35 そして、また旅が始まる
◇
風がまつ毛を揺らし、俺は静かに目を覚ました。
そこはログハウスの寝室だった。
ベッドの上に俺はいた。
体に毛布をかけられている。
体を起こすと、隣に金髪の頭があった。
さやかがショーパンにキャミソール姿で寝ていた。
寒そうに体を丸めるので毛布をかけてやると、少女のまぶたがゆっくり持ち上がる。
「悪い、起こしたか」
目をこすりながら、少女ものろのろ体を起こす。
「ううん、ちょっと居眠りしちゃっただけだから」
「お父さんやお母さんたちは?」
部屋に姿はない。一階からも声は聞こえてこない。
「海に遊びに行った。せっかく来たんだからって」
母親が乗ってきた車で、三人で行ったらしい。
俺はふっと笑った。あのお父さんらしい。
「ごめんね、コースケ」
不意にさやかが言った。
「何が?」
「年齢、サバよんでたこと……」
「いいんだ。ちょっと驚いただけだから」
冷静に考えれば17歳が16歳になっただけだ。
未成年であることに変わりはない。
いや、けっこう大きいことなのかな。
もう自分でもいろいろ麻痺していてよくわからない。
ちなみにサバを読むとは、物事を実際より大きく見せることだから、この場合は〝逆サバ〟と言うべきなのだろう。ただし、いちいち指摘する気はなかった。
「なんか、言い出しにくくなっちゃって……16って言ったら、コースケが引くんじゃないかって……」
「だいじょうぶだよ」
「あの……結婚とか、お父さんが言ってたけど、気にしないでね。いつもあんな感じだから」
「明るくて、楽しそうな家族だな。なんか、ちょっとうらやましいよ」
俺は一人っ子で、両親は教師と公務員だった。ルールや決まりごとの多い家で、部屋は常に整理整頓され、ゴミ箱はいつも空。家の中で笑い声を聞いた記憶があまりない。
「あたし、子供のときからお父さんに言われてきたんだ。付き合うなら、結婚してもいい男と付き合えって」
半端な覚悟で男と寝るな、そういう意味だろう。
「そのくせ、自分は浮気ばっかりして、お母さんに愛想つかされたんだよ」
娘たちを北海道に連れていかれたことが相当、応えたらしい。もし次、浮気をしたら、娘たちと二度と会わない――そんな誓約書を書かされて復縁したという。
「でも、良かったじゃないか。東京に戻って、また家族みんなで一緒に暮らせるんだろ?」
「うん。でも、北海道にも少ないけど、友達ができてたから、ちょっとさみしいけどね。あ、それと、この旅で、北海道のいいところをたくさん知ったから」
看護師の母親は仕事が忙しく、北海道に移住したとはいえ、観光地に行ったことはなかったらしい。シングルマザーで二人の娘を育てなくてはならず、お母さんも大変だったのだろう。
「でも、これでおまえの家出も終わりだな」
家族といっしょにさやかは家に帰る。
それはもう暗黙の了解で決まっていた。
「……コースケはどうするの?」
「俺は……せっかく北海道に来たし、もう少し旅を続けるよ」
ツアーはキャンセルされ、宿はないが、そんなことは気にしない。ライダーハウスもあるし、いざとなればテントでだって寝れる。
もう怖くない。野外で寝ることも、知らない人と寝泊まりすることも。旅に出る前より、俺は人に心を開けるようになった。
「あたしも行く」
俺はふっと笑った。そう言うと思った。
いちずなさやからしい選択だった。
よく言うじゃないか。
そういうコは熱しやすく、冷めやすいとかさ。
自称・恋愛上級者たちの常套句だ。
実際そうなのかもしれない。
でも、俺はうれしかった。
いっしょに行きたい、と言ってもらえたことが。
言葉や行動で好意を伝えてもらえたことが。
でも、やっぱりこう言った。
「お父さん、せっかく北海道に来てるんだろ。久々に会えたんだから、いっしょにいてあげろよ」
「でも……」
「たまには大人の言うことも聞け。それに――実はさ、ちょっとだけ、一人で旅をしたいんだ」
少女に言えないことがあった。
昨夜、俺はさやかを抱きながら、その脳裏に彩香を思い浮かべることがあった。クズ野郎だとは思ったけど、少女と元婚約者を比べてしまった。
別れてまだ一か月ぐらい、元婚約者の幻影みたいものが、俺の心と体にはこびりついていた。
だから、この旅で、彩香の記憶を完全に消し去りたい。そのためには、もう少し、一人になる時間が必要だった。
俺のそんな覚悟や気持ちが伝わったのかはわからないが、さやかはいつものようにダダをこねなかった。
「必ず戻ってくるよね?」
「あたりまえだろ」
俺のズボンのポケットにはもう遺書はない。
必ず戻る。この少女のもとへ。
「おまえのところへ戻る。約束する。引っ越しが終わったら東京で会おう」
「いいの?」
「だって、付き合ってるんだろ? 俺たち」
さやかが微妙な笑みを浮かべた。
距離や時間が空くことを不安に思っているのだろう。他のカップルと違い、俺たちはともに積み重ねた時間が少ない。
「ねえ、愛してるって言って」
少女が真剣な顔で言った。
俺は腕組みをして、うーん、と唸った。
「……なんか照れるな。言葉に出さないとダメか?」
なにせ相手は16歳の少女だ。
17から16になって、気恥ずかしさは増した。
「言葉に出さないとダメなんだよ」
「愛してる」
「もう一度いって」
「愛してるよ、さやか」
少女が俺の胸に飛び込んできた。
俺は細い腰に手を回し、強く抱き寄せた。
ふたつの唇が静かに重なった。
窓の外から風が吹き込み、白いレースのカーテンが揺れた。
◇
「じゃあ、みなさん、帰り道、気をつけて」
ログハウスの前に俺は立っていた。
近くに軽自動車が停まっていた。
運転席にはお母さんが、後ろの席には娘たちが乗っている。
ルーフにはマウンテンバイクが固定されていた。なんだか懐かしい。パンクした自転車、それが俺とさやかの出会いを生んでくれた。
やはり、さやかは家族と一緒に家に戻ることになった。東京の学校への編入試験の準備とか、引っ越しとか、やらなくてはならないことが山ほどあったからだ。
父のシゲルは車の外に立っていた。
そばに大型のアメリカンバイクがある。千佳さんのバイクより、ハンドルが長く、車体も一回りデカい。
「おう、コースケ、おまえ、酒飲めるのか」
「はい、好きです」
「じゃ、こっちの引っ越しが落ち着いたら、東京で一緒に飲もうぜ」
「ええ、ぜひ」
「あ、敬語はいらねえからな。俺らタメだろ?」
俺は微妙な顔でうなずいた。
それから思い出したように言った。
「あの……ビーストって……」
「おお、俺のミドルネームな。若いやつらが勝手に付けたんだけどな」
ミドルネームではなく、ただのあだ名のような気もするが、まあいい。
「あの……ザ・ビーストです」
「はぁ?」
「シゲルさん個人を指すので。定冠詞のTheがあった方がいいかなと」
金髪の下の顔が、ふっ、と笑った。
「かっこいいじゃねえか、ザ・ビースト。うん、いい」
バイクにまたがり、ヘルメットの顎紐を結んだ。エンジンをかけ、アクセルをふかした。「じゃあ、またな」と言うなり、滑るように車体が走り去っていく。
その姿は――なんというかキマっていた。あの美人の奥さんが惚れるのもわかる気がする。
俺は車に近づいた。開いた窓からさやかが顔を出す。
「コースケ、毎日、連絡してね」
「ああ、するよ」
さやかと約束した。旅先で見た風景、食べたおいしい料理、出会った人たち……メッセンジャーで毎日、伝えてほしい、と言われていた。
一人で旅をしたとしても、これからは一人じゃない。俺はもう一人じゃない。
運転席で母親がぺこりと頭を下げ、車が動き出す。
後部座席で姉妹が手を振っていた。
俺も小さく手を振り返した。
車が見えなくなるまで、俺は手を振りつづた。
それから自分のフォルクスワーゲンに向かった。
荷物はもう積み込んであった。
運転席に座り、エンジンをかけた。
家族が去っていったのとは逆の方向に進路をとる。
やがて広い国道に出た。
青い空。
沈まない太陽(実際には沈むけど。まあ、イメージだ)。
地平線まで続く一本道。
これから俺の新しい人生が始まる。
次話のエピローグ(後日談)をもって、本作品は完結となります。
 




