14 水族館にて2
入り口で配られていた青いビニールシートを手に、俺たちはイルカショーの会場に入った。
楕円形の大きなプールを、500人ほどを収容できるすり鉢状のスタンドが見下ろしている。
後ろの方に座ろうとしたら、さやかに腕を引かれ、最前列に連れていかれた。空いている席に二人で腰を下ろし、ショーの開始を待つ。周りは親子連ればかりだった。
「はーい、みなさんこんにちわー」
手前のステージにマイクを手にした若い女性が出てきた。ピンクのポロシャツを着て、黄色いゴム靴をはいている。
子供の、こんにちわー、という声に混じって、隣でさやかの元気のいい声がする。
「今日はイルカショーにおいでいただき、ありがとうございまーす。これからショーが始まりますが、イルカたちの演技がうまくきまったときは、ぜひ大きな拍手をお願いしますねー」
手前にいる客たちに注意事項を語りかける。
「前方の席にお座りのみなさんには大量の海水がかかります。お手持ちのカメラや携帯電話が濡れないよう、じゅうぶんご注意ください」
では、いきますよー、とMCの女性が顔の前で指を大きく広げる。
「5、4、3、2、1――」
カウントダウンが0になった瞬間、水中から飛び出したイルカがジャンプした。
客席から歓声があがり、リズミカルな音楽が流れだす。
プールの上を、イルカの体が砲弾のようにびゅんびゅん行き交う。ハイジャンプ、スピン、前転……技が決まるたびに拍手が起こり、会場の空気はいきなり最高潮に達した。
「イルカが高くジャンプできるのは尾ひれのおかげです。尾ひれのキック力を使うことで、時速30キロから40キロのスピードで泳ぐこともできます」
やがて三頭のイルカがプールサイドに乗り上げた。
MCの女性がそばに立ち、紹介を始める。
「バンドウイルカの、右から北くん、海くん、道くんでーす。イルカたちの顔を見分けられますかー? よーく見れば違うので観察してみてください」
隣でさやかが、わかるわけねー、と野次を飛ばす。
ギャルというより、ほとんど野球場にいるオヤジである。
イルカたちが再びプールに戻っていく。
後を追うように、ウェットスーツを着た男性が水中に飛び込んだ。
ほどなく、すっくと水面に立ち上がる。
トレーナーを背中にのせたまま、イルカが海中を疾走する。
「すごい! 水の上に立ってるよ。サーフィンみたい」
「おお、すげーな」
俺も思わず子供のように驚嘆の声をあげていた。
男性は手を振りながらプールを横切っていく。
MCの女性が頭上で手を叩き、観客に手拍子をうながす。
会場が一体感に包まれる。
頬を上気させたさやかが、胸の前でこぶしを握っていた。
「あたし、イルカのトレーナーになりたい!」
興奮で目が潤んでいる。
「わかりやすいな、おまえ」
「机の前で勉強してるより、こういう体を動かす仕事がしたい」
「いや、もともと部屋に机ないだろ」
イルカたちが観客席の手前に近寄ってきた。
「ブルーシートをお持ちのお客様はお出しください」
観客がいっせいに青いシートを開き、水しぶきに備えた。
イルカが尾ひれを振って、客席に海水を浴びせる。
わー、きゃー、と方々で悲鳴が湧き起こる。
シートの陰で、俺とさやかは顔を見合わせた。
17歳の目はキラキラと輝き、笑顔が弾けていた。
「ヤバい! めっちゃ楽しい」
俺もだよ、と危うく口にしそうになった。
こんな気持ちになれたのはいつ以来だろう。
子供のころは毎日が楽しかった。
日が暮れるまで友達と公園で遊びに明け暮れた。
見るものすべてが新鮮で、世界は発見にあふれていた。
いつから俺の目はよどみ、心が錆びついてしまったのか。
その後、イルカが自身で作った気泡の輪を水中で潜り抜けたり、鼻にフラフープをひっかけて回したり、三頭の鳴き声を聞き分けるクイズがあった。
ショーが一段落し、MCの女性が客席に呼びかけた。
「では、次はお客様にもショーに参加してもらいます。大人の人と子供さんのペアでお願いします。チャレンジしてみたいお客様は手をあげてください」
「はーい、はいはい、はーい」
さやかが席から立ち上がって猛烈にアピールする。
気を使った他の客は誰も手を上げない。
MCのお姉さんは親子連れを選びたかったようだが、しかたなくさやかを指名する。
「えーと、じゃあ、お嬢さんにやってもらいましょうか。あと一人は……」
「この人がやります」
さやかが俺の腕をつかんで強引に立ち上がらせる。
俺は小声でさやかに言った。
「いや、いいよ。誰か子供さんに譲って……」
「いいからいいから。これも思い出作りだって」
俺とさやかはステージに出て行った。
MCのお姉さんがフラフープの輪を差し出す。
「一人の方が、この輪を持ってプールに出してください。もう一人の方は、イルカがうまく輪をくぐれたら、バケツからご褒美の餌をあげてください」
俺が輪っかを、さやかが餌をやることになった。
プールサイドの縁に立ち、水面に向かって輪を突き出した。
滑り落ちないよう、水族館の男性スタッフが反対の手をつかんでいる。
「では始めます。輪を動かさないでください。イルカは輪をくぐれるでしょうか?」
水面を魚雷のように突き進むイルカの黒い影が見える。
俺は緊張した顔で輪を握りしめた。
びゅん、と何かが目の前を横切った。
一瞬の出来事だった。イルカは輪を見事に潜り抜けた。
わーっ、とひときわ大きな歓声と拍手が湧きおこる。
「やりました! では、ご褒美の餌をあげてください」
「はーい」
さやかの能天気な返事が響いた。
問題はここからだ。
恐らく「ご褒美」とは、魚を一匹やることを意味していたはずだ。
ところが何を思ったか、少女はバケツごと大量の餌をぶちまけた。
水面に届かなかった小魚がプールサイドに散らばる。
ゴム靴をはいていない俺は、魚に乗り上げてつるっと滑った。
腕を引っ張られるように、水族館の男性スタッフも転倒した。
まるでコントのように、ゴロゴロと二人の男の体がプールに転がり落ちた。
「た、助けて」
俺は泳ぎがあまりうまくなかった。
おまけに服が水を吸い、手足もうまく動かせない。
餌の匂いを嗅ぎつけたイルカたちが集まってきた。
池の鯉のように餌に群がり、白いしぶきがバシャバシャとあがる。
ホラー映画でピラニアに襲われてる人、みたいな絵になった。
プールサイドはスタッフたちが右往左往し、大騒ぎになった。
客席もざわめく中、バケツを手にしたさやかだけがきょとんとしていた。
 




