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08.妖精の住む湖

 エトワール校での一年目が終業間近まで迫っていた。


 十二公爵が一つ、リオン公爵家の嫡男リュドウィック・クーザン。同じく十二公爵のスコルピオン公爵家のロベール・ブラック。広大な土地を治めるフルーヴ侯爵令嬢のミレーユ・ゲラン。由緒正しきヴェール伯爵家のイリス・コスト。


 ノブルクラブ室の一画で、四人の一年生がテーブルを囲んで過ごす姿は日常と化した。


「王子殿下が狩りに出かけるそうよ。隣国の大使を接待するのですって」


 ミレーユが頬杖をついて、目の前にいるリュドウィックを眺めながら言った。


 リュドウィックは単なる世間話だと思い、特に反応を示さなかった。ロベールは、良い返答がわからず、相槌すら打てなかった。


 王子が狩りを企画しており、王家の新たな狩場を舞台とするらしい。その狩場というのが……


「あんたの領地が近かったわよね?」

「げっ」


 ミレーユは唐突にイリスに目を向けた。イリスが嫌そうな顔をしても、ミレーユは気にせず続けた。


「もうすぐ夏休みじゃない? 皆で見に行きましょうよ」


 嫌な予感は的中した。イリスはミレーユが話し始めた時から、この流れになる予感がしていた。


 でも、まだ焦る時ではない。ミレーユの提案に誰が乗るというのだろう。リュドウィックは遊びに付き合うタイプでないし、ロベールは女子と出かけることを躊躇うに決まっている。


「それって、私の家に泊まりたいってこと?」


 不満を込めて言うと、ミレーユは勝ち誇ったような顔になった。イリスを困らせることはミレーユの喜びの種なのだ。


「ええ。そういうこと!」


 ここまで黙って聞いていたリュドウィックが、おもむろに顔を上げた。そして、予想に反して明るい声が発せられた。


「いいな」


 リュドウィックの一言で全てが決まった。ミレーユはリュドウィックに休みに会う口実ができたことに満面の笑みを見せ、ロベールは当然自分も付き合うものと思って覚悟を決めた。


「ええ~」


 イリスは長期休暇にもリュドウィックとミレーユの相手をしなければならないことに頭を抱えた。


 かくして、ミレーユによるツアーが敢行された。


 イリスがリュドウィック達を連れてくると、両親はたいそう喜んだ。良い友好関係を築けていると褒めた。特にカメリアは、公爵家令息を二人も連れて来たことに満足気だった。娘が男子と仲良くすることに、ヴァレリーは多少の複雑さを感じていたものの、小さな客人を盛大にもてなした。


 四人を歓迎したのは大人達だけではなかった。真っ黒な塊が子供達に向かって突進してきた。狙いはイリスだ。


「ぃやっ」


 イリスは恐怖にその場にしゃがみこんだ。イリスに飛びかかったのは、コスト家の番犬だ。


 彼は基本的に大人しいが、お気に入りのイリスには猛烈なアピールをしてしまう。久々の帰宅で興奮しているのだろう。強靭な筋力でイリスに駆け寄り、しゅっとした顔を破顔させて長い舌を垂らす。


 犬にのしかかられると思った時、間にリュドウィックが入った。犬は、大好きな少女の前に突然現れた人の為に足を止めた。


「プリンス!」


 リュドウィックはイリスも知らない犬の名を呼んだ。扱いも慣れている。しゃがんで、豪快に撫でてやる。番犬は見知らぬ人物に警戒していたのに、すぐに絆されてしまった。


「プリンス、急にどうしたんだ?」


 庭で走らせていた番犬が飛び出して行ったので、従僕が様子を見に来た。


「あ、お嬢様。お帰りだったのですね」


 従僕はしまったという顔をした。イリスの戻りを把握していなかった従僕が、彼を繋ぎ忘れてしまった。イリスが怖い目に遭うのは大抵この男のせいだ。


 その後、番犬がイリスの客人に構われているのを見ると、嬉しそうに笑った。世話している犬が可愛がられているのは、従僕にとっても喜ばしいことだった。


 プリンスは、完全にリュドウィックに降伏し、無防備に腹を見せた。


「番犬なのではなかったの?」


 イリスが白い目で見ると、従僕はへこへこと頭を下げた。


「申し訳ございません。私の躾がいたらず……」


 謝罪を右耳から左耳に受け流しながら、プリンスを遠目に眺めた。


 リュドウィックと関わりたいミレーユがじりじりと歩み寄っている。ロベールも犬を飼っているらしく、触りたそうにそわそわしている。


 注目を集めたプリンスはご機嫌に尻尾を振る。撫でられるのに満足すると、リュドウィックを遊びに誘った。お気に入りのボールを咥えて来て、投げるよう促した。リュドウィックは容赦なく全力投球し、プリンスを走らせた。プリンスは、犬の表情を読むのに慣れていないイリスにもわかるほど楽しそうだった。


「……結構可愛いね」

「そうなんですよ! 実は申し上げますと、旦那様がお嬢様の遊び相手にと考えておられたのです。ですから、番犬とは名ばかりの、甘やかされて育った子でして」

「ふーん」


 従僕はイリスの呟きを聞き逃さなかった。プリンスにも劣らぬ興奮具合で、愛犬の可愛さを語り始めた。従僕の話にさほど興味はなかったが、イリスのために用意された犬に対してはもう少し興味を持ってあげても良いのかもしれない。


 三人がコスト家の屋敷を訪ねたのは、王子の狩りを見に行くためだ。馬車に乗って狩場を目指した。だが、伯爵領を出たあたりで通行止めを食らった。他国の要人を招いての一大イベントなのだから、近づく者を制限するのは当然とも言える。


 ミレーユは出鼻をくじかれて、明らかに落ち込んでいた。イリスは彼女を慰めるつもりはなかったが、このまま三人を楽しませずに帰らせるわけにいかないので、湖へ行こうと誘った。


 ヴェール伯爵領には美しく、広大な湖がある。暑い夏でも湖では涼しい風が吹くため、避暑に適している。


 イリスが湖に寄ることを思いついたのは、平行世界の自分がマグノリアを誘っていたからだ。


 平行世界でも、ミレーユが狩りを見に行こうと言い出した。が、リュドウィックは話に乗らなかった。リュドウィックが来ないならミレーユの目的も失われるので、言いだしっぺの彼女も参加しなかった。ロベールも、今回のようにリュドウィックに強要されたと感じなければ、動かない。平行世界の夏、ヴェール伯爵領に遊びに来たのはマグノリアだけだった。


 ミレーユから聞いた話をマグノリアにし、二人で狩場を目指した。その時も同様に入場を断られ、行く当てをなくしてしまった。そこで提案したのが湖を見ることだった。


 周辺ではちょっとした観光地ともなっている湖には、ボートを貸し出す店がいくつかある。イリス達は二組に分かれて舟に乗ることにした。漕ぐのはもちろん従者達だ。


「リュドウィック様、一緒に乗りましょう」


 ミレーユはリュドウィックの腕をホールドして舟に乗り込んだ。リュドウィックは心底嫌そうにしていたが、舟の上で暴れることもできず、大人しく座った。


 イリスはミレーユ以外であれば誰とでも良かったので、ロベールと共に乗り込んだ。二人は向かい合って座った。


「お嬢様、日傘をお持ちください」


 出発の直前、侍女がイリスに傘を差しだした。イリスは「いい」と、それを断った。ミレーユと違って、まだまだお子様なイリスは日焼けを気にしない。


 それよりも先に出たミレーユの舟に後れを取ることの方が気になった。準備ができるとすぐに岸から離れさせた。


「魚はいるの?」

「いると思う。時々釣り大会をするって、パパが言ってたの」


 イリス達は湖の底を覗き込むように、縁に乗り出した。


「お嬢様方、安全のためお体を出しすぎないよう、お気をつけくださいませ」


 舟を操作する使用人が優しく注意した。


 二人は素直に言うことを聞いた。そっと頭を上げると、互いの顔が触れるほど近くにあった。ロベールの顔が瞬時に真っ赤に染まった。


 リュドウィックは、並走するボートからその様子を見ていた。


「おい!」


 リュドウィックが声を荒げる。それで動揺したロベールが舟を揺らした。


 ロベールが後ろにのけぞり、急に反対側のへりに体重がかかった。舟が左右に大きく揺れる。


「わ、わわ……」


 イリスは縁に必死にしがみついたが、ついに湖に落ちてしまった。


 ドポン! シュワワワワワ……


 水の音を聞いた後、イリスは呼吸できないことに気づいた。水面から顔を出さなければならないことは本能的にわかった。だが、水を吸った服は重く、体は浮きそうになかった。


 水に入ったことなんてない。生まれてこのかた、泳ぐなんて発想すらなかった。


 もがく腕が水泡を作って、視界が荒れる。水面が見えなくなって余計に焦る。


 生まれて初めて死を意識した。


(ひめさま)


 不意に誰かの声が聞こえた。呼ばれた気がして、下を見た。


 なぜか冷静になれた。もう大丈夫な気がした。変わらず息はできないけれど、ここで死ぬことはないと思った。


 イリスは落ち着いて水底を見た。影とも言い切れぬ、淀みがある。魚ではない何かがいる。


 その時、リュドウィックがイリスの名を叫び、一切の躊躇もなく飛び込んだ。


 ドポン。


 イリスの横で大量の水泡が発生し、金色の瞳を持った少年の影が現れた。


 水面上では使用人が救助のために服を脱いだり、浮き輪を用意したりしていた。ミレーユは青ざめて固まっており、ロベールは気を失ったようにぐったりしていた。


 ようやく使用人の一人が水に入ろうとした時、水面に二つの子供の顔が飛び出した。


「お嬢様!」


 使用人が安堵の表情を見せた。二人を何とか舟に引っ張り上げ、せめてものと自分達の上着をかけた。


 夏の日差しの下だったので、寒くはない。むしろ気持ちが良いくらいだ。


 とはいえ、顏に張り付く前髪は気になる。整えようとして、両手がふさがれていることに気が付いた。左手はリュドウィックに、右手はロベールに握られていた。


「ごめん、ごめん、ごめん……」


 舟を揺らした責任を感じ、ロベールはうわ言のように謝罪を繰り返した。イリスの手を握ったのは、負い目からだった。


 一方、リュドウィックは水の中でイリスを捕まえてからずっと、イリスの手を握って離さなかった。ボートで隣に座っても、イリスが無事であることに確信が持てないのか、存在を確かめるように強く掴んでいる。


 なんとなく離してと言い難く、イリスは両手を拘束されたまま岸につくのを待った。


 一人、別の舟に乗るミレーユは静観していたものの、正気に戻るとうるさかった。


「イリス・コスト! リュドウィック様から離れなさい!」


 波もない穏やかな湖に、ミレーユの騒々しい叫びがこだました。


 屋敷に戻ると、両親が玄関から飛び出してきた。真っ先にリュドウィックに駆け寄り、無事を確かめた。使用人から先振れがあったのだろう。


 ヴァレリーは家政婦に湯浴みの準備をさせ、すぐにリュドウィックに体を温めるよう言った。リュドウィックは言われるままに従った。


 イリスは全て後回しにされた。風呂だって、着替えだって、メイドが準備してくれたけれど、リュドウィックの方が優先されるのを感じた。それを悲しいとは言えなかった。


 伯爵と夫人は、体裁だけでも、自分の娘より公爵の子供を気にかけなければならなかった。娘のせいで飛び込んだというのだからなおさらだ。


 それに、二人が他所の子を預かる大人としての責務を投げ出してしまいそうなほど心配しているであろうこともわかっていた。それが察知できるくらいにはイリスも回復していた。


 その証拠に、夕食後、リュドウィックが客室で寝られるだけの十分な支度を整えると、両親が連れ立ってイリスの寝室にやってきた。


「ああ、お花ちゃん。怪我がなくて良かった。公爵の坊ちゃんは命の恩人だね」


 ヴァレリーがイリスを抱きしめ、頭を撫でた。カメリアもそばで慈愛に満ちた瞳で見守っている。


「私、泳げるようになりたいわ」


 父の腕の中で、イリスは希望を伝えた。


 カメリアは目を丸くした。イリスが自ら努力しようとする姿を見るのは、これが初めてだったからだ。これまで勉強や作法、音楽など、貴族の子として必要最低限の教育をしてきたが、イリスが進んで学びたがったことはない。イリスが好む運動とはいえ、何かに打ち込もうとするのは珍しく、喜ばしいことだった。


「そうだね。プールを作っておこう」


 ヴァレリーはイリスの望むことは何でも叶えてやりたいと思っている。娘に甘い父のことだから、言葉通り、泳ぎの訓練ができるだけの環境をすぐに用意するだろう。


 イリスは悔しかったのだ。溺れた時、水中では成す術がないと悟った。比べて、リュドウィックは着衣のまま難なく水中を進み、イリスに手を貸した。落ち着きを取り戻していたとはいえ、要救助者を抱えて水面に上がることはとても困難なことだ。彼には困難を現実に行うだけの力が備わっていた。このままでは到底いられない。


 湖に漂ってわかった。イリスには水と仲良くなれる自信がある。それが本物かどうか確かめたいとも思う。


 その夜、友人が同級生が泊まりに来ているというのに、両親はイリスと同じベッドに入った。


 もう親と一緒に寝る年齢ではないし、万が一ミレーユに知られたら馬鹿にされるに決まっている。嫌でも断りきれなかったのは、ヴァレリーに泣きつかれてしまったからだ。母にも、イリスが寄宿学校に行ってしまって寂しかったのだから、今日くらいは願いを聞いてあげてほしいと言われてしまった。心配をかけた自分の落ち度もあるので、イリスは結局受け入れた。


 父と母の間で、イリスは夢を見た。



***



『リュド。ねえ、見て。今日は星が綺麗に見えるの』


 自分から発せられる甘い声に驚いた。


 冬の夜は長い。学園の中から見上げた星空は、特別なものではなかった。近頃は天気が良い日が続いていて、空気も澄んでいるので、星空が見やすい。この日だけ突出して、天体観測に適しているのではなかった。


 それでも、話しかけられた相手は優しく応えた。


『そうだな。しし座はどこだ?』


 低い声に胸が高鳴った。


 視線の先にいる男性は、黒い髪の一房が左目にかかっている。前髪の陰で金色の瞳が輝いている。


 見慣れたものとは少し違うけれど、イリスはこの顔を知っている。


『からかわないでよ。しし座は春。知ってるでしょう?』

『試したんだ』

『天文は私の方が得意なのに?』

『天文だけは、な?』

『もう知らない』


 イリスが不貞腐れると、男は声を出して笑った。


 イリス(・・・)は彼の笑顔が好きだと思った。体の奥がじんわりと温かくなる。そして、なぜか泣きたくなった。これがいつか失われるのではないかという不安のようなものを感じた。


『星を見るんじゃなかったのか? イリス?』


 男の手がイリスの髪に触れる。


 イリスの目線はずっと高くなっていた。それ以上に、優しく笑う彼──リュドウィックの背丈はかなり伸びていた。イリスは見上げなければ、彼の顔を見ることができない。


『リュドこそ、空よりも私ばかり見てるくせに』


 リュドウィックは痛いところを突かれたと思ったのか、黙ってそっぽを向いてしまった。


 手入れの行き届いたさらさらの髪が、冷たい夜風に吹かれている。揺れる髪がリュドウィックを幼く見せる。


 イリス(・・・)はそれを可愛いと思った。



***



 冷たい風を肌で感じ、イリスは目を覚ました。夏でも朝晩の気温は低く、こうして窓から冷たい風が入ることがある。


 イリスはゆっくり上半身を起こした。右隣からは母の規則正しい寝息が、左隣からはヴァレリーの少し耳障りないびきが聞こえる。


 夏はなかなか日が落ちないが、今はもう外も真っ暗だ。正確な時間はわからないものの、夜深いのは確かだ。


 イリスはしばらくの間、今の今まで見ていたリアルすぎる夢を反芻した。


 イリスはあれが平行世界の未来であると結論付けた。予知夢と思えなかったのは、平行世界のイリスの感情と同期したと感じる瞬間が度々あったからこそだ。その時に流れ込んだ感情は、自分自身の辿る人生の延長線上に生まれたものではないとはっきりわかった。


 平行世界の未来を見たのは初めてだった。これまで平行世界を覗き見る時は、現実の時の流れに沿っていた。何年後かわからないが、成長した自分と他者を知るのは初めてで、不思議な感覚だった。


 目がさえてしまって、再び寝付くのは難しい。イリスはベッドを抜け出し、部屋から出た。静まり返った屋敷の中をとぼとぼと歩いた。


 気づけば客室のあるエリアにまで来ていて、月明りの差し込む廊下に佇む人影を見た。リュドウィックが廊下の窓から月を眺めていた。


 そういえば湖で助けてもらったお礼を伝えていなかった。イリスはそろりと彼のそばに寄った。


 リュドウィックはイリスを横目で確認すると、また月を見た。


 横にいるリュドウィックはまだイリスより背が低い。顔つきも幼く、あの凛々しい青年になるには月日がかかると感じられた。


 イリスはどうやって切り出したものか悩み、窓辺に手を置いて、その上に顎を載せながらリュドウィックの横顔を見た。出てきた言葉はお礼ではなく質問だった。


「どうしていつも助けてくれるの?」


 体育で転んだ時も、誤解を受けて教授に叱られた時も、真っ先に助けに来てくれたのはリュドウィックだった。勉強のこともそうだが、彼がそこまで手を焼くメリットはないはずだ。


 リュドウィックは数秒目を閉じ、その後、ゆっくり開いた。月明りにも負けず輝く瞳は貫くように、真っすぐ月を捕らえていた。


「コストさんが頼りないからだ」


 「イリス」と甘美な響きで呼ぶリュドウィックはここにはいない。けれど、確かにその面影はあった。


 この人は、心配だと素直に言えないのだ。イリスは途端に愛おしく思えた。


 そんなふうにリュドウィックを理解できる気がしたのは、夢を見たからに違いない。


 私達も恋人になるのかな、なんて夢心地に考える。並行世界のイリスは本当にリュドウィックのことを心の底から愛していた。


「ふふ。そうですね」


 イリスがやや大人びた返事をすると、リュドウィックがぎょっとした表情でイリスを見た。急に見つめられて、イリスはドキリとした。


「どうかしましたか?」


 イリスは腰を伸ばして尋ねた。だが、リュドウィックは答えなかった。


「……眠れないなら、星を見ないか?」


 リュドウィックはイリスを外に誘い出した。リュドウィックが慣れたように庭を歩き、噴水の縁に腰かけた。イリスもそれに倣う。


「ここは良い所だな」


 リュドウィックが星を見上げながら、心地良いと言う。リオン公爵家の領地はすぐ近くで、見える景色も空気もあまり変わらないはずだが、褒められて悪い気はしない。


 イリスも空を見た。夢で見た夜空に比べたら感動は小さいが、星が好きなのはどちらのイリスにも共通しているだろう。


「しし座」


 イリスは無意識に呟いていた。リュドウィックが顔を天に向けたまま「ん?」と聞き返した。


「しし座は見えますか?」


 あの時の二人は見られなかったしし座。今なら見えるかもしれない。


 残念ながら今のイリスは星座に関する知識が乏しく、星の判別がつかなかった。


「どうだろう……いや、春の星座だからな。今の時間は見えないかもしれない」

「そうですか」


 イリスがわかりやすく気を落とすと、リュドウィックは励ますようにしし座の見つけ方を説明しだした。


「しし座を見つけるなら、春の大三角形を頼りにするといい。春の夜空で一等輝く三つの星だ。そのうちの一つが獅子の尻尾なんだ」


 誰かから聞いた話をそのままなぞっているようだった。口調が楽しげでもあったので、イリスはリュドウィックが誰かを思い出していて、その人のことを好ましく思っているのだろうと考えた。その誰かのことを思うと、少しだけ胸が痛む。


 イリスはこれをよく覚えておいて、春にまた星座を探そうと思った。その時、またリュドウィックと一緒に見られたら良い。


「じゃあ、夏の星座は知っていますか?」

「ああ。夏は──」


 リュドウィックは、イリスのために今見れる星座の解説をした。


 平行世界でイリスは、リュドウィックと共に夏の夜空を見ていないかもしれない。平行世界のリュドウィックは、一年生の夏休みにコスト家の屋敷に来なかったのだから。


 あちらとは別の世界。別の人生。


 リュドウィックと恋人になる未来を想像もできないけれど、その日はこないのかもしれないけれど、今日の夜空がイリスの宝物になることは確かだった。






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