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25 馬とおっぱい

「あ、道東ですか、いいですねー」


 軽い感じで俺は受け流し、あえて千佳さんの意図には気づいていないフリをした。


 女子大生は探るような目で俺の顔を覗き込んだ。素で気づいていないのか、わざとはぐらかしたのか判断しかねている感じだ。


 結局、答えを出すのをあきらめ、草原に顔を向けた。乗馬をするさやかをまぶしそうに眺める。


「いいなあ、あの年齢のコって怖いもんなしですよね」


「ですよね、俺もちょっとうらやましくなるときがあります」


 若さは無敵だ。いくらでもやり直しがきく。

 俺はもう36歳、世間的には〝アラフォー〟なんて言われる。子供のときには、はるか遠くの存在だった40歳という年齢が現実に見えてきた(40歳! 戦国時代なら孫がいて、隠居してるやつだっている)。


 俺は自嘲気味につぶやいた。


「若いころは、歳を重ねるたびにいろんな経験を積んで、強くなっていくと思っていたけど、なんか逆なんですよね。どんどん守りに入っていくっていうか……」


 傷つくたびに人は臆病になっていく。後がない気持ちが焦りを生む。こっぴどく自分をフッた彩香に未練を抱いた理由もそこにあった気がする。


「すごくわかります」


 千佳さんが深くうなずくので、俺は笑った。


「松田さん、まだ20歳(はたち)でしょ? ぜんぜん若いよ」


 大人びて見えるが、さやかと三つしか変わらない。精神年齢は三十歳ぐらい上のような気がするが。


「そんなことないですよ。好きな人に告白して断られたらとか、そんなことばっかり考えちゃうんです。私、本を読みすぎて頭でっかちだから」

 

 ぺろっと小さく舌を出し、続けた。


「中学や高校のときから、恋愛小説ばっかり読んで、恋ってこんなものだろうって、わかった気になっちゃって。実体験が少なくて、知識ばっかり重たくて」


 俺は苦笑した。自分も似たところがあったからだ。


「100冊、恋愛小説を読むより、1回恋愛をしたほうが身に付くことが多いよね。そんなこと、国語の先生は教えてくれなかったけど」


「はい、でも本を読んできたことが無駄とは思ってないですよ。オースターが好きだったから、こうして奥平さんとも親しくなれたわけですし……」


 俺の顔を見つめて微笑む。改めていいコだなと思った。さやかとはまったくタイプは違うけれども、生まれ育った家庭環境などが近いのか、親近感を覚える。


「あの……それで、さっきの一緒に道東に行く話なんですけど……」


 千佳さんが話を戻したときだった。


「コースケ!」


 乗馬から戻ってきたさやかが馬上で手を振っていた。係の人に手伝ってもらい、片足を馬具に引っ掛け、自転車から降りるようにブーツの足を小さな脚立の上に落とす。


「どうだった?」


 俺が訊ねると、少女が頬を上気させて答えた。


「めっちゃ楽しかった。パカラパカラって殿様になった気分! 馬の背中って、けっこうガッシリしてて安定感があったよ。でも、馬が急にフンをしたり、脇道にそれて草を食べ始めたり、いろいろ大変だった」


 それでね、とさやかが続けた。


「乗馬をしてるときにテントが見えたの。スタッフの人に訊いたら、ここ、キャンプ場があるんだって。テント一式も借りられるらしいよ。ね、今日ここに泊まろうよ」


 また唐突な提案だった。


「いや、キャンプって言ってもな――」


 俺は顔を曇らせた。都会っ子だった俺は、やぶ蚊とか、ムカデとか、蜘蛛とか、虫全般が苦手だった。テントなんて、とても眠れそうにない。


「どうかなー、俺たち素人だしさ。テントの張り方とかわからないし……」


「ぜんぶスタッフの人が教えてくれるって! ね、いいでしょ。キャンプ場に泊まろうよ」


「でも、熊とか危なくないか? おまえは知らないだろうけど、大正4年に北海道で三毛別羆(さんけべつひぐま)事件って言って、エゾヒグマが開拓民七人を食い殺した事件があってだな……」


「大正4年って、いつだよ。いま令和元年だよ!」


 あのう、と別の方向から声がした。スタッフの若い男性が困った顔をしている。


「次の方、お乗りいただけますか?」


 俺の乗馬の順番だった。待たせていたらしい。すいません、と俺は謝り、さやかに「その話は後でな」と声をかけ、三段ぐらいの小さな脚立に足をかけた。


「あ、お二人、ご一緒でもいいですよ」


 けげんな顔をする俺にスタッフが言った。


「いえ、こちらの方と――」


 俺の後ろに並んでいた千佳さんを手で指す。


 どうやら〝カップル〟だと誤解されたようだ。馬の背に二人で乗っては? と提案してくれた。いわゆるバイクで言うところのタンデム乗りである。


「あ、ぜひ、お願いします!」


 千佳さんがささっと前に進み出た。

 脚立の上にいた俺を見上げる。


「奥平さん、先に乗ってください。私が後ろになります。私、子供の頃から、父に馬場に連れていってもらったので、馬に乗るの慣れてるんです」


「そうですか。助かります」


 俺は馬具に足をかけ、馬の背にまたがった。

 続いて千佳さんが俺の後ろに乗った。

 身を乗り出し、肩越しに言ってきた。


「そこの手綱を持ってください」

 

 背中にむにゅっと柔らかいものが当たる。

 シャンプーだか石鹸だかのいい匂いがした。


 俺は馬上から怖々とさやかを見た。

 少女はうつむいていた。垂れた前髪が目を隠し、表情はうかがいしれない。ただ、なんとなくピリピリした空気は感じた。


「じゃあ、出発しますよー」


 もう一本の手綱を握ったスタッフが言う。

 パカラパカラと蹄の音を響かせ、馬が歩き出す。


「うわあ、天気もいいし、風も気持ちいいし、最高ですね」


 千佳さんの歓声が後ろから聞こえる。


「はあ、そうですね……」


 背中に当たる胸が気になって会話どころではない。

 景色も目に入ってこない。

 それは予想以上にデカく、柔らかかった。


 っていうか、千佳さん、密着しすぎじゃ……。


「ふふ、リラックスしてください。大丈夫ですよ。スタッフの人が手綱を引いてくれてるし、競走馬じゃないから、急に走り出したりしません」


「そ、そうですね」


 緊張した声で俺は答えた。

 リラックスできない理由は別にあったのだが、馬が怖いと思われるのは助かった。にしても、癒し系というフェイスに加えて、こんな武器(おっぱい)を持っていたとは。


「すいません。ご迷惑でした?」


 急に二人乗りになったことを千佳さんが詫びた。


「いえ、そんなことないです」


「渚さん、怖い顔してましたよ。悪いことしちゃったかなー」


 悪びれた風もなく千佳さんが笑った。


「奥平さんと、もう少し二人きりで話がしたかったんです。それで――さっきの一緒に道東に行くっていう話なんですけど……」


「ぜひお願いします。俺はルートのない旅に慣れていないし、バイカーの松田さんの知識は頼りになりますから」


「ありがとうございます。ところで、渚さんなんですけど――」


 急に俺は沈黙した。さやかをどうするのか。ここで別れて家に帰すか、一緒に旅を続けるのか。そもそも俺が決めていいのか。さやかの気持ちも訊くべきではないのか。


 俺の心中を察したように千佳さんが言った。


「渚さん、家出をしてきたって聞きましたけど、ご家族は心配されてないんですか?」


「妹には連絡をとってるみたいです。たぶんですけど、妹さんからお母さんに連絡がいってるんじゃないかと。家出は常習犯みたいですし……」


「でも、まだ17歳で、未成年ですよね。()()いいんですけど、世間的にはいろいろ問題があるのかなって。たとえば、一緒のホテルに泊まるとかっていうのは……」


 グラグラする馬上で、時折り背中にむにゅっと胸が当たる。


「はい、それは、そう思います」


 俺はもう言われるがままだった。たぶん、刑事に「おまえがやったんだな」と取調室で言われば、今なら冤罪でも「はい、僕がやりました」と答えてしまうだろう。


 だが、千佳さんの言わんとすることはわかった。さやかとの旅をもうやめろ、と暗に言っているのだ。


 たしかに彼女の言う通りだ。いくら手を出していない、とは言っても、世間や警察は信じてくれない。というか、すでにキスをしたわけだから、何もしてないわけじゃない(淫行の成立要件ってなんだっけ? キスも含まれるのか?)


 たまたま問題化していないだけで、今後はどうなるかわからない。一度警察には職質に遭っている。「父娘」でごまかせたのは単にラッキーだっただけだ。万が一のことがあれば、教師としての職も失う。危険な二人旅なのは間違いない。


 このおっぱい――もとい、千佳さんと一緒に旅に出るのは、とても魅力的な提案に思えた。


 どうする? さやかと別れて千佳さんをとるか? 癒し系か、ギャルか。なんだか自分の矮小(わいしょう)さが悲しくなってきたけど、そんなあれやこれも、おっぱいの前には無力だった。


 選択を迫られた俺の目に、赤、黄、青の三角の屋根が見えた。キャンプ場のテントだった。


「あ、キャンプ場だ」


 話を逸らすように俺は言った。

 それで、今さらのように思い出した。さやかが言っていた。キャンプ場に泊まりたいとか。


「あの――とりあえず、今晩はあそこに三人で泊まりませんか?」


 一晩は結論を回避できる。そんなズルい計算なかったかと言えば嘘になる。


「でも……キャンプ、お嫌いなんですよね?」


「いやいやいや、僕、一度でいいからテントに泊まってみたかったんです! 都会育ちだから、虫の鳴き声とか聞きながら寝るのが夢で」


 背中のおっぱい――もとい、千佳さんは無言だった。言葉は聞こえずとも、柔らかい肉を通じて彼女の心のうちは伝わってきた。

 この優柔不断男――そんな声が俺の耳には聞こえた。

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