8 人とかかわるのは嫌いですか?
旅行会社で申し込んだツアーなので、料理のコースは事前に決まっていた。
前菜、スープ、魚料理、口直し……と運ばれてきて、さやかはそのいちいちに目を丸くし、ときに顔をゆがめながらも口にしていった。
メインの肉料理が運ばれてきた。
「ラカン産、森鳩のサルミ仕立て、北の森の散歩風でございます」
ウェイターがテーブルに並べた皿を、少女はじっと見つめている。
ロースト肉の上に、きのこや薄く切ったジャガイモのフライ、チーズが散らされ、赤黒い濃厚そうなサルミソースが添えられていた。
「パロ……なにって?」
「森鳩、鳩料理だよ」
「ハトって、あの平和の象徴のハト? ポッポッポーっていうあれ?」
「まあ、まちがっちゃいない。そのハトだ」
「ハトって食えるの?」
「フランスじゃ高級食材だ。脂肪が少なくてワインとも相性がいい」
さやかがナイフの先で肉を小突いている。
食べられるものかどうか探っている猫みたいだなと思った。
切り分けられた肉をフォークで恐る恐る口に運ぶ。
もぐもぐと頬が動き、やがてびっくりした顔になる。
「めちゃくちゃうまい! お肉にソースが染み込んで、すごくジューシー」
「わかったから、でかい声を出すな」
俺は周りのテーブルを見回した。
「金持ちって毎日こんなもん食ってんの?」
「毎日ハトは食わないだろ。いちいち騒ぐな。小学生か、おまえは」
口に運ぶスピードが上がる。
カチャカチャとナイフとフォークの音が響く。
「食べるときはなるべく音を立てない。それが西洋のテーブルマナーだ」
「あ、そなの」
「急いで食べようとするから、ナイフやフォークの扱いが雑になって音が大きくなるんだ。ゆっくり食べてみな」
さやかの手の動きがゆるやかになり、音も小さくなった。
やりたい放題のように見えて、注意すれば従う素直さがあった。
それでも、よほど鳩肉が気に入ったのか、すぐ平らげてしまった。
フォークの先でソースをすくって名残惜しそうに舐めている。
餌を食べ終わった皿をペロペロする猫みたいだなと思った。
「俺のをやるよ」
パン用の小皿に肉をとりわけて渡してやる。
「え? いいの?」
「俺はさっきの魚でけっこうお腹がふくれてる」
そんなに美味しそうに食べてもらえると悪い気はしない。
たぶん、相撲取りの後援者はこんな気分なんだろう。
「ありがとー! でも、お肉くれるひとって初めて会ったよ」
今までどういう人生を送ってきたんだ。
終戦直後からタイムスリップでもしてきたのか。
俺が渡した肉もあっという間に小皿から消えた。
「はー、おいしかったー。これでお酒があればなー」
「未成年はだめだ」
「ちょっとでいいから、そのワインくれない?」
「だめだって言ったろ」
「ケチ。でも、あたし、こんなすごい場所で食事をするの初めて。友達に自慢してやるんだ。オーシャンビューの席で、フレンチのフルコースを食べたんだって」
うっとりと夜景を眺める少女に、俺は突っ込む気力もなかった。
不思議なことに、さやかが海と言ったら、本当に窓の外に海が見え、さざ波の音が聞こえてくる気がした。
たぶん、この娘の言動に裏表がないからだろう。
婚約者の彩香とも何度か高級レストランには行った。
もちろん、彼女のテーブルマナーは完璧だった。
めちゃくちゃうまい! などと大声で料理を褒めたりもしない。
でも交わした会話は、なぜか記憶に残っていない。
今思えば、テーブルの上を空疎な言葉が飛び交っただけではないか。
隣のテーブルが急に騒がしくなり、客たちの視線が集まった。
例のインバウンド旅行の白人一家だ。
父親と思しき白人男性が、ウェイターに猛然とまくし立てている。
「どうしたの?」
「注文した料理と違うってさ。子供がアレルギーなんだよ。その食材を外しておくよう伝えてあったのに、入っていたから怒ってるんだ」
「英語わかるの?」
「俺は英語教師だ」
「じゃあ、助けに行ってあげなよ」
「厄介ごとはごめんだ。リゾートホテルだぞ。英語ぐらいできるやついるだろ」
しかし、騒動はいっこうにおさまらない。
レストランにはカタコトの英語ができるスタッフしかおらず、白人男性はいら立ちを募らせている。
さやかがナプキンを膝から取り、椅子から立ち上がった。
テーブルを回り込み、俺の手を引き、隣のテーブルに連れていく。
「このひと、英語ができます」
俺はしかたなく店員と白人男性の間に入って通訳をした。
店側によれば、アレルギーの件は聞いていたが、食材の名称が日本とオーストラリアで違うため、別のものを外してしまったらしい。すぐ代わりの料理を用意するとのことだった。
白人男性は俺の説明に納得し、おとなしく席についた。
テーブルに戻ると、さやかが申し訳なさそうな顔をした。
「……ごめん、よけいなことをした?」
「いいんだよ」
俺は窓の外をぼんやりと見た。
窓ガラスに、36歳の疲れた独身男の顔が映っていた。
この旅では極力、人とかかわりたくなかった。
人とかかわると損をする。
実際、彩香という女と出会って俺は大損をしたではないか。
他人とはSNSでほどほどの距離をとって付き合うぐらいがいい。アニメのアイコンとニックネームで素性を隠し、いいね、を押すぐらいの関係の方が気軽だ。
いや――本音ではわかっていた。
俺は怖かった。
誰かとかかわって、また傷つけられるのが嫌だった。
「でも、さっきのちょっとかっこよかったよ」
さやかがフォローするように言った。
「ちょっとか」
「顔があたしの好みで、あと10歳若かったらホレてたかも」
「どんな顔の男が好みなんだ?」
「うーん、やっぱ肌は浅黒くて、目つきが鋭くて……あと腹筋が割れてれば言うことなし」
「アイドルとかじゃないのか?」
「チャラいのは嫌い。あたしはオラオラでツヨメな男がいい」
「ツヨメ?」
「無茶ができるやつだよ。真冬のプールに飛び込むとか、裸で高速道路を走るとか、ワサビをイッキ食いするとか」
「なんだよそれ」
さやかの説明を要約すると、ヤンキーやギャルの間では、反社会的で、逸脱的な行動をとれる人間がリスペクトされる。ナイフで人を刺すとかではなく、他人を傷つけない範囲で、人を驚かせ、笑わせられる行為が賞賛される。
「おまえらだろ。レストランの厨房で食べ物を粗末にして、SNSを炎上させてるの」
「でも、コースケにもいいところはあるよ。あんたの手、好きだよ」
「手?」
俺はフォークを握っている自分の手を見つめた。
「細くてきれいで……ちょっとエロいよね」
いつの間に手など見られていたのか。
気づかぬうちに値踏みされていたようで、俺は複雑な気分だった。
「まあ、オヤジと同い年ってだけでありえないけどねー、あはは」
「俺だって同い年の男のガキなんて願い下げだ」
ウェイターがトレーに料理をのせてやってきた。
「こちら、当レストランからのサービスでございます。コースにあるデザートをグレードアップさせていただきました」
白いスクエアなプレートには、イチゴやキウイなどの色彩豊かなフルーツ、紫色のシャーベットと赤いムースのケーキ……等々がきれいに配置され、チョコソースと白い粉砂糖で一枚のアートのように仕上がっていた。
「ね、人助けをして良かったでしょ」
さやかがうれしそうに笑い、俺は肩をすくめた。
グレードアップの理由はさっきの白人家族の件だろう。
「スマホ貸してよ。このプレート、撮っときたいの」
さやかの携帯は部屋で充電中だった。
俺はしぶしぶ黒い筐体をズボンのポケットから出して渡した。
少女がレンズを皿に向け、カシャカシャとシャッターを切る。
「お撮りしましょうか?」
ウェイターが気を効かせて声をかけてくる。
カップルの記念ディナーだとでも思ってるのだろう。
「いや――」
「あ、いいんですかー」
俺の声をさえぎるように、さやかが勝手にスマホを差し出す。
「こっちを向いて。はい、撮りますよー」
俺とさやかはカメラに顔を向けた。
ピースサインを作る少女の横で、俺は笑顔を引きつらせていた。
ホテルで金髪ギャルと一緒の写真が流出したら教師人生はおしまいだ。
さやかが寝たらすぐ画像を削除しよう、と俺は思った。