09.赤色のブローチ -1-
柔らかなビスキュイローズの髪をみぞおち辺りまで伸ばし、自然のままに流している。編み込まれた髪を留めるために、顔の左側につけられた桃色の髪飾りは、胸元の赤いブローチと共によく馴染んでいる。初めから彼女のために作られたのではないかと思わせる。
黄緑色の瞳は生命力に満ち溢れている。新緑に暖かな春の日差しが降り注いだかのよう。
その目と薄紅色の唇が細められ、笑いの形をとる。彼女の笑顔を誰もが、花が咲いたようだ、と思うだろう。
十五歳になったイリスは、「花の妖精」の異名に劣らぬ姿へと成長していた。彼女が横切る度、近くにいる者が振り返る。
身長は同世代の女性の平均よりやや高く、体つきは健康そのもの。その細くも、地を蹴るのに十分な足は一人の生徒に向かっていた。
「お疲れ様、マギュ」
イリスはまだバイオリンを持ったままの従姉に、労いの言葉をかけた。
イリスと同じく十五歳になったマグノリアは、弦楽部のコンサートマスターになっていた。五年生にして弦楽部のエースとなった彼女には、類稀なる音楽の才能があったのだろう。
マグノリアは女子生徒の中では圧倒的に背が高く、彼女自身、そのことを悩みにするほどだ。また、胸も豊満に育った。彼女が男子生徒の視線を集めるのは、完璧な演奏を披露したコンサートマスターへの憧れからだ、と思っているのはイリスだけだ。
「素敵な演奏だった。新入部員、絶対増えるね」
「ありがとう、リリ」
マグノリアは賛辞に答えながら、十一歳の新入生達が従妹に見惚れているのを見る。少年らは大きな頬を赤くさせて、イリスの言動一つ一つに目を奪われている。マグノリアは彼らに同情する。なぜなら、その感情が見事に砕け散ることを知っているからだ。
イリスは一目惚れをさせる天才であり、幻想を打ち砕く天才だった。新たな後輩が増える度、ファンを増やしてきたが、イリスの本性を知る者から正気に戻るのだ。
「風も喜んでるよ。マギュの震わせる空気は質がいいって」
イリスの本性の一つがこれだ。時々、不思議なことを言う。
幼少期から常人には理解しがたい面を持っていたが、それも成長と共に肥大した。いつも傍にいて、味方でい続けるマグノリアですら、完全に受け止めることはできなかった。
「本当? ありがとう」
イリス流の褒め言葉と捉え、マグノリアはお礼を言った。
イリスは周囲を見渡して、マグノリアの言葉に対する反応を見ているかのようだった。だが、二人の会話を聞き取り、反応を示す人間は近くにいなかった。
マグノリアはイリスとだけ会話をしているつもりだったので、誰か他の存在を感じさせるイリスの行動が少し気味悪く思えた。
「ユニ先輩にも見せられたら良かったのにね」
マグノリアがイリスの奇行に気を取られていると、イリスは話題を切り替えた。
アドリアン・ユニ。久しぶりに登場する名だ。年の離れた男性に憧れる子供時代は終わった。マグノリアにとって、それは楽しい思い出であり、掘り返されたくない黒歴史である。
「先輩とはしばらく連絡もとってないわ。新歓パーティの度に思い出したように聞かなくていいの」
「ごめん」
マグノリアが触れてほしくないと思っているのを、イリスは分かっている。確信犯的に笑う。
新入生達と彼らを迎える上級生達が動き始めた。発せられる声が増え、マグノリアは次の役割を思い出した。
「リボン渡してこなくちゃ」
女子生徒にリボンを渡せるのは女子生徒だけ。新たなルールが出来上がり、マグノリアは二年生の頃から新入生歓迎パーティに協力している。今年も、成績優秀な生徒に特別なリボンを渡さなければならない。
女子生徒であることを重宝されるのはイリスも同じだ。マグノリアは楽器を抱えなおしてイリスに尋ねる。
「リリはノブルクラブの方へ?」
新たなノブルクラブの会員に、ブローチを渡す役目がある。イリスは可愛い後輩の胸に、自分と同じ色のブローチを付けてあげるのだ。
「うん。そのままクラブで勉強しようかなって」
「進級早々偉いわね」
「実は夏休みの宿題が一つ終わってなくて。クーザンさんが手伝ってくれるらしいの」
「だから散々終わったのか聞いたのに」
そして、イリスの知られるべきでない本性のもう一つがこれだ。
イリスの成績は下の上程度。ノブルクラブに属する者として恥だ。イリスとしては、落第しないだけで及第点なのだが、それを認めてくれる者はいない。
二年生以降も、リュドウィックの手を借りて放課後の勉強を続けて来た。日々の努力が報われ、晴れてイリスのリボンも黒一色に──ということにはならなかった。得意科目の成績もせいぜい並程度。学ぶことの楽しさと必要性を理解しただけでも成長だ。今は進学も視野に入れている。
「それなら、夕食で合流ね」
マグノリアが、肩で綺麗に切りそろえたミルクティー色の髪をなびかせる。イリスはその背中に「いってらっしゃーい」と声をかけた。
ブンブンと手を大きく振るイリスの所作には、おしとやかさの欠片もない。残念美人と言われる確たる所以はこれだ。
代々生まれる娘に花の名をつけるため、ヴェール伯爵は「花の伯爵」と呼ばれている。そこからもじってつけられたイリスの二つ名が「花の妖精」だった。
妖精の末裔らしい、浮世離れした優れた容姿であることは間違いない。「緑の宝石」として名をはせたカメリアから引き継いだ緑の瞳と、桃色の菖蒲が花開いたかのような後ろ姿は、男女問わず魅了する。
ただし、外見に合った言動ができない。「黙っていれば可愛い」が定番の評価だった。
一人になったイリスのもとに、カツカツと周りに存在感をアピールするように踵を鳴らすレディーが近づいた。
「リュドウィック様の手を煩わせるなんて」
彼女は「信じられない」を声には出さなかった。イリスのために割く労力は最小限にしたいとでも言いたげである。
彼女の溜息に合わせて、金色のツインテールが揺れる。きつめの巻き毛が性格のきつさを物語っている。
自信に満ち溢れた目がイリスを捕らえている。瞳の深い青が、イリスに故郷の湖を思い出させる。
「何年経っても、あんたは変わらないのね。二年の時だって、そう。確かに宿題はやってあったようだけれど、間違いだらけで先生に呼び出されていたわ。やり直しで手伝ったのは誰? リュドウィック様よ。三年生の時は……」
両目が吊り上がっているのは、高い位置で括ったたツインテールに引っ張られているせいではないか、とイリスは密かに思っている。
貴族らしい傲慢な態度で現れたミレーユは、イリスへの文句を長々と連ねた。イリスが真面目に聞くわけもなく、テーブルに並んでいるお菓子とジュースを物色する。残った飲食物は夕食の時に食堂に出される。争奪戦に負けぬよう、先に目ぼしい物を見つけておきたい。
イリスは上半身を精一杯反って、デザートに見入っていた。イリスが話を聞いていないのにようやく気付いて、ミレーユが声を荒げた。
「ねえ、聞いてるの? イリス・コスト」
ミレーユがイリスをフルネームで呼ぶ時、決まって彼女は余裕をなくしている。
イリスは上半身を起こして、ミレーユに向き直った。そして、何事もなかったかのように言った。
「そろそろ声掛けに行きます?」
ミレーユが新入生のためのパーティに引っ張り出されたのも、ブローチを授ける役目があるからだ。
ミレーユはまだ言い足りない顔をしていたが、イリスは無視して自分の担当する後輩を探しに行った。ミレーユも渋々といった感じで、仕事を始める。
「ごきげんよう」
イリスは出来得る限りの笑顔で話しかける。呼び止められた新入生は、イリスを見て目を輝かせた。同時に、どんな用事があるのか不思議がって首を傾げた。
「あなたを連れて行きたい所があるの」
イリスは新品の制服を誇らしげに着る少女を連れ、ノブルクラブ室に入った。
「ようこそ。我らが、ノブルクラブへ。新たなメンバーを歓迎しよう。まずは、会員の証であるブローチを配る」
クラブを統括する七年生が新入生に挨拶をし、年度最初の儀式を取り仕切る。
イリスは自分が連れて来た一年生の前にかがみ、小声で問う。
「本当は私が選ぶんだけど、好きなのを選ばせてあげる。内緒だよ。赤、青、白、黄色、緑だと何が好き?」
イリスは伝統を無視して、本人に色を選ばせてあげている。自分が望む色を得られなかった悔しさを、後輩を使って晴らしているのだ。
けれど、新入り達はイリスに憧れ、イリスと同じ色を望むので結果は同じことだった。イリスの後輩達は皆、赤色のブローチをつけている。
「先輩と同じのがいいです」
この子も例外ではなかった。イリスは「わかった」と答え、赤色のブローチをリボンの上につけてあげた。
「ありがとうございます」
はっきりと礼を述べる彼女は、これからの学校生活への期待に胸を膨らませている。イリスは眩しい物を見るように目を細めた。
「コストさん」
少し離れた所から名を呼ばれた。イリスは誰がどこで呼んでいるのか見当がついていたので、迷うことなく勉強用のテーブルに顔を向けた。
リュドウィックが顔だけをこちらに向けてイリスを呼んでいる。イリスの仕事を終えたのを見て、早速残りの宿題に取り掛かるべきだと言っている。
イリスはいつもの席に座り、先に持ってきておいた宿題を開く。
「古典語か。解けない問題でもあったのか?」
「うん。この文章の解釈がわからなくて、先に進めないんです」
二人して問題集を覗き合う。
部屋の端の方で、上級生が新入り達にクラブのルールを教えている。一人がリュドウィックとイリスを目で指して言う。
「あの二人が一緒にいる時は近づいてはいけないよ」
邪魔をするとリュドウィックが怒る。それを毎年、新入りは教えられる。
二人が二年生の時、一年生の後輩がイリスに話しかけた。隣にリュドウィックがいたものだから、一年生は泣く程怒られてしまった。イリスは後輩を邪険に扱うなと言い返したが、改善されなかった。以降、後輩達は学んだ。リュドウィックに関わらない方が良い、と。特にそばにイリスがいる時は。
しかし、二人は敬遠されているだけの存在ではなかった。リュドウィックがイリスを独占したがっていると、誰の目にも明らかだったため、女子生徒を中心に二人の恋愛模様に夢中になっていた。日々、進展のない二人にやきもきしながら、彼らの動向を見守っている。
近づくべからずと言われる勉強机に、堂々と近づく者がいる。そう、ミレーユだ。公認の仲のように扱われているのを快く思っていない彼女は、イリスをなじる。
「上流階級のための特別な部屋が自習室だと思われちゃうじゃない。せめて今日くらいは控えてもらえると良かったのだけれど?」
「こ、ここは自由に過ごせる場所です。それを教えるという点において、間違ったことはしていないと……思います……」
反論したのは意外にもロベールだった。不意に背後から現れた彼に、ミレーユは声を上げて驚いた。その声に驚いて、ロベールも叫び声をあげた。
二人が顔を見合わせて驚くのを、リュドウィックは呆れて見ていた。騒々しいと言いたげに眉を曲げるので、後輩達は必死に声を殺して笑っている。
「何してるの、二人とも」
イリスは思わず声を出して笑ってしまった。ミレーユの「笑うなんて失礼よ」と怒る顔で、ミレーユの驚いた顔とロベールの情けない叫び声を思い出して、また笑ってしまう。
イリスの笑い声につられて、他の者達も笑い始めた。
この部屋が笑い声で満たされるのは初めてのことだ。リュドウィックも「静かにしろ」と言うような野暮なことはせず、両腕を組んで収まるのを待っていた。
エトワール校の伝統はいくつか変わったが、生徒にとって決して悪いことではなかった。




