2 傷心旅行(センチメンタルジャーニー)
「女の子が一人で自転車旅行なんて根性あるね」
軽い調子で俺が言うと、助手席の金髪少女は「まあね」とぶっきらぼうに答えた。
シートの上で膝を立て、足の指を揉んでいる。足の爪は、キラキラした派手なフットネイルが施されていた。床には脱ぎ捨てられたインヒールスニーカーが転がっていた。カカトの高い靴で自転車を漕いだので痛かったのだろう。
「そうだ。名前まだ訊いてなかったよね? えっと――俺は奥平浩介。普段は東京で働いてて、北海道には旅行で来たんだけど……」
ちらっと少女の横顔を見る。
「渚さやか」
ぼそっとした声が戻ってきた。
それ以上は訊いてくれるなオーラが半端ない。車に乗せてもらうまでの愛想の良さは影を潜め、警察に補導された生徒のように不機嫌そうだった。
間違いない。こいつ絶対に家出だ……くそ、やばいのにかかわっちまった。っていうか、渚さやかって本名だろうな? 源氏名じゃないのか?
「渚さやかか。いい名前だね。高校生?」
機嫌を損ねないように、さりげなく年齢確認をする。
「まあね」
「ってことは、今は夏休み?」
足を揉む手を止め、少女がじっと俺の横顔を見つめてくる。
「さっきから取り調べ? あんた、警察?」
「ちがうよ。教師だよ」
俺は早々に職業をカミングアウトした。この手を娘を相手にするには、こちらも素性を明かした方がいい。生徒指導で、不良生徒との接し方は慣れていた。
「マジ?」
「東京の高校で働いてる」
あちゃー、という感じに少女が頭を抱えた。
「はー、あたしも焼きがまわったなー。教師の車をヒッチハイクかよ」
俺は笑った。補導した生徒だと思えば、いつものペースで進めればいい。
「……家出か?」
「違うってば! ねえ、お願いだから、警察にだけは言わないで」
むきになって否定するのが怪しい。十中八九、クロだな、これは。
「旅行のことはご両親は知ってるのか?」
生徒指導の癖で、上から目線の態度が出たのか、さやかの眉間が険しさが増した。
「あんたにカンケーねーだろ! あー、むかつく。よりによって教師の車かよ。ちゃんとドアの外に学校の名前でも書いとけよ」
「俺の車は、配達車か」
「警察と教師は、一目でわかるようにしてよ」
ぶつぶつ文句を垂れる。よほど教師が嫌いなのだろう。
「で、ご両親は知ってるのか?」
俺は同じ質問を繰り返した。
「片方はね」
「片方?」
「ウチは離婚してんの。母親には言ったけど、父親は知らない」
ぷいっと窓の外を向き、会話を遮断しようとする。
「家は釧路か? どこまで行くつもりだったんだ?」
「札幌」
「自転車でか? ここから300キロ以上あるぞ」
「勢いだよ、勢い。夏だし、道は単純だし、なんか行けそうな気がしたの」
さやかは不機嫌そうに窓の外を見ている。長いつけまつ毛も元気がなさそうに垂れている。
車内に沈黙が落ちた。
会話の接ぎ穂を失った俺は、とりあえず思いついたことを口にした。
「あのさ……ちょっと訊いていいかな?」
「なんだよ」
「釧路でその格好、浮かないか?」
メロン畑にボーリングの球(玉虫色のやつ)があるようなものだ。めちゃくちゃ目立つ。
「あたしはもともと東京生まれの東京育ちなんだよ!」
いらだったように、さやかが歯を剥いた。
再び窓に顔を向け、独白するように続ける。
「……両親が離婚して、母親の実家がある釧路に連れてかれたんだよ。クソ田舎にはうんざり」
俺は顎に手をあて、なるほど、とうなずいた。
事情が理解できた。渋谷のセンター街をインヒールスニーカーで闊歩していたギャルが、釧路に連れ戻され、田舎に我慢できなくなって家出したわけか。おおかた母親と喧嘩でもして飛び出したのだろう。
「〝あて〟はあるのか?」
「東京に父親が住んでる」
「駅までは俺が送っていくとして、東京までどうやっていく行くつもりだ?」
「あんたにはカンケーねーだろ。担任みたいにネチネチとさー。さっきからあたしにばっか訊いてんけど、あんたはどうなんだよ? いい歳したオッサンが夏休みに一人で北海道旅? 彼女とかいねーの?」
やられっぱなしで腹が立ったのか、さやかが逆に訊ねてきた。
「いたけど、フラれた」
「へ?」
「旅行は彼女と一緒に行くはずだった。フラれたのが旅行に行く直前で、キャンセル料をとられるから一人で行くことにした。まさか生徒と同じ年齢の女をヒッチハイクするとは思わなかったけどな」
初対面の少女に、なぜそんなことまで明かすのか、自分でも不思議だった。たぶん誰かに話したかったのだ。話すことで、つらい気持ちを過去のものにしたかったのだ。
「はっ、ざまあ。あんたね、そのネチネチと細かい性格が嫌がられたんだよ。へー、フラれたんだ」
ぷぷっ、とさやかは口をすぼめて笑った。反撃に出れてうれしいのだろう。
「で、どんな女なのよ? 暇つぶしに聞かせてよ」
「相手は同じ学校の同僚女教師。理由は彼女の一方的な心変わり。互いに両親へ紹介済みで、結納まで済ませていた」
「そりゃ災難だね。なんで、その女はあんたをフッたの?」
「他に好きな男ができたんだと。っていうか、浮気現場を見ちまったのさ」
「おー、シュラバってわけ? くわしく」
少女が身を乗り出す。他人の失恋話が楽しくて仕方ない様子だ。
「その日は、俺と彼女が付き合い始めた記念日だった。俺は彼女をびっくりさせようと、彼女に知らせずにマンションの部屋に行った――」
あの夜の光景が脳裏によみがえる。
外は雨が降っていた。彼女を驚かせてやろうと、合鍵で部屋に忍び込んだ俺は、バラの花束とワインを手に、クローゼットの中に潜んでいた。
やがて玄関のドアが開き、彼女が帰ってくる気配がした。
一人ではなかった。他の人間がいた。
「今日は彼氏は?」
男の声だった。声に聞き覚えがあった。同僚教師の佐々木だ。八つ年下の後輩で、担当教科は数学。テニス部の顧問を務めていた。背が高く、涼やかな顔は生徒に人気がある。
学校に赴任以来、あれこれと面倒を見てやってきた。彩香との婚約を伝えると祝福してくれた。結婚式にも招待する予定だった。
「大丈夫。今夜は期末テストの準備があるから遅くなるって」
彩香の声だった。
「実はさ、それ、俺があいつに押し付けたんだよ。先輩しかできないからお願いしますって。お人よしだから助かったよ。まあ、11時まではかかるな」
「もう、先に言ってよー」
薄暗いクローゼットの中で、バラとワインを胸に抱き、俺はぼう然としていた。聞き慣れた彼女の声が、別人の声に聞こえた。何が起こっているのかわからなかった。
クローゼットの扉の隙間から外を覗く。抱き合っている男と女の姿が見えた。
キスをしていた。彩香の鼻から洩れる熱い息遣いが聞こえてきそうだった。
「おまえ、本気であいつと結婚するつもりか?」
「悪い? 旦那にするなら、どこかの誰かさんみたいに浮気をせず、ちゃんとお給料を家に入れてくれるまじめな男でしょ」
「ATM旦那ってやつ?」
「ATMって大事よ。あなただって使ってるでしょ?」
彩香の腰を抱き寄せ、首筋に口を這わせた。
「なあ、結婚してからもこうやって会おうぜ」
「だめよ。これで終わりって約束したでしょ」
彩香が体を離し、男のおでこを指で押し返した。
「知ってるか? 旦那以外の種を仕込む女のことを托卵女子って言うらしいぜ」
「別の種を仕込むにせよ、あなたの子供はまっぴら。男の子だったら、浮気男になるに決まってるもの」
「あのお人よしなら、自分の子供だと思って育てそうだよなー」
佐々木の低い笑い声が記憶の彼方に遠ざかっていく。
フロントガラスの外には、北海道の青く澄んだ空が広がっていた。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
さやかの声で、俺は現実に引き戻された。
「あ、いや――まあ、そんなところさ。これは俺にとって傷心旅行ってやつだ」
「お気の毒。まー、地球上に女なんて100億はいるんだから、さっさと次いくんだね」
「37億と249万人な」
「何が?」
「地球上の女性の数だよ。ちなみに男女も合わせた全人口は74億6964万人」
「こまかいなー。どーでもいいじゃん」
「教師が生徒にいいかげんなことを教えちゃまずいだろ? ま、これでお互いの事情はわかったんだ。駅に着いたら、母親に電話して迎えに来てもらえよ」
「へーへー」
再びシートの上で膝を立て、さやかが足先のフットネイルをいじりだした。
俺は心のうちで息をついた。
とんだ珍客だったが、駅まで連れいていけば、この家出娘ともお別れだ。
傷心旅行に女はいらない。特にギャルは願い下げだ。