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30 いさぎのよい引き際

 ◇


 まぶたがゆっくり持ち上がる。

 降り注ぐ木漏れ日に、俺はまぶしそうに目を細めた。

 ぼんやりした視界が焦点を結ぶ。


「あ、起きた――」


 誰かが俺の顔を覗き込んでいる。

 さやかがいた。隣には千佳さんの顔もある。

 

 キャンプ場にある大きなケヤキの木陰だった。

 芝生に敷かれた寝袋の上に俺は寝ていた。

 身体には毛布がかけられている。


 千佳さんに背中を支えられ、俺は上半身を起こした。

 さやかがペットボトルを差し出した。


「びっくりしたよ。突然、倒れるんだもん。キャンプ場にいた家族連れの中に、たまたまお医者さんがいて診てくれたんだよ」


 透明なボトルを口につけると、生ぬるい水が喉に落ち、俺はようやく息をついた。

 千佳さんが俺の手からペットボトルを引き取る。


「良位性のめまい症だろうとおっしゃってました。疲れや寝不足のせいだろうって……涼しいところで休めば治るそうです。体調はどうですか?」


「もう大丈夫です。めまいもありません。すいません、ご心配をおかけして」


 さやかが立ち上がり、尻やすねについた草を払い落とす。


「もう少し休んでなよ。あたし、テントとか、バーべーキューの道具を返却してくるね」


 丸めたテントを背に担ぎ、両手にBBQセットを抱える。手伝おうと立ち上がりかけた千佳さんを「あ、いいよ」と制した。


「一人で大丈夫。千佳さんはコースケを見てて」


 さやかが姿を消し、木陰には俺と女子大生が残された。

 太い木の幹に俺は背中を預けた。涼しい高原の風が首元をかすめる。


「……すいません」


 俺はまず千佳さんに詫びた。


「なんで、奥平さんが謝るんですか?」


「……でも、怒ってますよね」


「まあ、ちょっと……」


 やっぱり。まあ、当然だわな。目の前で、男に「二人で過ごしたい」だの「神聖な夜を迎えたい」だのと連発されて(自分ではない別の女に)、心おだやかでいられる人間はいない。


「奥平さんが寝ている間に、渚さんから話をされました」


「あいつ……なんて?」


「私たちはもう付き合ってるから、身を引いてほしいって……」


 がくっと俺は肩を落とした。

 さやからしいド直球な行動だった。


「ほんとなんですか? お二人が付き合っているっていう――」


「……すいません」


 俺はあえて否定しなかった。


 キスをしたのは事実だ。あれが交際成立の証しだとは思わなかった。

 良いたとえかわからないが、砂漠で遊牧民の長老と握手をしたら、族長の娘さんをください、という意味だったと後で知ったような感じだ。


 だとしても、もういい。俺は族長の娘(ギャル)をもらおう。キスの件がなくても、最終的にはさやかを選んだ気がする。その場しのぎの嘘を積み重ね、これ以上、千佳さんを傷つけたくない。


「言ってくださったらよかったのに」


 最初にバンガローで千佳さんに会ったとき、俺はさやかをヒッチハイクで拾った家出娘だと紹介した。ただ、あの時点では嘘ではなかったと思う。


「……ほんとにすいません」


 何を口にしても言い訳になる。

 はあ、と千佳さんがため息をつく。


「身を引けって……これで二度目ですよ、私。女の人から言われたの」


 ああ、そうか。

 千佳さんは不倫相手の奥さんにそう迫られたのだ。

 今度は人妻じゃない。17歳のJKだ。

 ダメージも大きいだろう。


「松田さん……」


「いいんです……運が悪かったんです。奥平さんに会うのが少し遅かったんです。奥さんのいる人にハマって……ようやくそうじゃない人と出会えたと思ったら、その人にはもう彼女がいた……人生ってうまくいかないものですね」


 最後の方はちょっと鼻声だった。

 俺は黙って聞くことしかできなかった。

 あーあ、と千佳さんが、泣き顔を見せまいとするかのように首を仰がせる。


「なんで私、こう男運がないんだろ……前世の行いの悪さですかね」


「そんなことないですよ。松田さんはすごく魅力的な女性です。僕が言うのもなんですけど……」


 彼女が妻子ある男性に身をやつしていた頃、俺は同僚の性悪女教師に熱を上げていた。もう少しお互い出会うタイミングが早ければ――。

 いや、それは言っても仕方ない。男女の関係はすれ違いの連続だ。


 彼女のことが心配で俺は訊ねた。


「……これからどうされるんですか?」


「網走の方に行こうと思ってます。海を見たいんです。オースターの『ムーンパレス』の最後の一節、覚えていますか?」


 俺はうなずき、おもむろに口を開いた。


「――僕は世界の果てに来たのだ。この向こうにはもう空と波しかない。そのまま中国の岸辺まで広がる、空っぽの空間があるだけだ。ここから僕ははじめるのだ、と僕は心のうちで言った。ここから僕の人生がはじまるのだ、と――」


 千佳さんが微笑んだ。


「網走だから中国じゃなくて、ロシアですかね。世界じゃないかもしれないけど、日本の果てを見て、私も新しい人生を始めたいんです。だから北海道に来たんです。でも、奥平さんと一緒に見たかったな……」


「…………」


 俺は苦しげに顔をゆがめた。彼女の気持ちに応えられないのが本当に申し訳なかった。


「そんな顔しないでください。私まで哀しくなります」


 千佳さんすっと顔を寄せてきた。

 俺の頬に軽く唇を触れさせる。


「お別れのキスです。これでいさぎよく身を引きます」 


 俺は頬を押さえ、女子大生を見つめ返した。近くにいた小学生ぐらいのガキが「あのオッサン、お姉ちゃんとキスしたぞー」とはやしたてた。



「千佳さんと別れたこと、後悔してない?」


 助手席からさやかの声がした。

 俺はフォルクスワーゲンのハンドルを握っていた。


「ああ」


 前を千佳さんのアメリカンバイクが走っている。

 ドドドという低いエンジン音が聞こえた。


 やがて青い交通標識が見えてきた。

 左に行けば網走だ。


 バイクがウインカーを出し、路肩に寄せて停まった。

 車はそのまま直進していく。

 千佳さんがヘルメットを脱ぎ、手を振っている。

 さやかが窓から身を乗り出した。


「バイバーイ、千佳さん、またねー!」


 手を大きく振り、別れを惜しむ。

 自分が別れさせた女への()()()()とかじゃない。

 本心から彼女との別離を残念がっていた。

 こいつはそういうやつなんだ。


 好きな男と二人きりで過ごしたい。

 でも、恋敵という関係を離れれば、千佳さんも好き。

 どっちも嘘じゃない。

 さやかの本当の気持ちなんだ。


「いい人だったな、千佳さん……バイクのこと、いろいろ教えてくれた。あたしも免許とってみようかな」


「うん」


「……あたし、もっとシュラバになるかと思ってた」


「そうか」


 思った。

 それはたぶん、相手がおまえだからだよ。


 誰かを好きだという気持ちにまっすぐで嘘がない。それを千佳さんもわかったから、潔く身を引いたんだ。


 相手が俺の元婚約者の彩香なら、千佳さんは最終ラウンドまで闘ったはずだ(クリンチも、反則も辞さず)。


 スマホにメールが着信する音がした。

 ハンドル横のホルダーに俺は手を伸ばす。

 千佳さんからだった。

 文面にはこう書かれていた。


『教育実習、奥平さんが勤められている学校に行きたいです。東京に戻ったら、またお話を聞かせてくださいね』


 俺はスマホのスリープボタンを押した(いわゆる〝そっ閉じ〟というやつ)。


「千佳さんから?」


 さやかが俺の横顔を見つめてきた。


「うん……さよなら、だってさ」


 黙って俺はスマホをホルダーに戻した。

 

 まあ、あれだ。いさぎよい引き際なんて、男女の関係にはないのかもしれない。

 とりあえず、北の大地での第1ラウンドは、ギャルに軍配が上がったということで。

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