31 世界の果て
◇
「うわあー、チョーきれいじゃん」
浜辺に降りたさやかが声をあげた。
標津町の「海の公園」に俺たちは来ていた。敷地内ではテントを張っている人も大勢いたが、ここはキャンプ場から離れている上、もう日が沈みかけているので、辺りにほとんど人影はなかった。
海からおだやかな波が静かに打ち寄せる。
車が到着したのは、ちょうど夕暮れどきだった。
青みがかった空の下に雲がたなびき、赤い夕陽が地平線に溶けている。今日という一日が終わろうとするとき、世界はもっとも美しい輝きを放つ。
「あははは、冷たい」
脱いだ革ブーツを両手に持ち、少女が素足で波打ち際を行ったり来たりしている。ショーパンから伸びる白く長い足を波が追いかける。
「コースケもおいでよ。水が気持ちいいよ」
振り向いたさやかの頭の後ろに夕日が逆光になる。
少女の白い肌と金髪が黄金に光り輝いた。
「わわ、ヤバっ」
さやかがバランスを崩し、俺にしがみつく。
そのまま俺たちは手をつないだ。
「ねえ、この海の先には何があるの?」
肘を絡めながら、さやかが水平線に目を向ける。
「国後島かな。その先は北太平洋、ロシア……アラスカ……そんなとこか」
この海の向こうにもたくさんの人生があるんだろう。
語り合う友達が、愛を結ぶ恋人が、家族がいる。
だけど、今この浜辺にいるのは俺とさやかだけだ。
「静かだね」
頬にかかった金髪を少女の指がかきあげる。
緑のカラコンの瞳は高価な宝石のようだ。
さやかが俺の視線に気づいた。
手をつないだまま、じっと見つめあった。
細い腰を俺は抱き寄せた。
さやかの白い腕が俺の顔に伸び、両手で頬を挟む。
少女の小さな顔が迫り、柔らかい唇が重なった。まぶたを閉じた俺の耳に、ざざあ、という波の音が聞こえた。
やがて唇が離れた。
かすんだような瞳を少女が海に向ける。
「来てよかったね……」
「そうだな」
それから俺とさやかは砂浜を散歩した。
互いの指と指を絡めるように手をつないだ。
不思議と恥ずかしくなかった。
36歳と17歳だからとか、
オッサンとJKだからとか、
自分が教師で、彼女が高校生だとか、
そんなことはすっかり頭から消えていた。
人の目がなければそんなものだ。
世間体とか、いい歳してみっともないとか、
この世界に二人しかいないと思えば、
どうでもよくなる。
目の前には自分の愛しい女性がいる、
それだけだった――。
夕日の照らす砂浜を歩きながら、
俺とさやかはとりともめのない話を続けた。
好きな映画の話、漫画の話、音楽の話……
そりゃもう、笑うくらいかみ合わなかった。
だって36歳と17歳だぜ。
でも、さやかは俺が小難しい話をしても、なにそれ? よくわかんない。それっておもしろいの? なんて眉根を寄せながら、それでもちゃんと耳を傾けてくれた。
この少女の前では俺は俺のままでいられた。
かっこつけることも、気取ることもなく、
大人のフリをする必要もない。
高校生のときに戻ったような気持ちになれる。
話が一段落すると、さやかが、あのさ、と切り出した。
「あたしが家出をした理由、言ってたっけ?」
「そんなに詳しくは」
とび職のお父さんと看護師をしているお母さんが離婚し、東京から母親の生まれ故郷である北海道に戻ってきて、田舎の生活になじめなくて家を飛びだした――そんな感じだったと思う。もううろ覚えだが。
「お母さん、再婚するんだ。電話で話してるのを聞いちゃった」
「そうか」
「まあ、お母さんもまだ若いし、再婚したほうがいいってのは、わかってんだけどね」
新しい父親とうまくやっていけるか不安だ、と少女は正直に告白した。
「どんな人なんだ? その新しいお父さん」
「さあ、よく知らない……あ、36歳とか言ってたかな。わ、新しいお父さん、コースケと同い歳じゃん!」
「マジか」
「そっか、あたし、お父さんと同い歳の人と付き合ってるのか……」
今さら気づいたようにさやかがつぶやいた。
半ば海に溶けかかる夕日に俺は目を向けた。
さやか、俺もおまえに言ってないことがあるんだ。
俺が一人で北海道に来た理由だ。
婚約者の彩香にこっぴどいフラれた方をした俺は、カーナビで北海道を周遊するツアーに一人で出発した。
本来なら、最後の宿泊地がここ標津だった。
そこで俺は自分の人生を終わらせようと思っていた。
いや、明確にそう決めていたわけじゃない。
心の片隅で、そうなってもいいかな、と考えていた。
車ごと断崖から落ちるか(実際に来てわかった。そんな2時間ドラマのエンディングに出てくるような都合のいい断崖はそうない)、練炭を焚いて車の中にこもるか……具体的に何か手段を用意していたわけじゃない。
すべては元婚約者の彩香へのあてつけだ。遺書で洗いざらいぶちまければ、彩香も少しは心が痛むかな、なんて思っていた(ただヘタレな俺のこと、結局、自殺なんてする度胸はなかったと思う)
浜辺で俺は立ち止まった。ズボンの後ろポケットから折りたたんだ白い封筒を取り出した。それは東京を出るとき、一晩かけて書き上げたもので、俺の遺体のそばで発見されるはずのものだった。
俺は封筒をビリビリに破きだした。
「なにしてるの?」
紙吹雪でも作るように封筒を引き裂く俺を、さやかが不思議そうに見ている。
「海の環境を守るためにも、なるべく細かくしとく」
それから俺は靴を脱ぎ、靴下を足先から抜いた。チノパンを膝までめくり、雄たけびをあげて海に突っ込んでいった。
「うおりゃー」
振りかぶるように紙片を暗い海に放り投げる。
勢いあまって足を滑らせ、海にドボンと沈んだ。ずぶ濡れになった俺の頭に、海藻のようなものがのっていた。
「あははははは」
浜辺でさやかが指をさして笑った。
ぽたぽたと顎から水を滴らせ、遠くの水平線を見つめる俺の脳裏に、オースターの『ムーンパレス』の最後の一節が脳裏によみがえった。
――僕は世界の果てに来たのだ。この向こうにはもう空と波しかない。そのまま中国の岸辺まで広がる、空っぽの空間があるだけだ。ここから僕ははじめるのだ、と僕は心のうちで言った。ここから僕の人生がはじまるのだ、と――




