20 意気投合
◇
「え、松田さんは大学生なんですか?」
俺が言うと、美女――千佳さんがうなずいた。
「はい、文学部で、今、二回生です」
少し意外だった。23、4歳ぐらいの社会人かと思っていた(落ち着いたたたずまいと、バイクで一人旅をしているというキャラクターが大人に見せたのだろう)。
大学名を教えてもらうと、東京の有名私大だった。
「K大かー、頭いいんですね」
「いえ、私は附属から上がっただけなので……」
「K大の附属だってすごいよ」
俺は改めて千佳さんを見た。
シャワーでも浴びたのか、やや生乾きの長い黒髪、雪のように白い肌と小さな顔、少しサイズの大きめのグレーのスウェットから、少女のように細い足が伸びている。
笑うと少し垂れる目も癒し系っぽくていいな……。
有名私立の附属出身と聞いたからではないが、いいとこのお嬢様のような気がした。ここ数日、金髪ギャルばかり見てきた俺には黒髪というだけで天使にすら見える。
自己紹介も済み、バンガローにはなごやかな空気が生まれた。六畳程度の狭い空間で、一緒にいるのはJKと女子大生である。他に客はいない。俺はどこか学生時代に戻ったような気分になった。
「二回生なら、来年からもう就職活動?」
「それが、教職をとってみようと思ってて……」
「え!? もしかして教師を目指したりしてる?」
「正直、興味はあります。まだ決めたわけじゃないんですけど……」
「そうなんだ。実は俺、教師なんです」
東京の高校で英語を教えていることを告げると、今度は千佳さんが驚いた。彼女はまだ教師になると決めたわけではないが、選択肢の一つとして教員免許をとっておきたいという。
「ウチの学部、国語、地理歴史、公民、英語の1種免許が取得できるんです。それであの……来年、教習に行くんですけど、事前の教材研究ってどのくらいやったほうがいいですか?」
「それは指導教官次第かな。事前に相談してみたら?」
「そうですね。それと教習に行く学校、授業がAll English Systemみたいなんです。私、それが少し不安で……」
「授業でよく使う文例集があるから、貸してあげるよ」
「ぜひ!」
こうして自然な形でお互いのメアドを交換した。
その後、学習指導要綱に新たに加えられた「英語コミュニケーション」と「論理・表現」の話題になった。現場の活きた情報を俺は彼女に伝えた。
「――でも、うれしいです。教職に就かれている方のお話をうかがえるなんて」
胸に手をあて、千佳さんが安堵の表情を浮かべた。
「お役に立ててうれしいよ」
教師をやっていてよかったと思った。同僚の女教師にこっぴどくフラれてから、俺は教師という仕事自体も嫌いになりかけていたからだ。
俺の目が、ふと千佳さんの腰のそばでとまった。
ベッドの上に英語の原書が置いてあった。
「……ポール・オースター、好きなの?」
女子大生が少し驚いた顔をする。
「奥平さん、オースターを読まれるんですか?」
ポール・オースター (Paul Auster 1947~)は、アメリカの小説家だ。中流階級のポーランド系ユダヤ人の両親のもとに生まれ、ポストモダン的な観点から、自らの出自や生きる意味を問う作品を多数、執筆している。
俺はすっと手をあげ、彼女の言葉を制した。
おもむろに口を開く。
「――それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。そのころ僕はまだひどく若かったが、未来というものが自分にあるとは思えなかった。僕は危険な生き方をしてみたかった――」
ポール・オースターの代表作『ムーン・パレス』の冒頭の一節だった。
朗読を止め、多少照れたように俺は言った。
「大学の卒論、オースターだったから」
千佳さんが感極まったように自分の胸に両手をあてる。
「私、オースターの大ファンなんです。特に『ムーン・パレス』が大っ好きで……それこそもう、何度読んだかわかりません」
落ち着いた外面に潜んでいた、千佳さんの素の部分がのぞいた。
俺はベッドから腰を上げ、千佳さんのそばにあった本を手にとる。
「俺は『シティ・オブ・グラス』がいちばん好きだけど、『ムーン・パレス』はもちろん好きだよ」
元の位置に戻り、英語の原書をなつかしそうにめくった。
「学生の頃、原書一冊をまるごと覚えようとしてね……100ページぐらいで挫折したかな」
すると、今度は千佳さんがまぶたを閉じた。
形のいい唇をゆっくりと開く。
「――僕は世界の果てに来たのだ。この向こうにはもう空と波しかない。そのまま中国の岸辺まで広がる、空っぽの空間があるだけだ。ここから僕ははじめるのだ、と僕は心のうちで言った。ここから僕の人生がはじまるのだ、と――」
女子大生がゆっくりとまぶたを持ち上げる。
俺はやさしく微笑みかけた。
「『ムーン・パレス』の最後の一節だね」
「はい、私、この一節を読んで、旅に行きたいって思ったんです」
「わかる! 『ムーン・パレス』を読むと、無性に旅に出たくなるよね」
美人がどうとか、癒し系とか、もうどうでもよかった。こんな北の最果ての地でオースターの話をできるのが俺はうれしかった。
が――
賢明な読者諸兄姉はもうお気づきだろう。
三名が登場するシーンで、これまで一言もしゃべっていない人間がいることに。
作者が描写し忘れたわけでも、セリフを割愛したわけでもない。単にまったくしゃべっていないのだ。誰かは言うまでもない。
さやかである。
おなかの上に枕を抱え、ぶすっと唇を尖らせ、こめかみを時折りひきつらせている。「オイスターソースが何だって?」というボヤキが聞こえてきた。オイスターソースに合うのはニラ玉ですけど、それが何か?
そりゃ内心、悪いとは思っていた。
だけど、俺は千佳さんとの会話を止められなかった。だってオースターだよ。現代アメリカ文学だよ。これが本当の「意気投合」というやつだ。朝まで彼女と語り明かしたい気分だった。
気遣うように千佳さんがさやかに話を振った。
「渚さんは、学生さん……ですか?」
まだ相手の年齢がわからないので敬語だった。
「うん、高2」
千佳さんが、え? という顔になる。
大学生か専門学校生かぐらいの気持ちで尋ねたのだろう。
バンガローに再び微妙な空気が流れる。無理もない。18歳未満となると、俺との関係がおかしな感じになってくる。
神妙な顔で俺は切り出した。
「あの……正直にお伝えします」
これまでのことを、すべてをぶっちゃけてしまおう。
千佳さんにだけは誤解されたくなかった。
「僕と彼女の関係ですが――」
「付き合ってるんだもんね」
「へ?……」
さやかがベッドから立ち上がり、俺の隣にちょこんと腰を落とした。恋人同士のように肘をからめてくる。
「私たち、恋人同士でしょ?」
「恋人――」
絶句する俺をよそに、金髪を肩にもたれかからせる。
「昨日、ホテルで、一緒のベッドで寝たじゃん」
千佳さんが息を呑むのがわかった。
俺の頭からさーっと血の気が引いていく。
まずい……これはまずい……。
誤解を解くどころか、下手したら通報だ。
「ちがうんです!」
とっさに俺は声をあげた。
自分を落ち着かせるようにトーンを落とす。
「さやかは……渚は、その……家出をしたみたいで……こいつ、泊まるところがないって……援助交際をして金を稼ぐとか言うもんですから、とりあえずホテルの僕の部屋に泊めました……でも信じてください。誓って何もしていません! ほんとです」
我ながら苦しい弁明だと思った。女子高生と同じベッドに寝て、手を出さない男は普通いない。
三たび、微妙な沈黙がバンガローに落ちる。
千佳さんが大きく息を吐きだした。
「――はい、信じます」
どこか自分に言い聞かせるようにうなずく。
「ほんとですか?」
「私も教師だったら、先生と同じことをしたと思います。それに――」
女子大生が俺の顔をじっと見つめた。険しかった顔が、急におだやかになった。困った人ね、という感じに。
「オースターを好きな人に悪い人はいませんから」
目にじわりと涙がにじんだ。なんていいコなんだろう!
「ねえ――」
黙っていたさやかが口を開いた。
眉間を寄せたまま、女子大生を見つめる。
「あんた、やっぱりレディースでしょ?」
最初ヘルズ・エンジェルズがヘルズ・レディースになり、今やヘルズ・エンジェルスの原型すらとどめず、ただの「レディース(女子暴走族)」になっていた。
「ちがいます」
今度はきっぱりと千佳さんが否定した。
俺をそっちのけで、二人の女がにらみ合う。
バチバチと火花のようなものが散った気がした。
思った。
なんなんだ、この展開?
俺は無意識に、シャツの下に押し込んだ十字架を布地ごと握りしめた。
 




