24 ふれあい牧場
しばらくバイクと車は縦に並んで国道を走った。
さやかが千佳さんの肩を叩き、耳元で何か言っている。体をひねり、俺に見えるように前方を指さした。
道沿いに大きな立て看板があった。『ふれあい体験牧場』という字の下に牛の絵が描かれている。
バイクが左にウインカーを出し、看板の示す方向に曲がった。俺もハンドルを切って後を追った。
白い壁と赤いトンガリ屋根の建物が見えた。ヨーロッパの農家風の二階建ての洋館の前には、広い駐車場があり、車やバイクが停まっていた。
バイクのタンデムシートから、さやかがブーツの足を下ろす。
ヘルメットを脱いだ少女が金髪をかきあげる。色白な上に、目に青いカラコンを入れているので、一瞬、白人美少女の降臨のように見える。だが――
「ねえ、牛だよ! モーモーって鳴くやつだよ! 牛乳だよ! ミルクだよ!」
小学生みたいなテンションで車に駆け寄ってくる。
ドアを開けて、外に出た俺は冷静に言った。
「牛と牛乳しか言ってないからな、おまえ」
「モースケ、冷静すぎるって」
「コースケな」
もー、コースケが、興奮で「モースケ」になったのだろう。水族館とか牧場とか、動物が絡むとテンションが上がるようだ。
「ここに行くのか?」
俺はうさんくさいものでも見るような目で、玄関アーチにかかった『ふれあい体験牧場』のさびれた看板を眺めた。旭山動物園とか、阿寒湖とか、全国に知れわたる有名な観光地でもないようだ。
「行こうよ! ていうか、もう来てるじゃん」
「でも、牧場に行く予定なんてなかったし……」
「予定なんてもうないじゃん。ツアーはキャンセルされたんでしょ。今夜、泊まるところだって決まってないんだから」
ヘルメットを脱ぎ、千佳さんも近づいてきた。
「行ってみませんか? 私も牛、近くで見てみたいです」
泣く子とギャルには勝てない――というのは嘘で、癒し系の美女に柔らかい声で言われると、断れる人間はいない。代案があるわけでもなかったので、俺はあっさり承諾した。
だが、受付に続く小径を歩く俺の足取りは重かった。
「元気ないですよ。もしかして動物、苦手ですか?」
心配するように千佳さんが顔を覗き込んでくる。
「いや、予定が決まってないっていうのが落ち着かなくて……」
決められたルートを進むのが俺は好きだった。俺にとって旅とは〝スタンプラリー〟であり、観光地はクリアすべきミッションである。そのミッションが消えてしまった。
「さっきさやかに今夜、泊まるところも決まってないって言われて、ああ、そうだよなあって。今から探さなくて大丈夫かなって。そんなことばかり考えちゃって」
千佳さんが励ますように、大丈夫でしょ、と言った。
「宿がなかったら、またライダーハウスに泊まればいいんです。どこか空いてますって」
「はぁ……」
浮かない顔で俺はうなずいた。泊まる場所も、ご飯を食べる場所も決まっていない今の状態が宙ぶらりんで、どうにも落ち着かない。
からかうようにさやかが言った。
「コースケはあれでしょ。旅行に行く前にガイドブックを買うタイプでしょ?」
「普通そうだろ」
今回も旅に出る前、夏の北海道特集の雑誌を買い、赤線を引いたり、折り目をつけた。最終的にはノートパソコンにポイントをまとめた(あげく、同行予定の婚約者に逃げられたのだから、間抜けとしか言いようがない)
「んなもん、あたし、買ったことないよ」
「ガイドブックなしで旅に出るなんて、切符なしで旅に行くようなもんだろ」
「あたしは切符もお金も持たずに行くことあるよ」
たしかに最初の出会いはヒッチハイクだった。財布の所持金はほとんどゼロに近かった(今もだが)。
「たまにはナビのない旅をしてみたら? どこに行くかは天気やその日の気分で決める。もっといい加減になってみなよ」
「おまえと一緒にいるようになって、じゅうぶんいい加減になってるよ」
「お、コースケも言うようになったねー」
ケラケラと少女は笑った。
洋館内の受付で俺はさやかと自分の料金を払った。
料金は大人一人500円だった。
あっざーす、とさやかが頭を下げ、チケットを両手で受け取る。
ちょうど牛の乳しぼりが始まる時間だった。
他の観光客に混じって、俺たちは牛舎に行った。
夏休みなので親子連れが多かった。
牛舎では体長二メートルぐらいの大きな牛が、白い鉄柵につながれていた。後ろ足の間に、パンパンに膨らんだ乳房が垂れ下がり、真下にはステンレスの銀バケツが置かれていた。
青いつなぎを着たお姉さんが客たちに説明を始める。
「乳搾りに適したおとなしい牛を選んでいますが、牛は本来、臆病な生き物です。大きな声を出したり、脅かさないでください。それと牛の動きにも注意してください」
お姉さんが右手を掲げた。
「まず親指と人差し指でこうやって丸の形を作ってください。この丸い輪で、お乳の根元をつかんで、上から下にぎゅっと絞ります。じゃあ、最初の方、どうぞ」
客たちがぞろぞろと列になった。一人ずつ、牛の巨体の下にかがみ、バケツに乳を搾っていく。
子供たちの歓声が湧きおこる。
先に並んださやかが乳しぼりをして戻ってきた。
「どうだった?」
俺が訊ねると、少女が頬を上気させて答えた。
「牛って大きいんだね。驚いた。でも、すごく目がかわいい!」
「乳しぼりは?」
「けっこう固かった。すごい力がいるかと思ったけど、さわるだけでお乳がピューッてすごい出てきた。でも、ほとんど鳴かないんだよ。お乳を搾ってるときは気持ちよさそうだったよ」
全員が乳しぼりを終えると、係のお姉さんが牛のお尻に回り、子宮口を手で指し示す。
「ここが赤ちゃんが出てくる場所です。赤ちゃんが生まれたとき、牛のお母さんは赤ちゃんの粘膜を舐めて、なるべく匂いを消してやります。ライオンなどの外敵から守るためと言われています」
さやかがうんうん、とうなずく。
「わかるわー。あたしらも生活指導のセンコーがいるときは、香水をボディミストに変えたりするもん」
「なんか違うだろ、それ」
その後はツアーのように牧場を回った。
作りたてのバターをパンにつけて食べたり、朝しぼりの牛乳を飲ませてもらった。
厩舎では、母馬を亡くした仔馬にミルクをあげたり、ブラッシングをかけた。
最後が乗馬体験だった。
スタッフに手綱を引かれながら、馬に乗って牧場をぐるりと回る。テンガロンハットをかぶって、馬の背にまたがるさやかは、ロデオの騎手のようだった。
俺が手を振っていると、隣にいる千佳さんがつぶやくように言った
「……昨日の夜、何かあったんですか?」
「昨日の夜……ですか?」
「渚さんです。シャワーに行って、戻ってきてから、雰囲気が変わってました。私にも当たりが柔らかくなって……奥平さん、外に飛び出していった彼女を追いかけて行きましたよね」
さすがインテリ女子大生、頭がいいだけでなく勘も鋭い。たぶん、浮気なんかしたらすぐ見抜くタイプだ。
「いえ、別に……」
「渚さん、ウキウキしてますよ。楽しくてしかたないって感じで」
「あいつはいつもあんな感じですよ」
「ふーん」
口をへの字に曲げ、何か含むような顔を千佳さんはした。
「お二人ってどんな関係なんですか? 家出した渚さんをヒッチハイクで拾ったっていう話はお聞きしましたけど、それからずっと一緒にいるんですよね?」
「そうですね……なんですかね」
俺は自分に問いかけた。俺とさやかはどんな関係なのか? 行きずりの旅仲間なのか、友達なのか、それとも――
「妹、みたいな感じなんじゃないですか?」
「はあ」
「たぶん、そうですよ。奥平さん、世話好きっていうか、年下のコの面倒見がよさそうだから」
千佳さんにそう言われると、そんな気がしてくる。学生時代、後輩のコにはよく頼られた。威圧感がなくて、警戒心を抱かせないからだろうと勝手に推測していた(いい人どまりなので、モテるわけではなかった)。
「……私、このあと、道東の方に行くつもりなんです。よければ一緒に行きませんか?」
「え?」
やや垂れ目がちな癒し系顔が、真剣な色を帯びていた。
今、三人で行動しているのに、あえて「一緒に」という言葉を使う意味はわかった。さやかを家に帰し、ここから先は二人で旅に行かないか、と提案しているのだ。
ごくっと俺は唾を呑んだ。
ふれあい牧場にはおだやかな動物しかいないと思ったが、肉食動物が隠れていた。癒し系という仮面をかぶった肉食獣が。




