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27 テントの夜1

 ◇

 

 暗闇の中、テントの中には三つの寝袋が並んでいた。「川」の字で、俺を真ん中にして、左右にさやかと千佳さんが寝ていた。


 バーベキューが終わり、シャワーを浴び終えた俺たちは、テントでトランプをやって時間をつぶし、明日に備えて早めに寝ることにした。

 周りのテントも子供連れが多いので、早々に寝静まっている。


 俺の左隣では少女がスヤスヤと寝息を立てている。トランプの最中からもうウトウトとしていた。昼間、牧場ではしゃぎすぎたのに加え、ビールで酔っ払ってしまったようだ。


 俺は寝袋のファスナーをお腹の辺りまで下ろし、組んだ両手を頭の下に置き、メッシュの「窓」からぼんやり外を見ていた。昼間、天気が良かったので、満点の星空だった。涼やかな高原の空気が漂い、虫の鳴き声が聞こえてくる。


「……奥平さんは、なんでお一人で北海道にいらっしゃったんですか?」


 右隣から千佳さんの声が聞こえた。

 仰向けで夜空を見つめながら俺は言った。


「本当は二人で行く予定だったんです」


 かいつまんで説明した。同僚の女教師と結納までしたこと、彼女の浮気で破談になったこと、婚前旅行に一人で来たこと、その途中にヒッチハイクでさやかを拾ったこと……。


 星空とテントの威力はすごい。自分でも驚くほど、俺は素直に心のうちを吐露していた。婚約破棄のてん末を親や友人たちに伝えるときも、彩香に浮気されたことは恥ずかしくて隠していたのに。


「そうだったんですか――」


 しんみりと千佳さんが言った。


「大変でしたね」


 はい、と俺は笑いながら答えた。


 彩香から手ひどい裏切りにあった俺は、他人を信用できなくなっていた。特に女性には壁を作るようになっていた。だが、この旅に出てから、人の親切や優しさを素直に受け止められるようになった。


 旅先で知り合ったバイク乗りの女子大生と、同じテントで一晩を過ごすなんて……。


 旅に出る前の俺に言っても絶対、信じないだろう。


「北海道に来てから、俺の中でなにかが変わった気はしてます」


「わかります。大自然を見ていると、月並みかもしれないけど、自分の悩みがちっぽけなものに見えちゃいますよね」


 そうですね、と俺はうなずいた。

 

 思った。いや、違う。さやかだ。彼女のおかげだ。自暴自棄になっていた俺が、少女の明るさや純粋さにどれだけ救われたかわからない。


 人に裏切られて俺は人間不信になった。だけど、人のおかげでまた誰かを信じることができるようになった。


「私、不倫してたんです――」


 ぼそりとつぶやくように千佳さんが言った。


「相手は大学の先生です。英米文学のゼミの教授です。相手に奥さんがいるのは知ってました。でも、自分から告白して付き合い始めました。興信所をつけられて……家に奥さんが来ました。身を引かないと訴えるって。それで――別れました」


 薄闇に女子大生の告白が続く。


「実家住まいだったから両親にもバレて……父と母からもさんざん責められて……ゼミもバイトも辞めさせられて……父からは大学で授業がない日は家から一歩も出るなと言われました……」


 恐らくそれが相手の奥さんの狙いだったのだ。

 彼女の家族にバレるように実家に乗り込んだのだ。


「……自分が()いた種だってわかってるんですけど、両親や大学のゼミ仲間との関係、いろんなことに疲れてしまって……夏休みに入ったら、半ば家出をするみたいにバイクで北海道に来たんです……」


 黙って耳を傾けながら思った。

 家出娘を二人も抱えていたのか、俺は。


「ごめんなさい、こんな話、重いですよね。奥平さんになんでこんなことをしゃべってるんだろ」


 寝袋から出した手で千佳さんが頬をかいた。

 自嘲するように続ける。


「私、それまで男性と付き合ったことがなかったんです。免疫がなかったからハマッちゃって……。相手の人は47歳だったんですよ」


 俺よりさらに10歳近く年上か。こんな知的で美人な女子大生がオッサンに溺れる。世の中はわからない、と改めて思う。


 なんでですかね、と千佳さんがため息交じりにこぼした。


「大学の先生ですけど、見た目は普通のおじさんなんですよ。別にイケメンでもないし……背が低くて、ちょっと小太りで……頭も薄くなってて……」


 またテントの闇に沈黙が落ちた。

 言葉を選ぶように俺は言った。


「……ほんとうに人を好きになるってそういうものですよ。見た目とか、年齢とか、相手に恋人がいるかどうかとか……そういうのを考えたりはしないですよ……」


 千佳さんが息を呑むような気配がした。

 風にのってかすかに嗚咽が聞こえてきた。


「……ごめんなさい……私、いろんな人からすごく責められて……でも、自分が悪いんだから、仕方ないって思ってて……そんなことを言ってもらえたのが初めてだったから……」


 最後の方はもう涙声で言葉にならなかった。


 寝袋から体を起こし、俺は千佳さんの頭を手で抱き寄せた。女子大生がすがるように俺に抱き着き、胸に顔を埋めて泣きじゃくった。

 

 俺が名言を吐いたわけじゃない。ごくありきたりのことを言っただけだ。ただ、やさしい言葉を初めてかけてくれたのが俺だっただけだ。まあ、テントと夜空の力もあったかも。


 千佳さんが恥ずかしそうに言った。


「ご、ごめんなさい……」

「いいんですよ。泣きたいときには泣いたほうがいいですよ」


 ああ、と思った。これは俺がさやかに言われたセリフだ。ホテルのベッドで、少女の胸で子供みたいにワンワン泣きわめいたとき、そう言って慰めてもらった。


 あのとき、自分がさやかにされたように、俺は千佳さんの頭をやさしく撫でた。そしてテントの窓越しに星空を見上げた。


 そうなんだ。

 みんな、傷を抱えているんだ。

 俺だけじゃないんだ。

 人生では誰もが転び、ケガを負うことがある。


 恥ずかしくても、みっともなくても、

 そのときは互いに傷を舐め合えばいい。

 なぐさめ合えばいい。

 ここはそういう場所なんだ。


 そしてまた戻っていけばいい。

 本来、自分が生きている場所へ。


 嗚咽がやみ、千佳さんの息が整ってきた。

 俺の胸に顔を埋め、恥ずかしそうにつぶやいた。


「ごめんなさい、こんな……」

「いいんですよ」


 目もとの涙を指でぬぐい、千佳さんが俺の体越しに、テントの反対で寝ている少女に目をやる。泣きじゃくる姿を、年下の娘に気づかれなかったか心配なのだろう。


「大丈夫、ぐっすり寝てますよ」


 ずっと、静かな寝息がつづいている。


「そうとう飲んだな、こいつ」


「渚さんがちょっとうらやましいです。なんていうか、いつもまっすぐで……誰かを好きになってフラれることになっても、彼女は私みたいにズルズル引きずったりしないんだろうな……」


 いや、と俺は言った。


「さやかも傷つくと思いますよ。引きずるかどうかはわからないですけど……。ただ、こいつは傷つくことを怖がらないし、傷ついてもまた立ち上がっていくんです」


 千佳さんがじとっと俺の顔を見つめた。


「……ちょっと妬けるな。そんなことを言える奥平さんと渚さんの関係」


 すぐ間近に女子大生の顔があった。

 唇を尖らせ、目は潤んでいた。

 視線をそらし、俺はつぶやいた。


「また素敵な出会いがありますよ。今度こそ、奥さんとかいない相手が」


 だといいんですけど、と千佳さんが言った。


「私、ファザコンなんですかね。いつも年上の人ばっかり好きになっちゃうんです。高校のときは国語の先生でした。告白もできませんでしたけど」


「そうなんだ」


 かすれ声でそう言うのが精一杯だった。


 妻もいて、地位もある大学教授が、なぜこの娘に落ちたかわかる。千佳さんには、男の保護欲をそそる強烈なフェロモンがあるのだ。オヤジ殺しとも言える。


 俺はちらっと左隣で眠る少女に目をやった。

 まぶたを閉じ、スヤスヤと寝ている。

 とはいえ、いつ目を覚ましてもおかしくない。


 まずい……この展開は非常にまずい……。


 テントという逃げ場がない檻の中で俺は焦った。

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