信じてよいか分からなかった。商人は取引で騙され、農民は収穫を奪われ、女子供は強者の慰み者にされた。誰もが自分の『正義』を振りかざし、血で血を洗う争いが絶えなかった」


スピノザ:「混沌の時代、ということですね」


ハンムラビ:「然り。そして余は考えた——なぜこのような混沌が生まれるのか、と」


(指を一本立てる)


ハンムラビ:「答えは明白だった。人の心の中にある『善悪』が、人それぞれで異なるからだ。ある者は復讐を正義と呼び、ある者は略奪を権利と呼ぶ。基準がなければ、誰もが自分を正当化できる」


あすか:「つまり、主観的な善悪では秩序が保てない、と」


ハンムラビ:「その通りだ、娘よ。そこで余は決断した。万人が見える形で、『これが悪だ』と示さねばならぬ、と」


(立ち上がり、壁面の楔形文字のレリーフを指す)


ハンムラビ:「余は282の条文を石に刻んだ。殺人、窃盗、詐欺、姦淫——何が罰せられ、どのように罰せられるかを明文化した。『目には目を』とは、過剰な報復を禁じる言葉だ。10倍にして返す復讐を、同等の報いに留めよ、という——均衡の思想だ」


アーレント:「興味深いですね。法は復讐を制限するものでもあった、と」


ハンムラビ:「然り。法なき社会では、復讐が復讐を呼び、際限なく血が流れる。法があれば、被害者は国家に訴え、国家が公正に裁く。個人の怒りを、制度が受け止めるのだ」


(席に戻りながら)


ハンムラビ:「余の法典の序文には、こう記した。『強者が弱者を虐げないように、孤児と寡婦に正義をもたらすために』、と。法とは権力の道具ではない。権力を縛る鎖であり、弱者を守る盾なのだ」


ナポレオン:「見事だ、王よ。余もその理念には共感する。余の法典——ナポレオン法典も、同じ志から生まれた」


ハンムラビ:「であれば、貴公には分かるはずだ。法に反することが悪であり、法に従うことが善である。これ以上に明確な基準があるか?」


あすか:「法に書かれていない悪は、悪ではないのでしょうか?」


ハンムラビ:(少し考えてから)「難しい問いだ。しかし余はこう答える——法に書かれていないならば、それは裁けぬ。裁けぬものを『悪』と呼ぶことは、かえって危険ではないか」


スピノザ:「危険、とおっしゃいますと?」


ハンムラビ:「法に書かれていない『悪』を裁こうとすれば、裁く者の主観が介入する。それは法の支配ではなく、人の支配だ。気に入らぬ者を『悪』と呼んで罰することが可能になる。それこそが暴政ではないか」


アーレント:「王よ、その論理には一理あります。しかし——」


ハンムラビ:(手を挙げて)「待たれよ。余の話はまだ終わっておらぬ」


(真剣な眼差しで全員を見渡す)


ハンムラビ:「余が言いたいのは、法が完璧だということではない。法は人間が作るものゆえ、不完全であり得る。しかし、不完全であっても、法があることが重要なのだ。基準があれば、それを改良することもできる。基準がなければ、改良のしようもない」


あすか:「法は出発点であって、終着点ではない、と」


ハンムラビ:「そうだ。余の法典も、後の時代に改良されたと聞く。それでよい。法は生き物のように成長するものだ。しかし、その出発点——『悪を明文化する』という営みなくして、文明は成り立たぬ」



あすか:「ありがとうございます。では、スピノザさん。王の主張に対して、お考えをお聞かせください」


スピノザ:(穏やかに微笑みながら)「王よ、まずお言葉に敬意を表します。あなたの法典が4000年もの間、人類の記憶に残っているのは、その理念が普遍的な価値を持つからでしょう」


ハンムラビ:「感謝する」


スピノザ:「しかし、私には一つ、根本的な疑問があります」


(身を乗り出す)


スピノザ:「王よ、法に書かれたから『悪』が生じたのではありません。順序が逆なのです」


ハンムラビ:「どういう意味だ?」


スピノザ:「人間がまず『不都合だ』と感じるものがあり、それに対して後から『悪』というラベルを貼った。法典は、そのラベルを整理したものに過ぎません」


ハンムラビ:「それは言葉遊びではないか? 結果として悪が定義されたのだから——」


スピノザ:「いいえ、これは本質的な違いです。考えてみてください。自然界には『悪』がありますか?」


(静かに問いかける)


スピノザ:「ライオンがシマウマを殺す。これは悪ですか? 蜂が人を刺して死なせる。これは悪ですか? 地震が都市を崩壊させ、何千人もの命を奪う。これは悪ですか?」


ナポレオン:「それは自然災害だ。人間の行為とは違う」


スピノザ:「では、人間の行為と自然現象の違いは何ですか? 皇帝陛下」


ナポレオン:「人間には意志がある。選択がある」


スピノザ:「本当にそうでしょうか? 私の哲学では、人間もまた自然の一部です。私たちの行動は、先行する原因によって決定されています。『自由意志』というのは、原因を知らないことから生じる幻想に過ぎません」


アーレント:「それは決定論ですね。すべては因果によって決まっている、と」


スピノザ:「その通りです、アーレントさん。そして、もしすべてが因果によって決まっているならば——誰かを『悪』と呼んで非難することに、どんな意味があるでしょうか?」


ハンムラビ:「待て、哲学者よ。それでは殺人者を罰することもできぬではないか」


スピノザ:「罰することはできます。しかし、それは『悪への報い』ではなく、『社会を守るための措置』として、です。蜂の巣を駆除するのと同じように——危険を排除するのであって、蜂を『悪』として断罪しているのではありません」


(穏やかだが確固とした口調で)


スピノザ:「王よ、私は殺人を肯定しているのではありません。殺人が人間社会にとって不都合であり、防ぐべきものであることは認めます。しかし、『悪』という概念を持ち出す必要があるでしょうか? 『不都合』で十分ではありませんか?」


あすか:「『悪』と『不都合』の違いは何でしょう?」


スピノザ:「『悪』という言葉には、道徳的な断罪が含まれます。『お前は悪い人間だ』という非難。しかし、『不都合』には、それがありません。『お前の行為は社会にとって有害だ』という事実の指摘だけです」


アーレント:「しかしスピノザさん、その区別は——被害者にとって意味がありますか?」


スピノザ:「……どういう意味でしょうか」


アーレント:「殺された人の遺族にとって、殺人者が『悪』であるか『社会にとって不都合な存在』であるかは、どうでもいいことかもしれません。彼らが求めているのは、正義の感覚——悪が裁かれたという満足感です」


スピノザ:「それは理解できます。しかし、その『正義の感覚』もまた、人間の感情の一種です。感情は、物事の真の姿を歪めます」


アーレント:「感情を排除すれば、真理に近づける、と?」


スピノザ:「少なくとも、より冷静な判断ができます。『悪』という概念は、しばしば憎悪を正当化するために使われます。『あいつは悪だから、何をしてもいい』——そのような思考が、新たな暴力を生むのではありませんか?」


ハンムラビ:「だからこそ法があるのだ。法は感情を制御し、報復を均衡の範囲内に留める」


スピノザ:「王よ、それはおっしゃる通りです。法は感情の暴走を防ぐ。その点で、私はあなたの法典を高く評価します。しかし——」


(少し間を置いて)


スピノザ:「法が『悪の定義』だと考えると、危険も生じます。法に従えば善、法に反すれば悪——この二分法は、時に思考を停止させます。『法だから正しい』と」


アーレント:「……それは、私が最も恐れることです」


スピノザ:「そうでしょう、アーレントさん。あなたが見たアイヒマンも、『法に従っただけ』と主張したのでしょう?」


アーレント:「ええ。まさにその通りでした」



あすか:「アーレントさん、ここで詳しくお聞かせください。あなたの言う『悪の凡庸さ』とは、どういう概念なのでしょうか?」


アーレント:(煙草を指で弄びながら、少し間を置く)「1961年、私はエルサレムに行きました。アドルフ・アイヒマン——ナチス親衛隊中佐で、ユダヤ人の『最終解決』、つまり大量虐殺の実務責任者だった男の裁判を傍聴するためです」


(遠い目をする)


アーレント:「私は怪物を見に行ったのです。600万人もの同胞を死に追いやった男。きっと悪魔のような眼をしている、残忍な笑みを浮かべている、そう想像していました」


ナポレオン:「実際はどうだった?」


アーレント:「そこにいたのは——恐ろしく普通の男でした。中背で、額が後退した、どこにでもいそうな官僚。法廷での彼は、陳腐なフレーズを繰り返すばかりでした。『私は命令に従っただけです』『私は法律を遵守しました』『私は歯車の一つに過ぎません』」


ハンムラビ:「法に従った、と主張したのか」


アーレント:「ええ、王よ。それどころか、彼はカントを引用しました。『私はカントの義務論に従って生きてきた』と。あの偉大な哲学者の名を、このような形で!」


スピノザ:「カントの義務論を、どのように解釈していたのですか?」


アーレント:「歪曲していたのです。カントは『自分の行為の原則が、普遍的法則となりうるか考えよ』と言いました。しかしアイヒマンは、これを『総統の意志が法である。それに従え』と読み替えた」


(声に力がこもる)


アーレント:「これは思考ではありません。思考の放棄です。カントが求めたのは、自分で考え、自分で判断することでした。アイヒマンがやったのは、考えることを他人に委ね、自分は機械のように命令を実行することでした」


あすか:「彼は自分の行為の意味を理解していなかったのでしょうか?」


アーレント:「理解していなかった——というより、理解しようとしなかったのです。彼は移送リストを作成し、列車の時刻表を調整し、効率よくユダヤ人を収容所に送ることに専念しました。その先で何が起きるか、彼は知っていました。しかし、それを『自分の責任』とは考えなかった」


ナポレオン:「しかし、命令に従う者には責任がないのか? 軍隊では、命令への服従は美徳だ」


アーレント:「皇帝陛下、軍隊の規律と、人間としての責任は別のものです。いかなる命令も、『無辜の人間を大量に殺してよい』という許可を与えることはできません。そのような命令に従うことを拒否する——それが人間の義務です」


ハンムラビ:「しかし、法に従った者をどう裁くのだ? ニュルンベルク法というものがあったのだろう? 当時のドイツでは、彼の行為は合法だった」


アーレント:「王よ、それこそが問題の核心です」


(立ち上がり、歩きながら話す)


アーレント:「法には二種類あります。一つは、人間が作る実定法——王の法典、国家の法律、そういうものです。もう一つは——人間であることから生じる、より根源的な法。人間性の法、とでも呼びましょうか」


ハンムラビ:「人間性の法?」


アーレント:「いかなる実定法も、『人間を人間として扱わなくてよい』という許可を与えることはできません。もしそのような法があるなら、それは法ではない——合法的な形をとった犯罪です」


スピノザ:「しかし、その『人間性の法』の内容は、誰が決めるのですか? それもまた、人間の主観ではありませんか?」


アーレント:「鋭い指摘です、スピノザさん。確かに、その境界線を引くことは難しい。しかし、いくつかの極限状態——ホロコーストのような——においては、境界線は明確です。『すべてのユダヤ人を殺せ』という命令に従うべきではない。それは、いかなる法的正当化も許されない」


ナポレオン:「では、戦争はどうだ? 余は100万の兵を死なせた。余の命令に従った兵士たちは、悪に加担したのか?」


アーレント:(ナポレオンを真っ直ぐ見つめて)「皇帝陛下、あなたは良い質問をされました。戦争における責任は、確かに複雑です。しかし、私が言いたいのは——」


(席に戻りながら)


アーレント:「悪に加担するのは、怪物的な悪意を持った人間だけではない、ということです。普通の人間が、考えることをやめた時、巨大な悪が生まれる。アイヒマンは悪魔ではなかった。彼はただ——恐ろしく凡庸だった」


あすか:「『悪の凡庸さ』——その言葉には、どのような意味が込められているのでしょうか」


アーレント:「誤解されやすいのですが、『悪が些細なものだ』という意味ではありません。悪を為す人間が、凡庸でありうるということです。特別な悪意、残忍な性格、そういうものがなくても——思考を停止した普通の人間が、歴史上最悪の犯罪に加担できる」


(静かに、しかし力強く)


アーレント:「だからこそ、恐ろしいのです。アイヒマンが怪物なら、私たちは安心できます。『自分はあのような怪物にはならない』と。しかし、彼が凡庸な人間だったとすれば——私たちの誰もが、同じ状況で同じことをする可能性がある」


ハンムラビ:「……なんと恐ろしいことを言う」


アーレント:「恐ろしい、しかし真実です。だからこそ、考え続けることが必要なのです。『これは正しいのか?』『私は何をしているのか?』——その問いを放棄した瞬間、人は悪に転落します」



あすか:「ナポレオンさん、ここまでの議論をどうお聞きになりましたか?」


ナポレオン:(腕を組んだまま、しばらく黙っていたが、やおら口を開く)「諸君の議論は実に興味深い。法、認識、思考——すべて書斎で語られる言葉だ」


アーレント:「書斎の言葉、ですか」


ナポレオン:「余は戦場で生きてきた。書斎ではない。100万の兵を率い、ヨーロッパの半分を征服し、そして——すべてを失った」


(立ち上がり、ゆっくりと歩き始める)


ナポレオン:「余を悪と呼ぶ者は多い。『コルシカの怪物』『ヨーロッパの暴君』『100万の殺人者』——余はそのすべてを聞いてきた」


ハンムラビ:「貴公は、それをどう思う?」


ナポレオン:「余が思うに——それは敗者に与えられる称号だ」


(窓際で立ち止まり、振り返る)


ナポレオン:「アウステルリッツで余が勝った時、誰も余を悪とは呼ばなかった。『解放者ナポレオン』『革命の英雄』——民衆は余を称え、兵士は余のために死ぬことを光栄と思った」


スピノザ:「勝者と敗者で、評価が変わる、と」


ナポレオン:「その通りだ、哲学者よ。ワーテルローで余が敗れた時、突然すべてが変わった。同じ行為が、同じ戦争が——勝てば栄光、負ければ犯罪。これが歴史というものだ」


アーレント:「しかし皇帝陛下、それは——あまりにも虚無的ではありませんか? 善悪に意味がないなら、何を基準に行動すればよいのです」


ナポレオン:「おお、女史は余を虚無主義者だと思うか? それは誤解だ」


(席に戻りながら)


ナポレオン:「余は善悪を否定しているのではない。善悪の『絶対性』を否定しているのだ。善悪は存在する——しかし、それは時代と状況によって変わりうる」


ハンムラビ:「では、貴公は何を基準に行動したのだ?」


ナポレオン:「理念だ。余はフランス革命の理念を信じた——自由、平等、法の前の正義。封建領主どもがヨーロッパを支配し、民衆を搾取していた。余はそれを壊した」


あすか:「しかし、その過程で多くの血が流れました」


ナポレオン:「流れた。否定はせぬ。しかし——」


(真剣な眼差しで)


ナポレオン:「木を伐らずに森を拓くことはできぬ。旧体制を壊さずに、新しい秩序を作ることはできぬ。余の戦争は、単なる征服欲ではなかった。革命の理念を広めるための戦いだった」


スピノザ:「目的が手段を正当化する、ということですか?」


ナポレオン:「そう単純ではない。余は——」


(言葉を選びながら)


ナポレオン:「余は、目的と手段の両方を見なければならぬと考える。崇高な目的のためでも、いかなる手段も許されるわけではない。しかし同時に、手段の清潔さだけを追求して、目的を達成できなければ、それも無意味だ」


アーレント:「では、どこに線を引くのですか?」


ナポレオン:「それを決めるのが、指導者の役割だ。余は決断した。余の決断が正しかったかどうか——それは歴史が判断する」


ハンムラビ:「しかし、歴史の判断を待っていては、今の行動を決められぬ」


ナポレオン:「然り。だから余は言う——決断する勇気を持て、と。歴史に判断を委ねつつも、今この瞬間に決断する。その矛盾を引き受けることが、指導者の責任だ」


アーレント:「責任、ですか。あなたは責任という言葉を使われる。しかし——」


(少し考えてから)


アーレント:「あなたの兵士たちはどうですか? あなたの命令に従って戦い、死んでいった人々。彼らに責任はありますか?」


ナポレオン:「彼らは——余の理念を信じて戦った」


アーレント:「本当にそうですか? 彼らの一人一人が、革命の理念を理解していましたか? それとも——ただ命令に従っただけでは?」


ナポレオン:(一瞬言葉に詰まる)「……」


アーレント:「これが私の言いたいことです。指導者が理念を持っていても、それだけでは不十分なのです。システムの中で、一人一人が考えることをやめれば——」


ナポレオン:「余の兵士たちを、アイヒマンと同列に置くのか?」


アーレント:「同列ではありません。しかし、構造は似ている。組織の中で、個人が思考を放棄する——その危険は、どんな組織にも存在します」


ナポレオン:(深く息を吐いて)「……認めよう。余の軍隊の中にも、理念を理解せず、ただ命令に従っていた者はいただろう。しかし——」


(力を込めて)


ナポレオン:「それでも、余は彼らを責めない。戦場で、哲学的に思考する余裕などないのだ。敵が攻めてくる。今決断しなければ全滅する。その瞬間に、『これは正しいか?』と問うている暇はない」


スピノザ:「だからこそ、平時に考えておくのです」


ナポレオン:「何?」


スピノザ:「戦場で考える余裕がないなら、平時に考えておく。自分の原則を確立しておく。そうすれば、いざという時にも、その原則に従って行動できます」


ナポレオン:(少し考えて)「……なるほど。確かに、余もそうしていた。戦略は事前に練り上げた。戦場での即興に見えても、実は長い思考の結果だった」


スピノザ:「それこそが、思考の力です。危機の瞬間に機能するのは、日頃から鍛えられた判断力。それがなければ、人は——」


アーレント:「命令に従うだけの機械になる」



あすか:「ここで、ラウンド1を整理させてください」


(クロノスを操作すると、四つの立場が図示される)


あすか:「四つの視座が出揃いました。ハンムラビ王は『法への違反』を悪とし、明文化された基準の必要性を説かれました」


ハンムラビ:「然り。法なくして秩序なし。秩序なくして文明なし」


あすか:「スピノザさんは『悪は実在しない』とし、それは人間の認識が生み出した概念だと指摘されました」


スピノザ:「悪という概念を使わなくても、社会は運営できます。必要なのは理解であり、断罪ではありません」


あすか:「アーレントさんは『思考の放棄』こそ悪の根源だとし、考え続けることの重要性を強調されました」


アーレント:「悪は怪物から生まれるとは限りません。凡庸な人間が、考えることをやめた時、最も恐ろしい悪が生まれます」


あすか:「そしてナポレオンさんは『歴史が悪を決める』とし、善悪の絶対性への懐疑を示されました」


ナポレオン:「勝てば正義、負ければ悪——それが歴史の冷酷な真実だ。しかし、だからこそ理念を持ち、責任を引き受けることが重要なのだ」


あすか:「四者四様。見事に異なる立場ですが——」


(少し間を置いて)


あすか:「興味深いことに、いくつかの接点も見えてきました。ハンムラビ王の『法は感情を制御する』という考えと、スピノザさんの『感情を理解することで解放される』という考え。アーレントさんの『思考の重要性』と、ナポレオンさんの『平時に考えておく』という認識」


スピノザ:「確かに。完全に対立しているわけではありませんね」


アーレント:「対話の意味がありますね。他者の視点を取り入れることで、自分の考えも深まります」


ナポレオン:「余も認めよう——女史の指摘には、考えさせられるものがあった」


ハンムラビ:「余もだ。法だけでは不十分かもしれぬ——その可能性を、余は4000年前には考えなかった」


あすか:「対話は、まだ始まったばかりです。次のラウンドでは、これらの立場を具体例で検証していきます。法は万能なのか? 思考は常に正しい答えを出せるのか? 歴史の評価は、本当に変わるのか?」


(クロノスが「TO BE CONTINUED...」と表示する)


あすか:「ラウンド2のテーマは『悪の具体例』。アイヒマン、ナポレオンの戦争、ハンムラビ法典の身分制度——歴史上の事例を通じて、議論をさらに深めていきましょう」


(照明が切り替わりの準備を始める)


あすか:「——少し休憩を挟んで、ラウンド2に参ります」

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