06.約束の専属講師 -2-
イリスは重い足取りで廊下を歩いていた。リュドウィックの気まぐれで勉強を見てもらうことになった。しかも、場所はよりにもよってノブルクラブ室だ。
二度と近づくものかと思った。そして、本当にこの一か月、存在を忘れる程に距離をとってきた。
ノブルクラブに参加できるのは、限られた人間のみ。上層部に絞り込まれれば、イリスはカーストの最底辺に位置することになる。上流階級との社交を望まぬ者にとっては行くだけ損をする場所である。
宿題と筆記用具を両腕に抱え、背中を丸めながらも、ゆっくり試練の間へと近づいて行った。
「ノブルだ」
「道をあけろ」
ノブルクラブの会員、通称、ノブルは、この学校において絶大な権力を持っているようである。ブローチに気付いた者達が廊下の両端へと避ける。どんなに屈強な上級生であっても、怯えるように、でも、怯えていることが悟られないように、道を譲る。
ノブルクラブに属さない生徒の反応が、イリスの身をさらに縮こまらせた。このような待遇が分不相応という気がしてならなかった。
わがまま放題、自由奔放の十一年間を生きてきたが、ここでは威張ろうと思えなかった。伯爵家でノブルクラブに入れるのはただの幸運でしかないし、クラブにおけるイリスの立場を考えれば、威張ろうなどと思えるわけがなかった。
一年生はまだ校風に染まり切っておらず、同級生はイリスにも臆せず話しかけてくれる。だが、それも時間の問題だろう。無邪気に話しかけてくれる彼らも、いずれこうなるのだ。そうさせるのは、他でもないノブルクラブのメンバーである。
ノブルの多くは、自分のわがままが全て通ると思っている。リュドウィックはペースを乱されるのを嫌い、それがどんなに善意の行為であっても、強い言葉ではねのける。ミレーユは言わずもがな。食堂では相手が食事中だろうと構わず席を譲れと迫り、移動教室の際は目についた生徒に荷物持ちをさせる。
彼らの自己中心的な行為が許されるのは、身分ゆえだ。周りも許容するから、つけあがるのだ。
イリスは、ああはなりたくない、と思った。早いところ、ノブルクラブに関わらない友好関係を築いた方が良さそうだ。今はマグノリアに甘えてしまっているが、常に彼女といられるわけではない。友と呼べる存在が多いにこしたことはない。
そんな矢先に、ノブルクラブでの勉強会だ。平和な学校生活が遠ざかっていく。
イリスは丁寧に磨かれ艶のある黒い扉を前に、溜息をついた。
いつまでも扉を開ける勇気は湧かなかったが、リュドウィックを待たせて機嫌を損ねるのも恐ろしい。意を決して重い扉を開けた。
二十人程が優雅にくつろいでいた。誰も入口を見なかった。下等な者に微塵も興味ないのだ。
イリスはリュドウィックの姿を探した。待たせるのは悪いと焦っていたのに、まだ彼は来ていなかった。
先に宿題を始めよう。そう思ったが、机は上級生が占領していて一つも空いていない。イリスは行き場をなくして立ち尽くしてしまった。
宿題を抱えて、談笑や読書を楽しんでいる人達を眺めることしかできない。イリスは途端に惨めな気持ちになった。
本当にリュドウィックは来るのだろうか。
これは、リュドウィックの気まぐれで始まったこと。彼が約束をたがえても不思議ではない。
「お前は立って勉強ができるのか?」
あれほど避けたかった彼の存在がこんなに有り難いと思ったことはない。
イリスはすがるように後ろを見た。リュドウィックは眉を吊り上げ、腕を組んでいた。イリスと目が合うと、一瞬だけリュドウィックの口が笑ったように見えた。
イリスは五分待った。それは一生にも思えるほど長かった。
「クーザン君、久しいな。学校には慣れたかい?」
「聖文学の歴史的背景について議論を深めていたところです。クーザン君の意見をお聞かせいただけませんか?」
リュドウィックが現れた途端、先ほどまで他者など気にも留めていなかった上級生達がわらわらと集まってきた。リュドウィックの顔色を窺いながら、何とか関係を持とうとする。
リュドウィックは誰の言葉にも返答しなかった。上級生の陰から控えめに視線を送るイリスを一瞥すると、その横を通り過ぎた。堂々と部屋を横切っていき、窓際の一番明るいソファとテーブルの前に立った。リュドウィックが近づくと、そこに座っていた男子生徒達は素早く立ち上がった。
「どけ」
席を譲ろうかと尋ねる前に、リュドウィックの冷ややかな声が飛び出した。彼らはテーブルにあった自分達のカップを持って、すぐさま立ち去った。
ソファが空くと、リュドウィックはそこに腰を落ち着けた。そして、首を回し、入口の方を見た。
「おい、そこで何してる。こっちに来い」
彼の視線の先にいるのがイリスであるとわかると、他のノブル達は歯噛みした。イリスはこれ以上ないくらい体を小さくしながら、そそくさとリュドウィックの傍に寄った。
リュドウィックが座るように目でソファを示すので、イリスも腰かけた。持っていた宿題と筆記用具をテーブルに広げる。
ソファの背もたれが高く、他の席と壁を作るように置かれているので、そこに座ってしまうと、個室に入ったような気分になる。もう他の者の視線は怖くない。
「来ないかと思ってました」
「守れない約束はしない主義だ」
イリスが正直に気持ちを打ち明けると、リュドウィックはなんてことのないように言った。
イリスは早速宿題に取り掛かった。リュドウィックに真面目なところを見せたかったわけではない。早く始めないと、翌日までに終わらせられない恐れがあるというだけのこと。
「待て。綴りが違う」
「人物と偉業が一致していない。一度表にまとめた方がいい」
「その計算苦手だな。途中式も面倒がらずに書け」
イリスが勉強を始めると、リュドウィックは付きっきりで見た。その様子は、これまでの冷たい態度からは想像もできないほど親切だった。
イリスは感動していた。日のあるうちに宿題が終わる目途が立つなんて、夢のようだ。
「そういえば、クーザンさんの宿題は?」
最後に残った宿題、現代文のレポートに手を付ける前に気になっていたことを尋ねた。クラブに来てから、彼が暇つぶしの本以外を手にするのを見ていない。いつ宿題をやると言うのだろうか。
「もう終わっている」
リュドウィックは意外にも、こういう会話にも応えてくれた。イリスはふと、好きな色を聞かれた時の事を思い出しながら、彼も普通の男の子なのだと考えを改める。
「授業中か休み時間にやった」
「そんなに速くできるんですか!?」
「この程度……先に済ませておけば、お前に教えるにも都合良いだろう」
イリスは信じられないものを見た。イリスが特別苦戦していると言っても、この学校で教わることは高度なことだ。短時間で終えられる宿題ではない。それを放課後を迎える前に終わらせると言うのだから、もう頭の構造が違うとしか言いようがない。
宿題を再開するよう促され、イリスは再びテーブルに視線を落とした。
しばらく集中してペンを動かしていたが、横からの視線に気付いた。一度感じてしまうと、気になって仕方がない。イリスはそっと隣を見た。
リュドウィックがじっとこちらを見ている。表情から何を考えているのか読み取れないが、それをすることに飽きていないということだけはわかった。
見られるのは嫌ではないが、何だか居心地が悪い。イリスはどうしたのか尋ねようと、ペンを置き、今度は視線だけではなく顔をリュドウィックに向けた。
「小さいな」
リュドウィックがしみじみ言う。イリスは、彼にそう言われるのは間違っていると思った。なぜなら、イリスの方が背が高いからだ。
イリスは同級生の中でも誕生日が早い方で、もうじき十二歳になる。対するリュドウィックは冬生まれ。この年齢ではまだ体の成長が生きた月数に依存しているし、通常、少女の方が体の成熟が速い。要するに、現状、大差はないとは言ってもイリスの方が体が大きいのだ。リュドウィックに小さいと言われる筋合いはない。
でも、イリスは否定する気にならなかった。リュドウィックがイリス自身を見ていないように思えたのだ。イリスの先にいる誰かを見ている。イリスはその人と比べられているのではないか、と。
結論、ノブルクラブ室は図書室よりずっと快適で、集中することができた。何より、付きっきりで指導してくれる存在が良い影響をもたらした。
翌日以降もノブルクラブで会う約束をし、イリスは寮へ戻った。
エトワール校は寄宿学校で、女子生徒を迎えるにあたっても、その制度を変更しなかった。それに伴い、女子寮が新たに建設された。
歴史深い建物が並ぶ学園に、唯一真新しい建築物がある。それが女子寮だ。生活する場所が綺麗で新しいことに、女子生徒の誰もが喜んだ。彼女らの入学の動機を高めるのに大きく貢献した。
イリスが、これでもかとピンクの物で埋められた自室でくつろいでいると、マグノリアが訪ねて来た。いつも同じ時間に、宿題の進捗状況を見に来る。要領が良く、面倒見の良いマグノリアは、イリスの宿題を手伝ってあげることもあるのだ。
マグノリアに、イリスは嬉々として制覇した宿題を見せた。
「もう終わってるの⁉」
期待通りの反応だった。普段なら、終わらないと泣きついてくるところを、お話する時間ができたと笑って見せたのだ。マグノリアの反応は当然とも言える。
驚く従姉に、イリスはリュドウィックのことを説明した。
「じゃあ、あの噂は本当だったのね」
噂は速い。イリスとリュドウィックのことは、既にマグノリアの耳に届いていたらしい。
「明日も?」
「うん。クーザンさんの気が変わらなければ」
「思ってたより優しい方なのね」
「私もそう思った」
手のかかる従妹を見てくれる人が登場して、マグノリアは肩の荷が下りたと思った。リュドウィックには感謝に尽きる。
イリスには一つだけ懸念点があった。
「ファンクラブの人に会うのが怖いなぁ」
ぼそりと呟く。それを聞き、マグノリアは何の励ましも助言もしてあげられなかった。リュドウィックのファンは多く、過激な傾向がある。嫉妬による波乱が起きないとは言い切れない。
イリスはくよくよと長く悩むタイプではない。落ち込んで見せたのはものの数秒で、次に口を開いた時にはいつもの能天気さが戻っていた。
「あ、そうだ。マギュは? ユニ先輩と仲良くなれた?」
突然自分の話になり、マグノリアは面食らった。
「へ? 私? あー、弦楽部に入らないかって」
「いいじゃん!」
マグノリアはアドリアン・ユニを追って、今日も弦楽部を覗きに行っていた。そこで遂に弦楽部への入部を勧められた。
イリスは、マグノリアが他の令嬢と同じように芸術の英才教育を受けていることを知っている。弦楽部に入って才能を認められる姿が容易に想像できる。
迷っていた様子のマグノリアも、イリスの裏表ない前向きな反応を受けて心を決めたらしい。入部することを宣言した。
「ユニ先輩のかっこいいところ教えて」
「えー? リリがライバルは嫌よ」
マグノリアは乙女らしく慎ましく笑った。イリスはそんな彼女が可愛いと思った。色恋沙汰に巻き込まれるのは勘弁だが、従姉の楽しげに語る話を聞くのは大好きだ。
イリスに突かれ、マグノリアは照れながら思い人の好ましいところを話し始めた。
「……王都にはよく当たる占いがあるんだって。リリは運命って信じる?」
「うん……」
何時間話していただろう。こうして二人で眠くなるまで語り合ったのは久々だ。イリスのベッドに二人並んで寝転んでいると、イリスは少しずつ眠気に襲われた。
そこで「寝ようか」と言って切り上げないマグノリアが好きだ。それはあまりに寂しすぎるから。
「この世界にはもう一つの世界が重なって存在しているのよ。例えば、向こうの世界の私はパパから緑のブレスレットをもらったの。でも、私は……こういうのが運命なのかなって」
イリスはまどろみながら言う。
二人は化粧台に置いてあるストロベリークォーツのブレスレットに目を向けた。成人の時に渡すと言われていたブレスレットがそこにある。成人したら母から引き継ぐべき他の宝石があるから、寄宿学校へ行く娘のお守り代わりにと、ヴァレリーから涙ながらに渡されたのだ。
「並行世界ってこと?」
「へーコー世界?」
マグノリアが並行世界の意味を説明してやると、イリスからは「それのことかも」と理解しているのか判別に困る返事返ってきた。イリスが不思議なことを言う度、妖精の血を濃く引いたのだと納得している。妖精は別次元で生きていて、イリスはその世界を垣間見ることができる。今回もその類いだろう。
マグノリアは、ついに寝息を立て始めたイリスの寝顔を見つめた。イリスの両親や自分の両親から、イリスが特別な子だという話は昔から度々聞いている。その度に幻想にだったと気づかされるのだが、マグノリアは本当にコスト家の姫が特異な力を持っているかもしれないと思っている。




