3 ハメを外したことはありますか?
「で、彼氏の家に行ったら、玄関に知らない女の靴があるわけよ。ベッドで二人がグーグー寝てんの見て、まぢふざけんなってブチキレ」
車の助手席では、さやかが大げさな身振り手振りで、自らの浮気体験談を熱弁していた。
「修羅場じゃないか」
「それ。女の髪の毛つかんでベッドから引きずり出してタコ殴り」
少女は得意げに拳を作った。自らの過去の傷を明かし、俺をなぐさめたいとかではなく、色恋の武勇伝で負けるわけにはいかない、という感じだった。
「信じられる? その女、あたしのパーカー着てやがったんだよ。なにひとのもん勝手に着てんだクソアマって、ソッコーで脱がして土下座させた」
自らはベッドの端に腰を下ろし、正座させた二人を問い詰めたという。
「いつからなのか、何回ヤッたのか、ぜんぶ吐かせてから、罰として女の髪をハサミで切って、二人を部屋から追い出した」
「下着姿でか? 壮絶だな」
「で、すっきりしたからあたしはそのままベッド寝た」
「そこ、彼氏の部屋なんだろ?」
「カンケーねーし」
その後、男のスマホを風呂に水没させ、女の連絡先を破棄させ、二人の関係を断ち切らせたという。しかし、そんな彼氏とも、さやかが釧路に引っ越すと自然消滅になったという。
「どうせ、あの女とまたヨリ戻してんだろなー」
頭の後ろに手を組み、やり切れないようにため息をついた。
それから顔を戻し、「あんたは?」と訊いてきた。
「浮気現場を見てどうしたの?」
「……別に。黙ってクローゼットから出て、彩香の部屋を出て行ったよ」
「マジで? それだけ?」
「なんか言ってたな。これは違うのとか、勝手に言い寄られただけとか」
言い逃れできないと思ったのか、あげくに、あなたが悪いんだからね、と彩香は俺をなじりだした。式場も、日取りも、何を決めるのも煮え切れないから、佐々木君に相談に乗ってもらってたんじゃないと。
「それ聞いてどうしたの?」
「――何もしなかった」
マンション前のごみ集積場にバラの花束とワインを捨てた。外は雨が降っていたが、傘をさすことも忘れていた。どうやって家に帰ったのか覚えていない。スーツはずぶ濡れだった。
「あんた、バカじゃないの?」
「自覚はあるよ」
救いようのないヘタレだ。大のおとなが取り乱すのはみっともないと思っていた。
「今はどうしてんの? 二人ともあんたの学校の教師なんでしょ」
「普通に一緒に働いてる」
不幸中の幸いというか、結婚のことはまだ学校に伝えていなかった。結納は済ませていたので、慰謝料を請求できたかもしれないが、俺は何もかもが面倒くさく、疲れてきっていた。
「マジで? 大人って尊敬するわー」
「相手が嫌いでも、大人は笑顔でやってかなきゃならないときもあるんだよ」
「うわー、だったら大人になんてならないでいいよ。あたしだったら、その場で二人にソッコーヤキ入れて、坊主コースだね」
「それができていたら良かったんだけどね」
俺が苦笑すると、さやかは背中がむずむずするような顔をした。
「おっさんさー、よけいなこと言うようだけど、そのいいコぶる癖、やめたら?」
「そうかな……自然にやってるつもりなんだけど」
俺は心外だと言わんばかりの顔をした。
沈着冷静で何が悪い? あがいても彩香が浮気をしていた事実は変わらない。相手をなじっても、よしんば殴ったとしても、事態が好転することはない。
「あんた、ハメ外したこと、あんの?」
「そのぐらい――」
俺は顎に手をあてて首をひねった。
これまで親の言う通りに生きてきた。反抗期もなかった。地元の県立高校から現役で国立大学の教育学部に進学し、教師になった。
人生で挫折を味わったことがない。いわば、これが初めての挫折だ。
「大学の頃、親に連絡をせずに、友達の家に泊まったよ」
「だから?」
「二泊だぞ」
「あたしは三か月帰らなかったよ。捜索願い出されてた」
ぐ、とうめき、俺は次なるエピソードを披露した。
「サークルのみんなで河原でバーベキューをして、友達を川に突き落とした。流されていきそうになったんだ。危なかったな、あれは」
「あたしは校舎の屋上から突き落とされたよ。木に引っかかったのと、花壇の土を入れ替えたばっかだったおかげで骨折で済んだけどね」
「それ、殺人だろ」
「屋上で花火やってて洒落で落とされたんだよ。ヤバいよね。あ、傷見る? この胸の下のところに――」
キャミソール(へそは丸出し)をめくりだしたので、わー、と俺は叫んだ。
「やめろ。ここで脱ぐな」
「何よ。見せてやるって言ってるのに……」
ぶつぶつ言いながら、少女は服を下ろした。
俺としては精一杯ハメを外した経験を語ったつもりだったが、武勇伝でギャルと張り合って勝てるわけがない。
「喧嘩は?」
「子供の頃はあったよ。中学に入ってからいっさいしなくなった」
「泣いたり、怒鳴ったことは?」
「バカにするな。それぐらいあるよ。昔はアニメを見てよく泣いた」
大人になるにつれ、感情をむき出しにするのは、みっともないと思うようになった。次第に本当に怒らなくちゃならないときにも怒れなくなった。
学校で生徒たちに付けられたあだ名は「ピース」。何があっても平和な教室というわけだ。
「そもそもわかんないのが、なんでそんなクソ女と付き合ったの?」
「なんでって――」
俺は言葉に詰まった。
なぜ彩香と付き合ったのだろう? 周りが結婚していき、そろそろ自分もと思ったら、ちょうど目の前に教育レベルや経済観、家庭環境が似て、ほどほどに容姿がいい女性がいた――その程度の理由だったような気がする(我ながらひどい理由だ)。
「もうちょっと自分の感情を出した方がいいよ。殴られたらソッコーで殴り返せって、学校で教わらなかった?」
「どの授業でだよ? 暴力は嫌いだ。いろんなひとに迷惑をかける」
「迷惑って誰に?」
「誰って……親とか、職場の上司とかさ」
「子供が親に迷惑かけんのなんて当たり前じゃん。だいたい生きてて誰かに迷惑をかけてないひとなんているの?」
俺はギャルの言葉に声を失った。こいつ、言うことは無茶苦茶なのに、たまに妙なことを口にする。
「今だって、あんたが息を吐くことで、二酸化炭素が出て、地球オンダンカになってるわけっしょ」
「なんで俺が息を吐いたら、地球が温暖化するんだよ」
「たとえよ、たとえ」
さやかが思いついたように言った。
「そうだ。あたしがハメの外し方を教えてあげるよ」
助手席から身を寄せ、ギアを乗り越えるように小麦色の足を伸ばす。生身の太ももが俺の足に重なり、デニム越しに女子高生の柔らかい肌を感じる。
「おい――」
「だいじょうぶだいじょうぶ。対向車なんていないじゃん」
靴の上から素足でぐっと踏まれ、アクセルペダルが押し込まれる。
メーターの針が100キロを越え、150キロに達した。
「いいぞー、ぶっとばせー」
右腕を突き上げたさやかが、車のフロントパネルを覗き込む。
「オーディオってどこで操作すんの」
「ハンドルの横だよ。話しかけるな。気が散る」
ゴーゴーという音が耳を圧し、俺は必死にハンドルを握った。
「えー、どこよ?」
「俺がやるから勝手に触るな」
少女の手がハンドルに触れ、ゆらっと車が対向車線に流れた。
「危ない!」
突然、悲鳴のような少女の声が響いた。
目の前のフロントガラスいっぱいにトラックの影が見えた。
ハンドルを切り、間一髪で避ける。
相手ドライバーの怒りにも似た、けたたましいクラクションが鳴り響く。
ブレーキを踏まなかったので逆に助かった。
「おーい、だいじょうぶ? 生きてる?」
さやかが心配そうに俺の顔をのぞいてくる。
ドキドキという心臓の音が耳のそばで聞こえた。
接着剤でくっつけたようにハンドルから手が離れない。
「トラックの運ちゃんてイイ男が多いんだよねー。あたしの先輩も、板橋の市場で積み下ろしをしていた運ちゃんとデキ婚して、もう子供が三人いるって――」
さやかの声は頭に入ってこなかった。
思った。一刻も早くこの疫病神と別れなければ。
ハメを外すどころか、あの世に逝くことになりかねない。




