32 神聖な夜
◇
「Aの7……このロッジじゃないか」
木造りの二階建ての家の前で、俺は車を停めた。すっかり日も暮れ、辺りは暗かった。
緑に囲まれた静かな区画にそのログハウスはあった。隣の家とも離れ、あたりに人の姿はない。高原のリゾート地にある別荘といった趣きだ。建物の前に「A-7」という白い看板が立っている。
家の外には丸太で組んだウッドデッキがあり、俺とさやかは階段からデッキに上がり、鍵でドアを開けた。
入り口近くの壁のスイッチを押すと、天井の明かりがついた。
「うわ、めっちゃ豪華じゃん」
後ろから入ってきたさやかが驚きの声をあげる。
高い天井、明るいパイン材のフローリング、テラスに面した大きな窓、広いリビングの東側の壁際には、黒い鋳鉄の薪ストーブまであった。
少女が大きく腕を広げ、深呼吸をする。
「うーん、木の匂いがする」
浜辺を散歩した俺たちは、日が沈むと駐車場に停めてある車に戻った。それから海から少し引っ込んだ場所にある森林キャンプ場に向かった。
途中、鮮魚センターで、夕食用に、紫ウニやタコやイカ飯といった海産物を買い込んだ。
キャンプ場の受付で鍵をもらい、このログハウスにやって来た。
「でも、千佳さんに感謝だね。こんないいところを紹介してもらって」
ここは、彼女の父親が役員をする会社の保養施設だった。以前、使ったことがあるらしく、ネットで空きを確認した上で、彼女の名義で申し込みをしてくれた。
「そうだな」
俺はうなずいた。最後にもらったメールの文末に「次は私と行きましょうね」と書かれていたことは内緒だ。
「先に風呂に入ってこいよ」
北欧風の革ソファのそばに俺は荷物を置いた。
「うん、わかった」
さやかがリビングから廊下に出ていく。
俺は食材の入ったビニール袋を手にカウンターキッチンの奥に入った。冷蔵庫はもう使える状態になっていた。扉を開け、食材やビールをしまった。
それからソファに腰を沈め、テレビをつけ、さやかが風呂から出るのを待った。北海道のローカルニュースは、阿寒湖のナイトイルミネーションが始まったという話題を報じていた。
うつらうつらとしていると、リビングのドアが開く気配がした。
「おまたせー」
髪の毛をバスタオルで拭きながらさやかが入ってくる。
「すっごくきれいなお風呂だった。あ、お湯、ためておいたよ」
寝巻用のスウェットの上下、メイクを落とし、カラコンも外している。金髪を除けば、スマホで見た双子の妹にそっくりだった。
「……なに、見てるの?」
じっと俺に顔を見つめられ、さやかが戸惑う。
「いや、ギャルメイクとカラコンもよかったなって」
「え? でもコースケ、セージュン派が好みなんじゃなかったっけ?」
「ギャル顔を見慣れたんだろな。あっちの顔の方がよく思えてきた」
腕組みをしながら俺はうなずく。世の中、慣れとは恐ろしい。
「あ、じゃあ、今から戻してこようか?」
くるっとリビングを出ていこうとする少女を、俺は引き留めた。
「いいよいいよ。それはそれでいいから」
「それはそれって……」
「悪かった。そっちのおまえの顔も好きだよ」
俺が言い直すと、さやかが黙り込んだ。
少し頬が赤くなっていた。
さらっとこういうことを言えるようになった自分に、俺は驚いていた。
「風呂に行ってくる。すぐ戻るよ」
夕食があるので、俺は早めに戻ると告げた。
「テレビでも見てるから、ごゆっくり」
俺はリビングを出て、浴室に向かった。脱衣場に入り、服を脱いだ。白木で造られた明るい脱衣場だった。
台の上に籐製のカゴがあり、脱ぎ捨てられた少女のショーパンやキャミソールが置かれていた。薄いピンクのブラジャーが目に入り、ドキッとした。
視線を引きはがし、浴室に続く扉を開けた。洗面器でお湯を体にかけ、シャンプーで頭を洗った。壁にはめ込まれた姿見に濡れた裸身が写っていた。
ブクブク太っているわけでもないが、腹筋が割れているわけでもない中途半端な体が写っていた。
見事に36歳の年相応のオッサンだな……。
ポンプ型の容器からボディソープを手にとり、いつもより念入りに脇の下や股間を洗った。洗面器でお湯をすくい、体を洗い流す。
それから浴槽の縁をまたぎ、湯舟に体を沈めた。膝を曲げて座り、顎までお湯に浸かった。両手でお湯をすくい、顔を洗う。
俺は今夜、さやかと――。
ついに結ばれるのか。覚悟はできていたが、戸惑いがないかと言えば嘘になる。
17歳……普段、学校で教えている生徒と変わらない歳なんだよな……。
自分は東京在住、さやかは北海道だ。この関係が続くのか、そもそも、さやか自身が続かせようと思っているのかさえわからない。
あえて尋ねようとは思わなかった。少女に訊けば、返ってくる答えはわかっていた。
「あはは、先のことなんてわかんないよ」
そう言うに決まっている。瞬間を生きるギャルに未来のことを尋ねてもしかたない。
だから、俺もグダグダ将来のことを悩むのをやめた。人生がどうなるかなんて誰もわからない。今、俺はさやかを愛している、その気持ちだけはたしかだった。
◇
風呂から出た俺は、上下スウェット姿でリビングに戻った。
冷蔵庫に入れておいた食材を出し、サケの切り身などはコンロで焼き、イカ飯やウニなどはそのままテーブルに並べた。
冷えたビールをおともに、北海道の新鮮な幸を味わった。最高に美味しかった。さやかが何を飲んだかって? それはここでは触れないでおく。ただ、もう牛乳は飲ませなかった。
食事を終え、俺たちはソファに移った。さやかの学校生活や友達のことを聞いた。周りにギャルが少なくて浮いている、とボヤいていた。妹とは本当に仲がいいらしい。子供の頃から喧嘩ひとつしたことがないと。
「妹の方がしっかり者だからね」
その後、トランプをしたり、テレビを見て過ごした。
さやかが、ふわあ、とあくびをかみ殺した。
俺はリビングの時計を見上げた。
もう夜の11時を過ぎていた。
「そろそろ寝るか」
さやかが、うん、とソファから腰を上げた。
リビングを出て、二人で二階の寝室へ向かう。
廊下にある扉を開け、壁のスイッチをつけた。梁から吊り下がったペンダントライトが部屋を淡く照らす。
広い部屋には、大きなベッドが二つ並べて置かれていた。ちょうど屋根の部分なのだろう、天井の形が三角だった。
さやかが窓辺のベッドにちょこんと座り、俺はなんとなく、もう一つのベッドに腰を落とした。
それを見たさやかが眉根を寄せる。
「なんでそっちにいくの? こっちに来なよ」
「あ、うん」
俺はあわてて隣のベッドに移った。
ふたりで並んでベッドの縁に座る。
少し悩んだ末に俺は伝えておくことにした。
「あの……さ、最初に言っておきたいんだけど、俺、そんなに経験があるわけじゃないから」
「なんの話?」
「テントでおまえ言ってたろ。オッサンとするのが楽しみって……」
年齢=性体験の豊富さ、ではない。
俺に熟練の性技とかを求められても困る。
暗にそう伝えた。
あははは、とさやかが笑った。
「いいよ。コースケにそういうの期待してないよ」
俺はちょっとむっとした。それでそれで悔しい。けれど、現実にAV男優のようなテクニックがあるわけではないので黙っていた。
「あ、怒った?」
「そういうわけじゃ……」
「コースケは、コースケのままでいいよ。ありのままでさ」
そこで会話が途切れた。
俺はベッドサイドのナイトランプをつけ、出入り口に戻り、壁のスイッチを押して、ペンダントライトを消した。部屋が薄暗くなる。
ベッドに戻り、再び少女の隣に並んで座った。
やがて焦れたようにさやかが言った。
「……なんで何もしてこないの?」
「え?」
「だって、普通こういうときって、男の人は、がばっと押し倒してくるよ」
「あ、ああ……そうだよな」
俺は女を押し倒したりとかが苦手なのだ。何か気恥ずかしいというか、どういうタイミングで女に迫ればいいのかわからない。
大学生の頃からこんな感じだ。36歳の今でもわからないのだから、たぶん、この先もずっとわからない気がする。
少女のスウェットの肩に腕を回すと、さやかが金髪の頭を俺の肩にもたれかからせてきた。シャンプーだか石けんの甘い香りがした。
「……おまえ、されたくないこととかあるか?」
シェフが客に食べ物のアレルギーを事前に尋ねるように俺は訊いた。
いや、こういうのって、ズレがあると後でいろいろ面倒だろ? 相手はギャルだ。陰キャの俺とでは、セックスの価値観がちがう可能性はある。
「されたくないこと? うーん、特にないかな」
それから急に思い出したようにつぶやいた。
「あ、でも、あれは嫌かな……」
「なんだ?」
「えーとね……」
珍しく少女が口ごもる。
それから意を決したように言った。
「……お尻でするのとかは嫌……」
俺はごくっと息を呑んだ。
上級者すぎる。どんな相手と寝てきたんだ。くどいようだけど、俺がちゃんと付き合ったのは、大学の人形劇サークルの後輩(処女と童貞のカップルだった)と彩香ぐらいだ。
ぶっちゃけ、ほとんど正常位しかいたしたことがない(ちょっとだけ騎乗位も。彩香が好きだった)。ちなみに正常位は、海外では〝宣教師の体位〟と呼ぶ(聖職者がするようなクソまじめな体位だから)。
さやかが恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「ちがうの……普段からそういうことをしてるって意味じゃなくて……ただ昔は、いろいろヤンチャしてたっていうか……ほら、お互い若いころって、なんでも試してみようってとこがあるじゃん……」
若いころって、おまえ、まだ17歳だろ。
まあ、それは今は置いておこう。
「それで……したのか? その……あっちの方で……」
少女が真っ赤な顔でぶるぶる首を振った。
「してない。未遂。てか、ぜったい無理。二度とやりたくない。オトナってすげーって思った。あんな穴で何かしようと思うんだもん」
真剣な顔でうなずくのがおかしかった。
ぷっと、俺は吹き出した。
「笑わないでよ! こっちはマジだったんだから……」
さやかが赤い顔で俺の胸をポカポカ叩いてきた。
その腕を押さえながら俺は言った。
「わかったよ。約束する。そういうことはしない」
だけど、さやかには申し訳ないけど、「お尻トーク」のおかげで俺はリラックスできた。なんでもこいのギャルでもビビることがあるんだなと。
少女の肩を抱き寄せ、顔をこちらに向けさせた。
さやかがまぶたを閉じた。
二つの唇がそっと重なる。
舌が最初は恐る恐る、やがて積極的に絡まり合った。
やがて顔が離れた。
少女が、あとね、と言った。
「まだあるのか?」
「あたし、その……気持ちよくなってくると、自分でもわけわかんなくなってきちゃうから……声とかすごい出ちゃうかも……だから、私がどうなってもコースケは引かないでね」
「約束する。ぜったいに引かない」
俺は笑いを押し殺しながらうなずいた。
「あ、それとね――」
「もういい」
俺は少女の両肩をつかむと、なおも何か言いかける口をキスで塞ぎ、小さな体をベッドに押し倒していった。
残念ながら、この晩ベッドで何があったかは、これ以上、俺の口からは言えない。ただ、けっして「引く」ようなことはなかった、それだけはお伝えしておきたい。




