15.ファーストダンス -2-
並行世界の彼は、もう少し周囲に優しくて、もう少しイリスに厳しかった。
***
『この問題にいつまでかかっているんだ』
この人の呆れ顔は見飽きた。イリスはリュドウィックの嫌いな顔を視界に入れないように努めた。
専属講師は、一年経ってもイリスの成績が振るわないのを、本人以上に焦ったく思っていた。
リュドウィックはノブルクラブ室でイリスの勉強を見るのに飽きてきていた。イリスはなかなか結果を出さない。それに、いてもいなくても変わらないロベールはともかく、リュドウィックの目の前を陣取るミレーユの相手も面倒だった。事あるごとにイリスに口煩く突っかかる。リュドウィックは自分が行うことに邪魔が入るのが大嫌いだ。
二年生に上がると、イリスのためにノブルクラブに来るのは週に一度程度になった。イリスはリュドウィックが来なくなって、当然だと思った。そして、リュドウィックの失望した顔を見ずに済むので、イリスにとっても都合が良いと思った。会う頻度を減らすのは互いのために良かった。このまま思い通りにならない玩具のことは忘れてくれたら良い。
イリスが望んだ通り、二年生の冬頃にはリュドウィックは来なくなった。リュドウィックがいないのでミレーユも来ない。従うべき相手が消えたので、ロベールも来なくなった。
問題を解くのが遅いと怒り、宿題に加えて課題を寄こしてくる者がいなくなって、イリスは清々した。この頃は、彼を好きになるなんて思いもしなかったわけだ。
三年生の時、リュドウィックの父が亡くなった。彼が父親を尊敬していたのを知っていたので、彼の失意を思うと涙が出た。そんなイリスを、リュドウィックは不器用なりに慰めてくれた。優しい面があるのだと気づいた。
四年生になると、またリュドウィックがノブルクラブに顔を出すようになった。時々、気まぐれに現れる彼は、イリスの隣に座って黙って過ごすことが増えた。勉強を教えてくれるのかと思ったが、そういうわけではなかったようで、大抵本を読んでいた。
でも、時折、リュドウィックは下級生が困っていると手を貸していた。一年生の子がホームシックになり、泣いていると、おすすめの本を貸してあげた。持物を上級生に無断で使われ、取り返せずにいる子のために、上級生を蹴っているのを見かけたこともある。
やり方は正しくなくとも、彼がしたいと思ったことは間違っていないだろう。イリスは自然とリュドウィックを目で追うようになった。
ダンスの授業でリュドウィックとペアになることも増えた気がする。イリスだけが意識して彼に近づいているわけではない。それは五年生で迎えたイリスの誕生日で判明した。
誕生日の放課後、リュドウィックがノブルクラブ室にやって来た。いつも通り一直線にイリスの横に来て、椅子にどかっと座った。
しばらくの間、彼は何も発さなかった。これはいつものことだったので、イリスは特に気にも留めなかった。イリスもいつも通りに宿題を進めた。
日が暮れ、生徒達が少しずつ減っていき、イリスもそろそろ夕食に行こうかと帰り支度を始めた。その時、リュドウィックが突然立ち上がった。イリスは驚いたと思われたくなくて、リュドウィックの方を向かないよう意識した。
教科書類を束ねて、手に持つと、イリスも立ち上がった。リュドウィックの奇妙な行動を怪訝に思いながらも、尋ねるつもりもなかった。
席から離れようとした、その時。リュドウィックが背後で咳払いをした。
これは無視すべきでない。イリスはそう思って、リュドウィックを見た。彼は、目が合うのが当然とばかりに、堂々とイリスを見据えていた。
唐突にリュドウィックの腕が突き出された。手には小包が握られている。黄色のリボンがかけられていている。それがイリスへの贈り物で、差し出されたことがわかる。
イリスは恐る恐る受け取った。手をかざすと、リュドウィックの指から小包が放たれた。
『ありがとうございます。クーザンさんからいただけるなんて』
リュドウィックからの初めてのプレゼントに戸惑いつつ、嬉しく思う自分もいた。
包みを受け取って、イリスはしばらく固まっていた。リュドウィックが何も言わないので、もう行って良いかわからなかった。開けて良いか聞くべきだっただろうか。
すると、リュドウィックが口を開いた。
『これは他のと一緒に思わないでほしい。俺は伯爵の名が欲しいのではない』
久しぶりに聞いたリュドウィックの声は、イリスが知るものよりずっと優しかった。だけど、言葉の調子は単調で、ぶっきらぼうでもある。
イリスはリュドウィックの真意を読み取ることができず、『公爵閣下ですもん』と笑った。笑っておけばなんとかなる。イリスの処世術だ。
亡き父に繋がる爵位の話を冗談として使ったのがまずかったか。リュドウィックが金色の瞳にさらに力を入れた。怒ったようにも見える真剣な顔で、リュドウィックはイリスの手首を掴んだ。
その手には、『よく聞け』と言うように力がこもっている。イリスは罠にかかった動物みたいに、肩を震わせて、リュドウィックを見上げた。
『お前にあげるんだ』
頭の悪いイリスでも理解できた。多くの生徒がイリスに贈り物をするのは、イリスの伯爵令嬢としての価値を求めてだ。しかし、リュドウィックはイリス本人にあげたくて渡すのだ。
リュドウィックは地位ではなく、イリス本人を見てくれる。
イリスは胸が熱くなる思いがした。
リュドウィックが好意を寄せていると知り、イリスは彼を異性として意識するようになった。
リュドウィックが選んだプレゼントは、黒いリボンだった。成績優秀者がつけるような真っ黒のリボン。真ん中にはイリスの瞳と同じ色の宝石がついている。
彼らしいセンスだと思った。いつも熱心に宿題に取り組んでいながらも、結果に表れないのを哀れに思ったのかもしれない。教授の代わりに評価してやると言ってくれているみたいだ。
翌日から、イリスはリボンを毎日つけた。ハーフアップにまとめ、後頭部を黒いリボンで飾った。
リュドウィックも、自分が贈った物がイリスの一部となったことに満足しているようだった。加えて、プレゼントの中でイリスが身に着けたのはリュドウィックのリボンだけだったので、少なからずイリスから良い感情を向けられていることに自信も持ったようだった。
途端にリュドウィックの口数が増えた。ノブルクラブ室にもよく来るようになり、一年生の頃のようにイリスの宿題を見てくれた。
冬の舞踏会で二人がパートナーになるのも当然の流れだった。
マグノリアと共にスポーツ大会で優勝したイリスには、ファーストダンスの権利があった。その相手も決めなければならなかった。
だが、悩む必要はなかった。
晩秋、学校から舞踏会について改めて告知がされた直後。誰もがパートナー選びに浮足立ちながらも、一人として申し込みをしていなかった中、リュドウィックがイリスを庭園に呼び出した。
『舞踏会、あるだろ』
リュドウィックが何を言おうとし、何のために呼び出したのかわかった。けれど、イリスは彼自身から誘いの言葉を聞けるのを待った。
『そうですね』
イリスは敢えて察しの悪い返事をする。リュドウィックは緊張しているのか、何度も唇を湿らせている。
『俺と舞踏会で踊れ』
威圧的な命令口調だった。身分上立場が格上であろうと、女性を誘うのに勇気はいるものだ。とはいえ、この誘い方はいただけない。
イリスはきっとリュドウィックを怒らせることにはならないだろうと思い、一度はねのけることにした。
『こういうのは膝をついて、お花を差し出しながら返事を待つものですよ。その誘い方は嬉しくないです』
まさか駄目だしをされると思わなかったリュドウィックは、目を丸くした。二度瞬きをすると、『待ってろ』と言い放って、どこかに姿を消した。
結局、外で五分以上待たされ、戻って来たリュドウィックから謝罪もお礼も聞けなかった。舞踏会の誘いの事で頭がいっぱいなのかもしれない。
リュドウィックは大きく咳払いをし、仕切り直しをアピールした。イリスの前に片膝をついて、花束を掲げた。
『イリス・コスト、俺と舞踏会で踊ってくれるか?』
花束は庭園に咲いているものを庭師に分けてもらい、急でこしらえたものだった。色とりどりのシクラメンが可愛らしい。
豪華な物では無かったが、イリスのために用意してくれたのだなとわかった。イリスの髪の色に似たピンク色がたくさん使われている。
わがままを言ったのが少し恥ずかしく、申し訳なく思った。でも、言って良かったとも思った。リュドウィックのイリスを想う心が見えたのだから。
『はい!』
イリスは明るく返事をした。笑顔の形に口を動かした時、頬が動いて涙が流れた。涙が溢れていることにこの時初めて気づいた。
受け取った花束に顔を近づけ、香りをかいだ。シクラメンの妖精達が《きゃっ、きゃっ》と楽し気に笑う。
『ファーストダンスも俺とだからな』
念押しをされ、イリスは『ふふっ』と笑った。幸せだと思った。
ダンスの相手が決まり、イリスは早速舞踏会用のドレス作りに取り掛かった。両親に連絡をし、リュドウィックの瞳と同じ色のドレスが欲しいと伝えた。
互いをパートナーと認め合った二人は思いが通じ合った恋人のような、甘い時を過ごすようになった。リュドウィックのファンクラブメンバーによる妨害も度々あったが、障壁がさらに恋情を燃え上がらせた。
絆を深めたイリスとリュドウィックは、舞踏会の参加者達の注目を集めるダンスフロアの中心で向かい合った。二組のペアのための音楽が奏でられ、パーティが始まった。
裾が広がったプリンセスラインで、袖口もふわふわと膨らんだパフスリーブの、薄い黄色のドレスを着たイリスは綿毛を纏ったようだ。
全体的に甘く、可愛らしいデザインだったが、オフショルダーはリュドウィックを悩ませた。肌を他の男に見せるのはやめてほしいと苦笑いした。
そんなリュドウィックの胸元には、イリスの瞳と同じ色のブローチがついている。
二人はよく息の合ったダンスを披露した。互いを信頼し合い、体を預け合った。
《彼となら、どこまでも飛んでいける》
永遠を身近に感じる幸福な時間だった。
***
三曲連続で踊った後、二人は舞踏会を途中で抜け出し、夜空を見上げた。しし座を探した、あの夜に繋がるのだ。
明確な言葉にしなくても、二人の関係が恋人に変化したのは誰の目にも明らかだった。リュドウィックはイリスに対して優しい言葉遣いを意識し、イリスはリュドウィックを親しみをこめた愛称で呼ぶようになった。




