そして、彼はいなくなった
「そなたとの婚約を破棄するっ!」
王都、社交シーズン終わりの王宮主催の舞踏会。
その会場に王太子のよく通る声が響きわたった。
「え…………」
王族専用の、会場最奥の壇上にただひとり立ち、傲然と胸を張りつつ王太子がビシッと指を突き付ける。その指の先で固まっているのは彼の婚約者だ。
「え、あの、なぜ…………?」
彼女は王太子が何故この場に現れそんな事を言い出したのか、まるで分かっていない様子で呆然としている。それでも、まだ理由を問えただけマシだろうか。
「知れたこと!」
一方の王太子には、こんな事を言い出した明確な理由がありそうだ。
「そなたはまともな礼儀作法のひとつも身につけておらず!」
これは婚約者に心当たりがある。いつも作法の教師に叱られてばかりだ。
「語学も全く堪能ではなく!」
これも言われるとおりだ。婚約者は自国語しか話せない。
「何かと理由を付けては王子妃教育をサボろうとし!」
だって無理やり勉強させられてもちっとも楽しくないし、やりたくないから覚えられないし、多少覚えたところで全然褒めてもらえないし。やりがいがないのだからやる気など起きるはずもない。
「挙げ句の果てには自分の不出来を棚に上げ、教師のせいにして何人も首にしたではないか!」
教育という名目で何かとマウント取って来て見下されるのがムカついて、密告して何人か辞めてもらったのは事実だ。けど、それは殿下だって「そうか、そなたを虐めるような教師は首にしてやろう」と乗り気だったはずだ。
「そのようにワガママ放題で、公務もまともにこなせぬそなたは我が妃として、将来の王妃として相応しくない!よって今ここでそなたとの婚約を破棄する!」
「えっでも殿下」
「なんだ?」
「それ最初から分かってましたよね?」
「なんだと?」
「なんだも何も、そういう女を選んだのは殿下、あなたご自身なんですが?」
「くっ、素直に非を認め詫びるどころか、開き直るだと!?」
恥じ入るどころか、さも当然とばかりの態度で動じた様子もない婚約者。
全く反省の色もないその姿に王太子が激高する。
「ほら、周りの諸侯の皆さんだって呆れ返って見てますよ?」
「な、そなたは敬語すらまともに使えないのか!?」
「いや今気にするとこそこじゃないし」
社交シーズンの終わりを告げる王宮主催の舞踏会には、やむを得ない場合を除いて国内の全ての貴族に出席が求められる。この舞踏会が終われば、貴族たちはそれぞれ避暑の旅行に出かけたり、自分の領地へ戻ったりして、その多くが王都を一旦離れるのだ。
つまり今、この場には国内の貴族当主の大半が集っている。
だがその場の誰の顔を見ても、白けきって呆れや落胆を隠そうともしていない。給仕の使用人たちや会場警護の騎士たちですらもだ。騎士たちに関しては、何やら慌ただしく動き始めて王太子に注目していない者さえいる。
「なっ……!?そなたら、王太子に対して不敬であるぞ!」
その冷たい視線に気が付いた王太子が喚くも、彼らの反応は変わらなかった。
「くっ……まあいい、今はひとまず措いておいてやる!」
「いや措いとくなよ殿下」
「私はそなたとの婚約を破棄し、新たにあの」
「いや無視か」
キレよくツッコむ婚約者をまるっと無視して、王太子は会場の壁際に佇むひとりの令嬢を見やり、そして手を差し伸べる。
「彼女、公爵家令嬢を婚約者とする!」
「「…………………………は!? 」」
婚約者と、新たに婚約者に指名された公爵家令嬢の唖然とする声が、不機嫌な声音まで含めて綺麗にハモった。
だが王太子はそれに気付いていないのか、今指名した彼女に向かって爽やかな笑みで手招きなどしている。
「さあ、そんな隅ではなく私の隣へおいで」
一応、こんなのでもまだ王太子である。だから呼ばれた公爵家令嬢は壁際を離れ歩み寄り、王太子と婚約者の前まで来ると優雅に淑女礼をしてみせた。
それは王宮のマナー教師も絶賛する、非の打ち所のない完璧な作法。さすがは長年にわたり、国内最高レベルの教育を施されていただけのことはある。
「ほら見るがいい。礼儀作法とはこういうもののことを言うのだぞ」
ひとり悦に入っている王太子だが、彼以外の全員の視線と感情が氷点下まで下がっているのに気付かないのだろうか。
「そんなの当たり前じゃないですか。公女さまはもう10年も王子妃教育を受けてたんだから」
「なに、もう王子妃教育を進めているのか。それは重畳」
「いやとぼけてんのかこの愚者は」
もはや婚約者には王太子に対する敬意など欠片も見えない。だがそれを咎めるものはない。
「さあ、そなたこそ我が婚約者に、そして将来の王妃に相応しい!この手を取って、私と一緒に」
「お断り致しますわ」
「国の将来のために尽してくれ!」
「断られてんのに言い切るなや」
「ふざけてますの?」
婚約者と公爵家令嬢、ふたりの怒りのこもった視線が王太子に突き刺さる。
「敢えて断るとは奥ゆかしいな!だが大丈夫だ!そなたなら」
「お断りだと申しております」
「ていうかよく受けてもらえるとか思ったよね殿下」
「おお!二度断って三度目に受ける!まさに礼儀に則った素晴らしき」
「何度だってお断りです!」
「ていうか気付けボンクラ!」
「…………む?」
「『む?』ではありませんわ!」
「殿下さあ、厚顔無恥って知ってる?」
「なんだ、何か問題でも?」
この期に及んでもなお、王太子は不思議そうに首を傾げるなどしている。その姿にとうとう、ふたりがキレた。
「殿下、」
「あのねえ、」
「「3ヶ月前、何しでかしたかお忘れですか!?」」
「3ヶ月前?」
「「そう!」」
「それまでの婚約を破棄して、そなたを新たに婚約者にしたな」
「それ!」
「3ヶ月前、わたくしとの婚約を破棄して彼女を選んだのは殿下ではありませんか!」
「だいたい私、王妃になりたいとか一言も言ってないし!」
そう。それは王都に所在する王立学院の卒業記念パーティーでのこと。この年の卒業生である王太子は、在学中に寵愛していた男爵家令嬢を陰で虐めていたとして、長年の婚約者であった同い年の公爵家令嬢に対して婚約破棄を通告し、新たにその男爵家令嬢を強引に婚約者としたのだ。
なのに今、彼はそんな過去など忘れたかのように振る舞い、恥知らずにも男爵家令嬢との婚約を破棄して公爵家令嬢を再び婚約者とすると宣言したのだ。
「どの口がそれを仰いますの!?」
「ホント恥ずかしげもなくよく言えたよね殿下」
居並ぶ貴族たちも頭を抱え、盛大にため息をついて落胆と失望を隠さない。ケロリとしているのは王太子だけだ。
ケロリとしているどころか薄っすらと笑みさえ浮かべている王太子。だがその瞳が昏く淀んでいることに、気付くものはない。
「え、だが」
「だが、なんですの?」
「そなたは私をずっと慕っているだろう?」
「なぜ現在進行形なんですの!?」
「うわコイツまじあり得ねえ」
「はっはっは、そう照れずともよい」
「照れてなどおりません!」
「まじでヤバいなコイツ」
「王妃になりたいと日頃から頑張っておったではないか」
「もうそんな気もありませんし、今さら殿下と婚姻するなど死んでも嫌ですわ!」
「だからそう照れずとも」
「話聞け!」
「狂ってますの!?」
「これもう魔術で攻撃する?」
「いえそれはさすがにまずいですわ、自重なさいませ」
「でもアレ多分止まんないよ?」
あまりに自分に都合のいいようにばかり解釈する王太子、いや王太子の姿をした得体のしれないナニカを前にして、その異様さにようやく気付いてさすがの公爵家令嬢でさえ怖気を感じて後ずさる。
なのに王太子は壇上から軽やかに飛び降りて近寄ってくるではないか。「さあ、さあ」と笑っていない笑みで手を差し出され、さすがの公爵家令嬢も顔を青ざめさせて「ひ」と小さく悲鳴を洩らした。
「陛下、これもうダメですぞ、完全に壊れております」
それまで様子を窺っていた宰相が、とうとう見かねて壇上を振り仰いだ。
「うーん、壊れてそうだとは思ってたけど、やっぱダメかあ…………。ハァ、しょうがない」
いつの間に会場に入ってきていたのか、壇上の玉座には国王の姿があった。王妃もすでに着席していて、沈痛な面持ちで頭を抱えている。
「じゃ、王太子、廃嫡。あと幽閉ね」
そして王がいともあっさりと決断するやいなや、会場警護の騎士たちが王太子………元王太子を取り囲み取り押さえた。
「んな、こら、お前たち何をする!私を王太子と知っての狼藉か!?」
「廃嫡されたので貴方はもう王太子ではありません」
「廃嫡だと!?誰がそのような」
「陛下です」
「なっ、嘘を申すでない!」
「あー、うるさいから猿ぐつわ噛ましていーよ」
哀れ元王太子、手早く縛られ猿ぐつわを噛まされて、あっという間に会場から連れ出されて行った。
「えーと、そなたたち」
騒然とする会場で、連れ出される元王太子を見届けて安堵する元婚約者と前婚約者、つまり公爵家令嬢と男爵家令嬢だったが、気安くかけられたその声に慌てて壇上に向かって蹲踞礼で控えた。
男性ならば跪くところだが、女性の場合は膝をつけないので、スカートをふわりと膨らませて腰を落とし頭を垂れる独特の礼を取る。これは家格によらず貴族の女子なら誰でも習うため、ふたりとも綺麗に蹲踞している。
「あー、面上げていーよ。わし堅苦しいの嫌いじゃし。あと直答も許可しとくね」
「ありがとう存じます」
王の威厳など欠片もないがこれでも国王である。嘘のようだが本当のことだ。その国王からの許しを得てふたりとも姿勢を直し立ち上がる。
「ちょっと疲れたじゃろ、別室を用意してあるからそなたたちも下がって休みなさい」
「ご厚情に感謝申し上げます」
「ありがとうございます」
そうしてふたりも、侍女と護衛に連れられ会場を後にして行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「いやあ済まんね」
ふたりが別室に下がり、侍女たちの用意した紅茶を飲んでひと息ついていると、国王夫妻が入室してきた。おそらく会場の貴族たちには簡単に事情を説明するに留めて、すぐに中座してきたのだろう。
夫妻はもうひとりの息子である第二王子を伴っている。
「あれ以来自室に軟禁しとったんじゃが、どうも逃げ出したみたいでの」
元王太子、いや第一王子は3ヶ月前、長年の婚約者であった公爵家令嬢に冤罪を被せて婚約破棄するという暴挙に出た。それも国王夫妻が外遊に出ている隙を見計らって独断で事に及んだのだ。国王夫妻が報せを受けて慌てて戻ってきた時にはもう婚約者の交代が勝手に発表された後で、国王ですら揉み消すのは不可能になっていた。
だからやむを得ず、婚約者の交代を認めるほかはなかった。だが事実関係が詳しく調べられ、その結果公爵家令嬢に被せられた罪は全て冤罪だと確定した。そのため彼女にはなんら瑕疵はないとして、婚約は破棄ではなく元王太子有責での解消ということになっている。
ちなみに元王太子が公爵家令嬢との婚約を破棄したのは、全てにおいて自分より優れている彼女を疎んじた結果であったらしい。
「軟禁………ですか」
「どうも例の婚約破棄を周り全員に責められたことで、挽回しようと焦るあまりに心を病んでしまったみたいでねえ」
王太子は公爵家令嬢との婚約を勝手に破棄したことを両親から厳しく叱責され、宰相や公爵など多くの人々からも批判され、自ら選んだ男爵家令嬢の王子妃教育を責任持って全うさせるよう厳命が下った。
だが男爵家の娘程度にそもそも王子妃教育などこなせるわけもない。それでも彼女はできないなりに頑張ってはいたが、教育は遅々として進まず、元々王子の寵愛も王妃の地位も欲していなかった彼女は嫌がってサボろうとする。
そうして全てが思い通りに行かなくなった状況の中、王太子は批判と叱責に晒され続けて苛立ちと焦りとプレッシャーとにさいなまれ、人知れず心を病んでいったのだ。
国王夫妻や重臣達がようやくそれに気付いたのがおよそ10日前のこと。その時点で廃嫡が確定し自室への軟禁措置が取られ、代わって第二王子が新しく立太子されることが内定していた。彼は元々兄のスペアとして自身も王太子教育を受けていたこともあり、あとは第一王子を廃立する口実さえ整えればすぐにでも交代させる手はずだったのだ。
だがあくまでもそれは内定であり、まだ公表されておらず現時点で知る者は現婚約者である男爵家令嬢、元婚約者である公爵家令嬢とその父の公爵、それに宰相や侍従長などごく一部であった。あまつさえ、王太子が精神を病んでいることは国家機密扱いであり、軟禁されていた事実に至っては王家以外に知らされていなかった。
「王太子を交代させるまで大人しくしててくれれば、その後じっくりと治療に専念させるつもりだったんじゃがなあ」
つまり、舞踏会に現れた元王太子は軟禁された自室を抜け出して勝手に現れたのであり、廃嫡が決まっていたのだから彼が何を言おうともそもそも無効であった。だが正式な公表前に再びやらかされた婚約破棄の収拾をつけるため、予定を大幅に狂わせて舞踏会の場で廃嫡と幽閉を公言する他はなかったのだ。
「ホント、ふたりとも済まなんだねえ……」
威厳の欠片もない国王だがそれもそのはず、正当なる王統は王妃のほうであり彼は本来なら王配であったはずの人物である。善良かつ温厚で人当たりの柔らかさを評価され、民衆受けを考慮して表向きは王ということにしているだけの、元子爵家子息だ。
だがその彼でさえ、元王太子のやらかしに頭を抱えるしかない。特に無用な恐怖を味わわされた新旧ふたりの婚約者にはいくら詫びても詫び足らない。なのに“国王”だから簡単には詫びれない。
だからこそ王はふたりをわざわざ別室へと下がらせたのだ。非公式に謝罪するために。
「いえ、勿体なきお言葉」
「陛下もお辛かったんだから、謝ることないですよ」
「君たちホントいい子だねえ」
脳天気に見える国王の表情にも、さすがに疲労と苦悩の色が濃い。
「あなた。ここは非公式の場だからあまり厳しくは申し上げませんが、もう少し立場というものをですね」
「あっ、ハイ」
そして事実上の女王である王妃にも頭が上がらない国王である。
「とはいえ、あれでも我が胎を痛めて産んだ可愛い子。わたくしたちも対応が甘くなったことは事実です。その点、わたくしからも謝罪をさせて頂戴」
「いえいえ、そんな」
「王妃陛下が一番お辛いはずですわ」
「それでね」
しおらしく詫びた王妃だが、次の瞬間にはキラリと目を光らせて。
「お詫びと言ってはなんだけれど、公爵家令嬢、第二王子の婚約者になるつもりはないかしら?」
「………………はい?」
転んでもただでは起きぬ。そして王子妃教育をほぼ修了している逸材を逃すつもりもないようである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
結局、第一王子は乱心したということで廃嫡の上幽閉と公式に発表された。それとともに第一王子の婚約の解消と、第二王子の立太子、そして公爵家令嬢との婚約が発表された。
男爵家令嬢は裏事情を詳しく知るだけに放免とはならず、王太子妃つき侍女として王宮での出仕が決まった。第二王子と公爵家令嬢との正式な婚姻までに侍女としての心構えや仕事内容などを叩き込まれる予定である。
「うええ、また勉強〜!?」
そこは諦めてもらうほかはない。何しろ王家としては逃がしてやれないのだから。
「よ、よろしくお願い致しますわ」
「うん、やり辛いだろうけど、よろしくね」
第二王子改め王太子と公爵家令嬢との仲は、現在のところ良好である。元々王宮内で頻繁に顔を合わせていたこともあり、まだぎこちなさはあるものの互いにある程度気心の知れた仲なのだから、おそらく心配はないだろう。
第一王子のことは、結局あの場の誰もが口を閉ざして、そのうちに忘れ去られた。王家からも幽閉以後の情報がぱったりと出てこなくなり、それも忘却を後押しした。
このまま数十年、百年と経っていけば、おそらく存在すら無かったことになるだろう。
そして王国は平穏を取り戻した。
ただ、彼がいなくなったのみである。