9 ギャルと同じベッドで寝る
コンコンとドアをノックする音がして、俺はベッドから体を起こした。
水色の浴衣姿で部屋の出入り口に向かう。
夕食の後、俺とさやかはいったん部屋に戻った。
最上階の展望風呂に行き、男湯と女湯ののれんの前で別れた。
カードキーは俺が持っていたので、先に帰って待っていた。
ドアの鍵を外すと、ピンクの浴衣姿の少女が部屋に入ってくる。
「ああ、いいお風呂だったー」
頭にターバンのようにタオルを巻き、髪を高い位置でまとめていた。
湯上りで赤くなった頬におくれ毛が絡まっている。
「あの……どちらさまで?」
「あたしよ。わざと言ってるっしょ」
別の客が部屋を間違えたのかと思った。
ギャルがメイクを落とすとまるで別人だった。
以前テレビ番組で、メイクを落としたギャルのビフォーアフターをやっていた。
眉毛が細くなったり、目が一重になったりするが、さやかは眉毛がしっかりあった。目も大きく、まぶたも二重だった。カラーコンタクトを外した黒い瞳も新鮮だった。
ようは、ギャル顔以上に美少女だった。
「ギャルを清純派に変える奇跡のお湯か……」
昔のアニメで見た記憶がある。
水に浸かったら性転換するとか、きれいな顔になるとか。
ビフォーアフターでそれくらいのインパクトだ。
「なぐるよ」
「まあ、そう言うなって。ほめてるんだから」
俺は顎に手をあて、しげしげと少女の姿を眺めた。
この顔にはキャミソールやショーパンより、浴衣がだんぜん似合う。
「おまえ、普段からその顔の方がいいんじゃないか?」
「すっぴんだと、母親に似てるって言われるから嫌なの」
お母さん、さぞかし美人なのだろう。
離婚したナースだっけか。紹介してもらえないか。
「うん、俺は好きだな」
「おっさんの好みなんてどうでもいいよ」
不機嫌そうに唇を尖らせ、ぷいっと顔をそむける。
それで気づいた。こいつ、照れているのだ。
メイクを落とすと、キャラまで少し変わった?
あの高慢&マイペースなギャルキャラが弱まってる!?
「どうだった、展望風呂?」
俺は冷蔵庫から水のペットボトルを出し、少女に投げた。
さやかは透明なボトルをキャッチし、ベッドに上がった。
「すごかった! 外の露天風呂に出たけど、星がめちゃくちゃキレイだったよ」
あぐらをかくと、浴衣がはだけて白っぽいショーツがモロにのぞく。
俺は見えないフリをして会話を続ける。
「北海道も悪くないだろ」
「うん、東京じゃ星なんて見えないから」
「東京だって星は見えるよ」
「えー、嘘でしょ」
「都会はネオンが明る過ぎて、星が見えにくくなっているだけさ。人工的な光が星の光をさえぎっているから、光害なんて呼ばれている」
「へえ、コースケっていろんなことを知ってるねー」
「いちおう教師だからな」
少女がボトルのねじ切りキャップをひねった。
口につけて傾けると、喉がごくごくと動く。
唇からこぼれた液体が胸元に垂れ、胸の谷間に吸い込まれた。
「……あたし、北海道で何も見てなかったなーって」
ぽつりと少女がつぶやいた。
「東京に帰りたいって言ってばっかり。いいところに気づかなかった」
「お、いい傾向だな」
「ふてくされて、下ばっかり見てたよ。上には星空があったんだね」
モノの見方を変えれば、見えなかったものが見えてくる。
さやかはそれに気づいた。
俺はどうだ?
ネオンの光が消えた北海道で、俺の目には何が見える?
今も地面ばかり見ているのでは?
「おまえのすっぴんもそれだな。メイクってネオンが消えた」
「あたしのすっぴんは、北海道の星空か」
「いや、ほんとにかわいいよ」
さやかの顔に微妙な表情が浮かんだ。
俺は、あ、そっか、と気づいた。
こんなおっさんに〝かわいい〟なんて言われても気持ち悪いよな……。
反省した。「きっしょ」と言われなかっただけでも良しとしなければ。
この娘といると、20歳近く年の差があることをつい忘れてしまう。
まるで学生時代に戻った気分になる。
高校は進学校だったので、クラスに金髪ギャルはいなかった。
たまにコンビニの前でたむろしているのを見ても、目に入らないフリをした。
36年間、金髪ギャルとは無縁の人生を送ってきた。
それが今、20年の時を経て、同じホテルの部屋に泊まろうとしている。
人生は不思議だ。
その後、テレビをつけて、二人でバラエティ番組を観た。
さやかはベッドの上であぐらをかき、バカ笑いをしていた。
俺は窓辺のソファに座り、途中から持ってきた文庫本を読みはじめた。
あははは、という少女の軽い笑い声が耳をやさしく撫でる。
夜の12時近くになり、さやかが、ふわあ、とあくびをした。
ギャルは本来、夜行性だ。徹夜上等のはずである。
昼間、何キロも自転車を漕ぎ、さすがに疲れていたのだろう。
「そろそろ寝るか」
俺が文庫本を閉じると、さやかが、うん、と眠そうな目をこすった。
ダブルベッドは、キングサイズとはいえ一つだけだ。
革張りのソファは二脚あるが、シングルなので、くっつけてもベッドにはならない。
俺は部屋を見渡した。
何か床に敷くものはないだろうか? 段ボールなんて最高なのだが。
「なにしてんの?」
掛け布団からさやかが頭をぴょこんと出している。
「敷くものを探してるんだよ。床で寝ようと思って」
「はぁ? いっしょに寝ればいいじゃん」
「そういうわけにもいかないだろ」
「あのねー、まだそういうこと言ってんの? あたしとコースケはヤルわけじゃないでしょ?」
「あたりまえだ」
「ただ男と女が一緒のベッドで寝るだけで、何が問題あるの? あたし、男友達の部屋に遊びに行って遅くなったら、同じベッドで寝ることもあるよ。でも、絶対にヤラない。言ったでしょ。ちゃんと付き合った相手としかあたしはしないから」
さやかが体を起こし、掛け布団をめくった。
「風邪ひくよ。こっちに来なよ」
たしかにあまりに神経質になると、逆に下心があるようだ。
万が一がある、と思っている時点でいやらしい。
俺はベッドに上がり、布団の下に体を滑り込ませた。
「消すぞ」
ヘッドボードの照明パネルに手を伸ばし、ライトを消した。
「あたし、いろんな男とベッドで寝たけど、教師と寝るのは初めて」
さやかがこちらに顔を向けていた。
窓から差し込む月明かりが、小さな顔に微妙な陰影を作り出す。
昼間見た騒がしいギャルではなく、大人びた美少女がいた。
「俺も生徒と同じ年齢の女と寝るのは初めてだよ」
「ねえ、ためしてみる?」
「何を?」
「セックス」
さやかの顔は笑っていなかった。
一瞬、互いに推しはかるような微妙な空気が流れた。
ぷっと吹き出すような少女の声が洩れる。
「ジョーダン。ごめんね、先生」
「……マジで部屋から放り出すぞ」
初めて「先生」と呼ばれた。
コースケでも、あんたでも、おっさんでもなく、先生。
境界線を引かれた感じがした。
でも、どこかほっとする自分がいた。
「きっと、いつか素敵な人と出会えるよ」
「だといいがな」
「知ってる? 運命の人とは赤い糸で結ばれてるんだって。今回は違ったってことだよ」
薄闇の中、俺はぼんやりと天井を見つめた。
運命の女は彩香ではなかった。
頭ではわかっていても、心では割り切れなかった。
「……今も好きなんだね。その彩香ってひとのこと」
それは不意打ちのようにずしんと俺の胸の奥に決まった。
ああ、そうなのだ。
ビッチだ、クソ女だと、けなすことで忘れようとしていた。
あんな目に遭わされたのに、俺はまだ彩香に未練があった。
涙がこぼれそうになり、俺は寝返りを打った。
さやかに背中を向け、顔を見られないようにした。
「……先生、泣いてるの?」
「泣いてない」
鼻声でそれだけ言うのが精一杯だった。
感情を抑えようとしても、肩が震えてしまう。
息を呑む音が聞こえるような、重苦しい静寂が包む。
沈黙を破ったのは俺からだった。
「電話したんだ……許すって……」
独白するように続けた。
「許すから、もう一度やり直そうって……」
「それで?」
「今さらやり直すことはできない。あなたとは別れたいって言われた」
三下り半を突きつけられたのは俺なのだ。
今まで誰にも言ってなかった。
俺は愛を二度、失ったのだ。
うっうっ、とくぐもった嗚咽がこぼれた。
「あーあ、情けないなー。36のおっさんが泣いちゃって」
肩越しにあきれたような声が聞こえた。
恥ずかしいと思っても、あふれだす感情を止められなかった。
クローゼットで浮気現場を見た夜も泣きはしなかった。
自分は合理的な人間で、冷静に対処できると思っていた。
でも、違った。
俺は強いのではない。ただ目を背けていただけだ。
行き場のない哀しみは、豪雨のダムのように決壊寸前だった。
ベッドが揺れ、暗やみで人がもぞもぞと動く気配がした。
ひんやりした手に頭を引き寄せられ、柔らかいふくらみに抱きとめられる。
少女の胸の谷間からは石けんの甘い匂いがした。
「泣きたいときは、ちゃんと泣いた方がいいよ」
俺は赤ん坊のように、おいおいと声をあげて泣いた。
唇が震え、歯がカタカタと鳴った。
大のおとなが 20歳も年下の娘の胸で泣くなんて情けなかった。
いつか白髪でシワだらけの爺さんになった時、訊かれるかもしれない。
人生でいちばんかっこ悪かったのはいつですか?
たぶん、それは今のような気がする。
どん底だった。
でも、そこはとてもあたたかく、やさしい場所だった。