10 屋上の苦い記憶
俺は薄暗い、階段らしき場所を上っていた。
鉄の重いドアを押し、屋外に出る。
初夏の日差しが降り注ぎ、目の上に手をかざす。
校舎の屋上、外縁フェンスの近くに見覚えのある女が立っていた。
ベージュのパンツに白いシャツ、薄手のカーディガンを羽織っている。
彩香だった。
婚約者と後輩の浮気現場を目撃した三日後だった。
学校に出勤すると、メッセンジャーに彩香から着信があった。
昼休みに屋上で会いたいと書かれていた。
俺が近づいていくと、彩香はフェンスから振り返った。
「はっきりしておこうと思って」
いきなりそう切り出した。
「慰謝料とか言うつもりなら、こっちも徹底的に戦うからね」
俺はあ然とした。
金のことなんて考えもしなかった。
職員室では事務的な会話しかできなかった。
プライベートで言葉を交わすのは、あの夜以来、初めてだ。
なのに、釈明も謝罪もなく、いきなり慰謝料の話だった。
「だいたい、あなたのやったことだって不法侵入でしょ?」
クローゼットに忍び込み、サプライズを企図したことだろうか。
でも、合鍵はふたりの合意の上で作った。
彩香だって俺の部屋の鍵を持っているではないか。
二人きりで会ったら何を言おうか迷っていた。
怒鳴りつけてやろうか、土下座で謝罪を要求しようか。
何度も頭の中でシミュレーションをしていた。
俺の想像では、彩香は泣いて許しを請うはずだった。
こんな風に開き直られるのは予想外だった。
「変な噂をバラまいたら承知しないからね」
「変な噂って?」
「私が佐々木君と浮気したとか……」
「違うのか?」
「もともと佐々木君とはなんでもなかったのよ」
なんでもない相手とキスをするのか?
会話を聞いた限り、肉体関係もあったように思えたが。
「別に本気じゃないわ。彼だってそうだったと思う」
どうやら本気でない浮気は、浮気に入らないらしい。
「だから、お互い痛み分けってことでいいじゃない」
痛み分け? 君がどんな傷を負ったというのだ?
「私の部屋にあるあなたの私物、段ボールで送り返しておくわよ」
「え?……」
「家には取りに来ないでね。それと――」
手を差し出した。
「合鍵、返してよ」
俺はズボンのポケットから鍵の束を出した。
彩香のマンションの鍵を外して渡す。
用意してあったのか、彼女も俺の部屋の鍵を差し出した。
「いっしょに買ったソファあるでしょ? あれは私がもらうわよ。いいわね?」
彩香の部屋に赤いカップルソファがあった。
結婚したら新居で使おうと、二人で相談して購入した。
価格は20万円ぐらい。全額、俺がカードで支払った。
俺はまだ別れると決めたわけではなかったのに、彼女は別れる前提で話を進めていた。
債権者集会のように私物をドライに仕分けする姿に戸惑った。
「ちょっと待ってくれ――」
たまらず俺は口を挟んだ。
「しかたないじゃない。ソファは二つに分けられないんだから」
「ちがうよ。北海道旅行は?」
夏休みに二人で行こうと決めていた。
車で北海道のリゾート地を回るツアーだ。
旅行会社経由で、申し込みと支払いを済ませていた。
「今さら行けるわけないでしょ。キャンセルしといてよ」
にべもなく撥ねつけられた
他人行儀で、声のトーンも一段低く感じる。
これが彩香の本当の顔なのだろうか。
悲しくなるというより怖かった。
「俺たち別れるのか?」
ようやく気付いたという顔をかつての恋人はした。
お互いの話の前提がかみ合っていなかった。
「……このまま関係を続けるのはよくないと思うの」
神妙な顔で言った。
「遅かれ早かれ別れることになったと思う。むしろ結婚する前にこうなってよかったわ」
過去形で語る彩香に、俺はいらだちを隠せなかった。
「両親にはどう説明するんだ? 結納もしたんだぞ」
「親には私から説明しておくわ。あなたは自分の両親に報告して」
それから思い出したように付け加えた。
「あ、でも、私と佐々木君のことは言わないでね」
自分の浮気は言うなというのか。
どこまでも身勝手な言い草だった。
「そんな簡単にいくかよ。説明できないよ」
レストランの個室を借りて、家族同士が会食をした。
結納の品々も交換したではないか。
破談にしたくない俺は、何かにすがりたかった。
俺たちもうおしまいなのか? 本当に?
「理由ぐらい自分で考えてよ」
はあ、と疲れたようにため息をついた。
「こんなことになるなら、あなたの両親と会ったりするんじゃなかった。ともかく……」
きっと俺をにらみつけた。
「職場では同僚としてやっていくわけだから自然体でお願いね。何かあったらこれで連絡して」
スマホを肩の高さに持ち上げる。
暗にもう二人で会いたくないという意味だろう。
「授業があるから、私もう行くわね」
要件は済んだとばかり、その場を離れる。
横を通り過ぎる彩香に俺は声を投げた。
「俺にも悪いところがあった。反省してるよ」
彩香は一瞬、足を止めたが、何も言わずに立ち去った。
俺は一人ぽつんと屋上に取り残された。
◇
まぶたが持ち上がり、ぼんやりした視界が焦点を結ぶ。
見慣れない天井があった。
自分が北海道のホテルにいたことを思い出す。
夢にしてはあまりにリアルだった。
あの日、屋上で味わった苦い思いもよみがえる。
俺はのろのろと首を傾けた。
すぐそばにさやかの顔があった。
顎の下で両手を握り、静かな寝息を立てている。
少女を起こさないよう、俺はそっと体を起こした。
ヘッドボードのデジタル時計は、午前6時を表示していた。
カーペットに足を下ろし、スリッパを穿く。
南の窓に近づき、締め金具を下ろし、少し隙間を作った。
澄んだ朝の空気が流れ込んでくる。
俺は目を細め、北海道の雄大な風景を見つめた。
青とオレンジが溶けあった空はカクテルのように美しかった。
頬を指でさわると、ゴワゴワした涙の痕があった。
昨夜、少女の胸の中で泣き疲れて寝てしまった。
誰かがずっと頭を撫でてくれたのは、ぼんやり覚えている。
すうっと大きく息を吸い込む。
清明な空気で浄化されたように心が軽くなった。
旅に出てよかった、はじめてそう思った。




