22 街灯の下で
「あの、ちょっと見てきます」
千佳さんに断って俺はバンガローを飛び出した。
外が異常に暗かった。
サングラスをかけていたのに気づき、顔から外す。
10メートルほど先を少女が歩いていた。
俺は階段を下り、背中を追った。
辺りはもう暗い。女一人で行かせるのは心配だった。
五棟並んだバンガローの隅にシャワー室があった。
男女別になっていて、形としてはコンサート会場なんかにある簡易型のトイレ、あれに脱衣場がくっついている感じだ。
が、さやかはシャワー室の前を素通りした。
「おい、渚――」
少女が足を止めた。背中を向けたまま言った。
「……なんでさやかって呼ばないの?」
「松田さんもいるし……やっぱりけじめはつけたほうがいいよ」
さやかが高校生で、17歳であることは彼女に明かした。二人がともに行動している事情も。俺の言葉を信じてくれた松田さんに応える必要があった。
「けじめって?」
「俺は大人で、おまえは子供だってことだよ。俺は教師で、おまえは高校生――」
ばすっと固いものが顔に当たった。
リュックで殴られたのだとわかった。
「このクソ野郎! サイテー!」
肩をいからせ、さやかがスタスタ歩いていく。
赤く腫れた鼻を押さえ、俺は後について行った。
「悪かった。俺が悪かったよ」
とりあえず謝った。なんとかバンガローに連れ戻さなくては。夜、こんな場所で女の子一人を放り出すわけにはいかない。
だが、少女は敷地を外れ、国道まで出ていった。
しかたなく、俺もついていく。
幅の広い歩道を、男と女が縦に並んで歩く。
「どこに行くつもりだよ」
「またヒッチハイクする。誰か乗せてくれるでしょ」
「こんな夜にか? スケベなおっさんも多いぞ」
自虐的に言ってみたが、さやかはクスリとも笑わない。
足を止める気配もなく、ズンズン進んでいく。
「なにふてくされてんだよ。千佳さんのことか?」
しまった、とは思ったけれどもう手遅れだった。
少女が立ち止まり、くるっと振り返った。
腰に手をあて、俺をにらみつけてくる。
「あたしは渚って呼んで、松田さんのことは千佳って呼ぶわけ?」
俺は疲れたように髪をかき上げた。
「さっきは悪かったよ。ただ――ちょっと松田さんと話せるのは楽しくてさ。大学時代、ゼミは英米文学だったし、オースターは俺が大好きな作家だったから……」
さやかが踵を返し、再び暗い歩道を進みだす。
北海道の国道は、街灯の間隔が広い。
少し距離が空いてしまうと暗くて見えなくなる。視界からさやかが消えないよう、俺はなるべく寄り添うように歩いた。
たまに通り過ぎる車のヘッドライトが二人を照らす。
つぶやくようにさやかが言った。
「あたしはどうせバカだからさ……本なんてほとんど読まないし……英語も苦手だし……国語も数学も苦手だけど……」
「でも、料理は得意なんだろ?」
「野菜ナントカには負けるよ」
「勝ち負けじゃないだろ。今度食べさせてくれよ、おまえの手料理」
「いいよ、あたしが作れるのはニラ玉とかだから。千佳さんに食べさせてもらいなよ。シーザーサラダとか、オシャレなやつをさ」
また会話が止まった。
黙って俺たちは暗い歩道を歩き続けた。
目的地の定まらないふたり旅だ。
さやかがぽつりとこぼすように口にした。
「コースケには、頭の悪い人の気持ちなんてわからないんだよ」
俺は子供の頃から勉強はそこそこできた。東大に行けるほどでないにせよ、国立大の教育学部に現役で合格できる程度には成績が良かった。
親や教師からはいつも褒められた。親戚からも「浩介くんは優秀ねえ」とよく言われた。誇らしい気持ちがなかったかと言えば嘘になる。
だからこそ、かもしれない。
道につまづいたとき、俺みたいな人間は弱い。
倒れたことがないから、起き上がり方を知らない。
そんな俺にこの少女は教えてくれた。
英語も国語も数学も苦手かもしれないけど、
立ち上がり、ふたたび歩き出す方法を。
昨夜、ホテルで彩香と電話がつながったとき、
さやかはスマホを奪い、俺の元婚約者を怒鳴りつけた。
今ならわかる。
あれは俺に代わって言ってくれたんだ。
ロビーの客やホテルのスタッフに注目を浴びても、
俺のために本気で怒ってくれたんだ。
怒ることが苦手なヘタレなコースケのために――
友達のためなら本気で怒ってくれる、
それがギャルなんだ。
不器用な少女の優しさが、今の俺にはわかる。
さやかがため息をつくように言った。
「でも、松田さんってすごいよねー。美人で頭もよくて料理も得意で……バイクも詳しくて、おまけにいいところのお嬢さんで……完璧じゃん」
「おまえだって、松田さんに負けないところはあるよ」
さやかが足を止めた。
ちょうど街灯の下だった。
二人の体がスポットライトに当たったようになる。
「なに?」
うっと俺は声に詰まった。
具体的に訊かれるとは思わなかった(なんか以前に似たようなシチュエーションがあった気もするが)
「おまえのいいところは――」
声が止まった。
思い浮かばなかったわけじゃない。
わかっていたけれど、口にする勇気がなかった。
でも、結局、言うことにした。
「すごく、かわいいところだよ」
いや、頼むから笑わないでくれ。
本当にそう思ったのだ。
思ったからそのまま言葉にしただけだ。
ぷっ、とさやかが吹き出した。
「あははははははははは」
おなかを抱えて笑い転げた。
たぶん、この旅はじまって以来の爆笑だ。
「そんなに笑うことないだろ……」
ボヤくように俺は言った。
でも、まあいいか、とも思った。
てっきり、リュックが顔に飛んでくるか、きもっ、と言われるのを覚悟していた。36歳のおっさんに「かわいい」なんて言われて喜ぶ17歳がいるわけないからだ。
笑いすぎて目尻からこぼれた涙を、さやかが指でぬぐう。
「ね、もう一回言ってよ。さっきの」
「はぁ?」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「いや、一回だけだ。それで勘弁してくれ」
「ふーん」
少女がちょっとたくらむような顔をした。
すっと二本の白い腕が俺の首に伸びてきた。
頭を引き寄せられ、さやかの白い顔が迫ってくる。
柔らかい唇が重なった。
少女の手が俺の髪をつかみ、情熱的に舌を絡めてくる。
気づいたら俺はさやかを抱きしめていた。
こんなに華奢で、小さかったのかと思った。
強く抱いたら折れそうなくらい細い体だった。
でも、強く強く抱きしめた。
何やってんだって声は聞こえた。
北海道のさびれた国道の歩道、
夜、街灯の明かりが照らす中、
36歳のおっさんが17歳のギャルとキスだぜ。
もう止めろ。引き返せ。
そんな声は聞こえていた。
頭の隅でサイレンのように赤色灯が回っていた
腕の中の少女がたまらなく愛おしかった。
それだけだった。
本当に、それだけなんだ。
長い長いキスが終わり、唇が離れた。
俺はさやかと見つめあった。
少女の瞳には少しいたずらっぽい色があった。
やってやったぜ、という感じだ。
やられちまった、という苦い思いをかすかに抱きながら、俺は言った。
「……今度、作ってくれないか」
「何を?」
「ニラ玉」
いいよ、とさやかが笑い、目を細めた。
「オイスターをたっぷり入れてね」
たまたま好きになった相手が少女だっただけだ。
たまたま好きになった相手が17歳だっただけだ。
それだけのことなんだ。
 




