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あたし美少女だから

::家族でくらしてたの。美少女になる前。よれよれのTシャツ着てぼさぼさの髪して。自分はダメな奴だって怖気づいてた。::


 ちょっと昔の話をしようかなと思って。家を出てから初めてだよ、こんな気分になったの。それはきっと春のせいだ。春には春の匂いがする。春の匂いがすると、そわそわする。何かがものすごいいきおいで変わっていくのに自分だけ取り残されている気がして、でも変わっていく流れに流されたくなくて、焦りながら柱にしがみついている。春。梅の季節は終わりだよ。もうすぐ桜が咲くんだ。

「ミミ子ちゃん、美浜高校に行くんだって」

 あのときお母さんはそう言った。食事の途中で。今日と同じ春の日の昼間だった。外はよく晴れていて、開け放った窓から暖かい風が入ってきていた。桜餅みたいな匂いの風。だからあたしはちょっとだけそわそわしていた。それなのにお母さんがそんなことを言ったから、あたしはもっとそわそわして、トイレに行きたくなった。

 お昼ごはんの焼き魚は口に入れると香ばしくて、噛むとジューシーでおいしいの。それとご飯がとてもよく合う。味噌汁もいいよね。でもそのときはそわそわしてそれどころじゃないの。

「トイレ」

 あたしはそう言って立ち上がった。お母さんは何も言わない。

 トイレ。別におしっこしたいわけじゃなくてそわそわを収めたいだけだから、あたしは洋式便器に座って天井を見上げて、心の中であーって声を伸ばしてみる。そしたらトイレの窓が開いていることに気づく。青空に白い綿雲が浮かんでる。ゆっくりと動いてるね。風が窓から入ってきてあたしの座っているところまでやってきた。春の匂い。焼き魚の匂い。暖かい。焦る。

 ミミ子ちゃんは美少女だった。今でもきっと美少女なのだろう。でもあたしは小学校までのミミ子ちゃんしか知らない。誰にでも優しい子だった。勉強がとてもよくできた。だからミミ子ちゃんは進学校に行くんだ。あたしはどこにも行けない。トイレに座って、春の匂いで焦るだけ。

 あー。

 心臓がドキドキして苦しくなった。そのころあたしは心がおかしかったからそういうちょっとしたことでもよけいにおかしくなったんだ。

 あたし、トイレを出た。お母さんのところへは戻らなかった。自分の部屋に入って、閉めたまんまだったカーテンを全部開けて、窓も開けて、網戸も開けたら、閉めっぱなしだった網戸は外れて落ちた。あはは、面白いね。

(あはは)

 ほんとに笑ったんだよ。声の出し方を忘れてたから声がでなかっただけ。

 暖かい風と春の匂いが入ってきた。冷え切ってたお布団が暖かくなった。埃、全部飛んでいって、かわりに花粉がたくさん飛んできた。あたし花粉症じゃないから平気だよ。春の匂い。焦る。心臓が速くなっていく。これは焦っているんじゃなくてドキドキなんだ。恋かしら。ワクワクしているのかも。体動かしたい。

 数学の教科書が置いてあった。一年生のやつ。いろんなものが上に積もっていた。全部ばらばらってくずして引っ張り出して、開いた。

 正の数。負の数。負と負を掛けたら正になる。なにこれ。ドキドキする。すごい楽しいよ。あたしドキドキして楽しい。何年もおべんきょしてなくて何もわからないはずなのにすごいじゃん。あたし心が変だからさ。そうしたらいてもたってもいられなくなって、ぜんぜんそうしたいと思ったわけでもないのに、窓からジャンプしてた。体、すごい、ふわってなって、あ、ここ一階だから死んだりしないよ、全身が春風の中にあって、着地したら地面が暖かい。足の裏が暖かい。みなぎってくる。叫びたかったけど声あんまり出なかった。

(あー)

 そしたら近くで猫がにゃーって言った。ありがとう。そうしてあたしは、家を出ようと思ったのです。


::今はときどき髪切るわ。友達と遊ぶため。かわいい服着るの。学校行くから。あたし美少女だから。::


 あたしがこの高校に入ろうと思ったのは寮があるからなんだよね。今までのこと全部リセットできるし。みんな一度やってみたらいいと思う。リセット。友達とか、好きな人とか嫌いな人とか、あたしがどんなやつかってこととか、どうでもいいの。あるのはあたしの頭の中だけ。

 昆虫の幼虫はさなぎになると殻の内側を全部溶かしてどろどろにして体のパーツをゼロから作り直すんだってさ。それ最高じゃん。幼虫なんて葉っぱの上でゆっくり歩いて葉っぱ食べてるだけだもん、楽しくないよね。でも成虫になったら飛べるよ。ぜんぶゼロだからさ。体はきれいになる。あるのはあたしだけ。

 あたしはゼロになりました。全部ドロドロに溶けて、作り直しました。無理して作るんじゃなくて、そのままだよ。だからいまは肩こりにならない。最高でしょ。

 髪はちょっと切った。前は肩に届くくらいになってたんだけどね。もさっとして暗かったからやめた。でも短すぎるのは理想じゃないし、微妙なせめぎあいなのよ。それから、ズボンやめてスカートにした。高校、制服ないからちょっと制服っぽいやつね。ほんとはちゃんと制服着て高校通うの憧れてたけどしょうがないよね。

 一番勇気が必要だったのはメイクしたことです。これはね、しばらくはお母さんに見せたくない。だってめっちゃ変わるんだもん。冗談でしょって、自分でツッコんだよ。あたしじゃなくてどっかの美少女だよ。あ、つまりね、あたしは成虫になったんだ。全部どろどろに溶けて作り直して美少女になった。鏡の前で回ってみたりして。スカートってほんとにふわってなるんだ。すごいね。そうそう、寮は個室なのでこんなことしてても誰にも文句言われないの。いいでしょ。

 朝八時。あたしはリュックに教科書を入れて部屋を出る。

「行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 ルリさんがにこやかに挨拶してくれたからあたしも目一杯にこやかな顔で挨拶をする。でもたぶんにこやかさではルリさんにかなわないね。あたしは長いこと笑顔になったことがなかったから、寮に入ってしばらくたってもにこやかな顔はうまくできない。それにひきかえルリさんはとても美しいので笑顔に無理がない。どうやったらこんなに美しい人ができあがるのかしらとあたしは不思議に思う。こんな人に、あたしはならなくちゃいけない。

 あたし美少女だから。


::眠いのに朝六時に起こされるの。あたし美少女だから。::


 目覚まし時計の音がする。夢の中で、あたしは川を流される舟の上にいる。暖かい色のもやに包まれて、波ひとつ無い広い川を河口に向かって流されていくの。川の名前は多摩川。なにそれ、夢がないなあ。目覚ましの音、午前五時四十分。わかってるよ。わかってるから一瞬だけ川の流れから抜け出して、頭の上で手のひらを叩く。静かになる。あたしはもう一度舟にのって流されていく。いい気持ちになっていたらドアをノックする音が聞こえた。

「朝だよ起きて」

 ルリさんの声だ。美しい声がもやの中にこだまする。かすかな振動が鏡のような川面を波立たせるの。

「起きないと遅れるよ」

 鍵を回す音。ルリさんは全部の部屋の鍵を持っている。ルリさんは若くて美しいから、近くに来ると匂いでわかる。花みたいな匂いがするんだよ。ってこないだ言ったら、サト美ちゃんは「りんごだよ」ってさ。他にも「メロン」とか「すいか」と言う子もいてはっきりしない。でもともかくいい匂いがする。ルリさんの美しい指先があたしの肩に触れて、ゆっくり揺らす。あたしは舟と一緒にゆらゆら揺れる。起きたくないよ。でもね、

「起きなくちゃかわいくなれないよ」

 そうなんです。ルリさんは美しいからいちばん大事なことがわかっているのです。そしてあたしは、ルリさんみたいに美しく(そしてかわいく)なるために、暖かい川の底を蹴ってこの世に戻ってくるのです。

「おはよう。早く支度してね」

 目を開けるとルリさんはベッドの横に立って美しい顔であたしを見下ろしてる。

「おはようございます」

 ルリさんは今朝も美しく微笑んでいた。あたしはベッドを出て鏡を見る。髪の毛がボサボサしてる。パジャマ一枚の朝のからだ。恥ずかしいよね。だからあたしは後ろ向きになってちょっと背中を丸くする。

「着替えます」

「朝ごはんに遅れないようにね」

 ルリさんはそれだけ確認すると出ていく。どうして時間通りに起きれなかったの、とか、起きれないと罰、とかは言わない。ただあたしの寝顔を見て、起こして、着替え始めるのを見たら、それで仕事はおしまいって感じで、次に寝坊してる誰かの部屋へ行く。あたしの部屋のドアが閉まって、隣の部屋のドアが開く音がした。サト美ちゃんの部屋。

 ルリさんのいい匂いはもうしなくて、朝ごはんのなにかが焼けるにおいがする。


::きらいなおかずも頑張って食べるの。あたし美少女だから。英語の単語覚えるの。あたし美少女だから。::


「ほうれんそあげる」

 あたしはお皿からほうれんそをつまんでサト美ちゃんのお皿に入れた。サト美ちゃんはバレー部だから背が高くてたくさん食べるけど、そのわりにお肉よりも野菜がすきなんだ。でもトレーニングするからお肉も食べないといけないらしくて、それなのにお肉はあんまり好きじゃなくて、それが悩みの種なのです。

「おかえし」

 と言って、ルリさんがちょっと多めに入れてくれてたベーコンをあたしのお皿にのせる。あたしはベーコン好きだからいいけどサト美ちゃんのトレーニングの効果があがらなかったりしたらあたし怒られるのかな。まあいいけど。ほうれんそが嫌いなあたしはほうれんそが好きなサト美ちゃんにあげる。ベーコンが嫌いなサト美ちゃんはベーコンが好きなあたしにくれる。これをビジネスの言葉でウインウインって言うらしいよ。あたしたちのビジネス。これはかわいくなるための取引だよ。

「これもあげる」

 って、あたしはピーマンもサト美ちゃんのお皿にのせようとする。でもサト美ちゃんはダメって言う。

「嫌いばっかじゃダメだよ。それは食べられるように頑張ってみ」

「そんな後生な」

 後生って言葉の意味はわかんないけど使ってみた。ちょっとダサめなのがクールだよね。クールすぎるとクールじゃないんだよって誰かが言ってた。

「でもピーマンってどうやって食べたらいいの」

「噛まずに飲んだらいけるんじゃない?」

「なるほど」

 そうそ。ピーマンってさ、ぎゅって噛んだら奥歯の虫歯のあとのところが滑ってへんなキュって音がして脳に響く、あれヤバいよ。黒板引っ掻いた音とか、テーブルの上でスプーンの山側を滑らせたときみたいな感じでアアーっ我慢できない。

「なにそれわかんない」

 サト美ちゃんがわかってくれないのはたぶん虫歯になったことがないからだよ。でもともかくあたしはピーマンを丸呑みする。そうするとほら、変な音しないもんね。あともうひとつ良かったことは、においがしないんだ。噛んだら薬みたいなにおいするじゃん。あれもダメ。だから丸呑みはすごくいいと思う。サト美ちゃんすごい。おかげであたしは嫌いをひとつ克服してかわいいに一歩近づいたのです。

「今日って英語テストだよね」

 と、サト美ちゃんはほうれんそをおいしそうに食べながら言った。

「だよね」

 あたじはここぞとばかり単語帳を取り出す。

「朝ごはんに持ってこなくてもいいのに」

 サト美ちゃんはそう言うけどね、英語のテストで少しでもいい点を取ろうとする姿勢が大切なのだ。あたしたちはそうやってかわいいに近づいていく。

「満点でも目指してるの」

「オフコース」

「なにそれ」

「その通りって意味だよ」

「分かってるがな」

 サト美ちゃんがあたしのほっぺたをぺしぺし叩いた。バレー部でいっぱいアタックしてるサト美ちゃんの手は大きくて、かたい。姿勢が良くて、背が高くて、お肉より野菜がすきで、クールで、かわいい。


::あたしはあたしが好き。あたし美少女だから。::


 歯を磨いたら、鏡の前に立って両手で髪を束ねる。今はもう伸ばしっぱなしじゃないよ。かわいくなるためにちゃんと切ってる。前髪もちょうどいい。長すぎず短すぎずほどほど。ほどほどは美。制服っぽいスカートも長すぎず短すぎずほどほど。ポニテの位置どうする?高すぎず低すぎずほどほど。ほどほどは理想。一番ちょうどいい場所を見つけたら、かわいくなれるのです。

 ってゆうかあれだよ? 普通に美少女じゃなきゃ美少女じゃないのだ。普通じゃなくなったら美女になってしまうのだよ。それは美しいけれどあたしじゃない。あたしは普通。普通で美少女。正面から見たら普通でしょ。どこにでもいそう。でもちょっとだけかわいい。あの日、一階の窓から暖かい外に飛び出したとき、あたしは普通の美少女になることを決めたのです。頭を横に向けて、ポニテの結びかげんを見る。ほどほどだね。前髪。ほどほどに揃ってるね。お腹と背中。ほどほどに細いね。でも胸はほどほどってほどでもないんだよね。これなんか詰め物して大きく見せられるんだっけ。そのへんのことはまだ分からない。そのうち普通の美少女になるために、挑戦しようとは思うんだけれど。

 あたしはリュックを背負って、スニーカー履いて、玄関の扉を開く。お外は明るくていい匂い。先に出て待っててくれたサト美ちゃんにありがとうって言う。そして学校へ行くんだ。ぜんぶ普通。普通にかわいくて、普通に日常。あたし美少女だから。


::太ってたのよ。美少女になる前。なにもできなくて外に出ることもできなくて。考えるのは自分をころすことばかり。::


 朝はあんなに晴れてたのに昼休みが終わった頃から急に曇ってきて、今、雨です、放課後。早く帰ればいいんだけど、なんかめんどくさいよね。めんどくさいって言うと美少女になれないよって、言ったのはリンコちゃんだったかな。リンコちゃんは同じ寮の二階に住んでるほどほどの美少女です。ほどほどの基準はあたしとは違って、勉強が一番じゃないていどにほどほどにできて、陸上部ほどじゃないていどにほどほどに足が速くて、サト美ちゃんほどじゃないていどにほどほどにバレーがうまくて、学級委員長じゃないていどにほどほどに副委員長なのだ。そしてアイドルほどではないていどにほどほどにかわいい美少女。あ、そうだ、リンコちゃんと一緒に帰ればめんどくさくないかもって思ったけど、駅前の塾に通ってるからもう帰っちゃったかもしんない。帰ってないかもしんないけど、三組の教室まで階段上がるのもめんどくさいしさ。誰もいない国語科準備室のふたつだけの椅子のひとつに座って雨が降ってるのを見つめてる放課後です。

 そういえばリンコちゃんはどうしてこの高校に来たんだろう。あたしよりもずっと美しいに近いのにさ。美しいになれる人はもっとずっと天国の上みたいな高校に行くのだと思っていた。まあ、あたしだってなんでこんなとこにいるのさって感じでしょ、他の人から見たらね。あたしはここにいるべきじゃなかったのかもしれないよ。美少女じゃなかったらね。

 国語科準備室。自称帰宅部室。べつにいたければいてもいいよって国語の先生言ってたから、いる。そして雨、すごい降る。なんか木の匂いみたいのがする。鉄筋コンクリートの学校なのに。それで、木の匂いなんてするから、あたしは昔のことを思い出す。思い出したくなんてないんだけどさ。最近はちょっとくらいそういう感傷に浸ることもできるようになったんだ。

 あたしは雨の日がよかった。良いってことじゃないよ。他よりもよかったってこと。人間がたてる音が聞こえなくなるから。雨はほっといても上から落ちてきて屋根に当たって瓦のへこみに沿って流れて、地面に当たって音がする。それだけだよ。それだけのことがすごくいっぱい集まって、人間の音が聞こえないくらいの雨音がする。雨の匂いがする。そして少し肌寒いから、あたしは毛布を頭から被る。人間とは関係のないものがたくさん流れていく音がする。そういう世界に包まれているのが悲しくて、毛布の中で涙がどんどんあふれてきて、ほっぺたが熱い。声なんて出さないよ、その頃あたしは声の出し方を忘れてた。勇気を出して喉に力を入れたらカ行の音は出せた。

「クッ」

「クッ」

「キッ」

 雨音のほうがたくさんの音を出せてるよね。だから真っ暗闇で聞こえるたくさんの音が良かった。暗闇もいいよ。自分の体がきたなくて、指先だけでも目で見たくなかった。光がないのは素敵だった。暗闇ではいろんなことを考えられた。どうやったらあたし死ぬのだろう。ニュースで飛び込み自殺とか飛び降り自殺とかやってるじゃん。でもあたし住んでるの田舎だから飛び込んで死ねるほど速い電車走ってないし、飛び降りて死ねるほど高い建物もなかった。死んだおじいちゃんが見てた時代劇を思い出してさ、切腹なら死ねるよねって思った。そっか、あたしが死ぬのは切腹だ。台所にある包丁使えばできそうだよね。死んだらどうなるんだろう。たぶんあんまり苦しくはない。なんにも無くなるのならとてもいいことだと思った。あの世で毎日雨音を聞きながら過ごせるなら幸せだ。もう大丈夫。苦しまなくていい。人間の音を聞かなくていい。人間の体を見なくていい。あたし死ぬんだ。いつかきっと死んでみよう。っていう、ここまでが昔の話。

「寝てるの?」

 って声が聞こえた。

「どっちかっていうと、死んでる」

 ってあたしは答えた。今はもう、カ行じゃない音も普通に出せる。人間の音を聞いて、人間の言葉を話せる。そして雨音で消しきれない音を聞くのも、美しいと思えるようになったのです。

「一緒に帰ろ」

 リンコちゃんは声が美しい。リンコちゃんがどんなにほどほどの美少女でいようって思っても、ほどほどじゃないんだよ。声だけは。リンコちゃんの声は雨音に似てる。だからリンコちゃんはきっと、この高校にいるんだろうね。あたしはそれ、良かったと思うよ。


::今は服もご飯も全部かわいくなるため。甘いケーキ食べて。テレビも話題の俳優が出てるやつ。あたし美少女だから。::


 カフェに行こうってリンコちゃんが言ったから、寮には帰らずに駅前の喫茶店に入った。リンコちゃんはカフェって言ってるけどあたしはここ喫茶店だと思うよ。昭和レトロっていうのかな、あたし昭和のことしらないけどさ。スタバとかじゃなくて、ちゃんと席に座ってからお店の人が注文聞きに来るやつ。壁とか椅子とかテーブルが全部古いっぽい木でできてて、天井に扇風機の羽根だけみたいな換気扇が回ってる。あんまり有名じゃないピアノの曲が流れてて、お客さんがあんまりいなくて静かなんだ。一番遠い窓際で本を読んでる女の人と、その手前の席に向かい合わせで座ってるおばさん二人組だけ。もっといっぱい人が来てもよさそうなのにあんまり儲かってなさそうだよね。そんなことここでは言わないけどさ。

「今日は何にしますか?」

 リンコちゃんは常連なので、ちょっとだけイケメンな店員さんにこんなふうに注文を聞かれるんだ。

「ミルクティーとミルクレープを、お願いします」

 ちょっとあたふたした様子で答えるリンコちゃんを、あたしはミルクとミルクが掛かってるなあって思いながら見てる。リンコちゃんは美しいに近い美少女だけど、庶民的。なんか、人間だよね。だからかわいい。ちょっとだけイケメンな店員さんのことが好きで、だから常連になったのかもしれない。そうだとしたらもっとかわいいよね。

「あたしはレモンティーとモンブラン」

 こういうとき、他の人と被らないように注文しちゃうのどうしてだろうね。どっちも好きだからいいけど。

 外はまだ雨降ってる。リンコちゃんが乗る予定の電車まであと三十分もある。

「田舎だよね」

 ってリンコちゃんは言った。東京とかと比べたらそうだけどさ、あたしの家がある駅よりも都会だよ。電車が走ってて商店街があってちょっと離れたところにイオンがある。イオンに行けば美少女に必要なものが買える。かわいくなるための服がある。かわいくなるためのご飯がある。

「日曜日イオン行こうよ」

 とあたしは提案した。

「うん、そうしよう」

 とリンコちゃんははにかみながら言った。そういうところが美しいに近いんだって。身を乗り出したり目を輝かせたりしない。でも行きたいんだなあってちゃんとわかる。だからあたしは嬉しくなる。

 ちょっとイケメンな店員さんが持ってきたモンブランはほら、甘いよ。レモンティーによく合う。さりげなく目線でちょっとイケメンな店員さんを追っかけるリンコちゃんもモンブランと同じで、レモンティーによく合う。

「星野さんにちょっと似てるね」

 ちょっとイケメンな店員さんがカウンターの向こうに見えなくなってから、あたしは言った。リンコちゃんがミルクレープの端っこをフォークでずどんって裁断。いいね。ミルクレープの食べ方。ちょっとイケメンな店員さんは今話題の星野さんになんとなく雰囲気が似てる気がしたんだ。

「そうだね」

 って言ったリンコちゃんは声を弾ませたりしないけど、ちょっとだけ嬉しそうな感じがしている。かわいいリンコちゃんのミルクレープの一番上の皮だけが剥がれたりしませんように。なんとなく上の空なリンコちゃんが裁断するたびに、あたしはそんなことを神様らしきものに祈ったりするのです。


::あたし美少女だから。苦手な体育頑張るの。あたし美少女だから。こんなに自分に怒れるの。あたし美少女だから。::


 体育、苦手なんだよね。美少女になる前はずっと布団の中にいたからね。ちょっと走っただけで疲れちゃうしさ。だから持久走大会ってすごい憂鬱だったけど、スタートしたら意外と平気で、まあしょうがないかなって気分です。でももうお腹痛くなってきたし息が苦しい。サト美ちゃんもリンコちゃんもスタートして一キロも走ってないうちに見えなくなったよ。なんでみんなあんなに早いんだ。もうあたしの視界にだれもいない。ちょっとだけ都会な町の町外れの田んぼ道がずっと続いてるだけ。

 でもあたしはゴールをあきらめない。あたし美少女だから、頑張って青春の汗を流さなきゃならない。青春の汗は美しい。もっとかわいくなるために、嫌いでも頑張って、最下位でもゴールするんだ。

「大丈夫?」

 って、給水所の先生が言ったので、大丈夫です、頑張ります、って答えた。

 水をもらってから少しだけ走ったら、

「無理しないでね」

 って、後ろから聞こえた。あたし、言われたのかなって思って振り向いたら、隣のクラスのタマイさんがすごくつらそうに水を飲んでた。あたしより体育苦手な子がいたんだ、って意外だよね。隣のクラスだから授業が別で、だから知らなかったんだ。見た目なんとなくどんくさそうだなっていうシンパシー? みたいのはあったけど。

 一緒に走ろうかなって一瞬思った。でもそれだめだって思い直した。最下位と最下位から二番目で仲良くするって全然かわいくないじゃん。傷舐めあってどうすんのさ。それに、タマイさんも諦めてないよ。顔見たらわかるよ。超怖い顔してるじゃん。タマイさんはかわいいを諦めない。かわいくなるために青春の汗を流す。同じじゃん、あたしと。

 あ、そうだ、シンパシー。たぶんタマイさんは人見知りだからあたしに話しかけてくることはないかもしれないし、傷の舐めあいがだめなあたしも話しかけることはないと思う。でもライバルだよ。勝手にライバル。あたしは流した青春の汗の量で負けたくないし、もっとかわいくなりたい。なのでお腹が痛くても進みます。タマイさんより前を、追い越されないように進みます。


::かわいい美少女でいようって頑張るの。あたし美少女だから。あたしはあたしが好き。::


 結局、ゴールできたんだよ。すごいでしょ。タマイさんも。おかげであたしはまた一歩美少女の道を歩むことができたのだ。

 それでさ、すごい意外だったんだけど、走り終わってからタマイさんに話しかけられた。声が震えてて、超緊張してるなってわかった。美少女になる前のあたしもそんな感じだったから、またシンパシー感じたよ。

「ががが、頑張ったね」

「うん、お互いにね」

 戦友ってこういう感じなんだよね、たぶん。もっと無感情な感じでクールに美少女でいたかったのに、あたし超嬉しくて右手のグーを出した。タマイさんはあたしの顔と右手を見てとまどってたけど、犬を触るときみたいにそっとグーを合わせてくれた。いいよね、戦友。それからは二人とも何も話さなかった。でも分かりあえたっていう、それだけでいいんだよ。人見知りなんだからさ。嬉しいっていうことが大事なのだよ。

 っていうのを、思い出しています、今。また放課後の国語科準備室で、サト美ちゃんを待ちながら。思い出が増えていくね。


::あたし美少女だから。あたし美少女だから。::


 国語科準備室のふたつしかない椅子の片方に座って、ちょっと夢みたいなことを考えてる。


::もしも美少女になる前に戻れたなら勇気を出すわ。学校に行くの。将来のために勉強するの。でもぜーんぶ無理で。いまあたし美少女。::


 勇気がほしいなあっていつも思ってた。言いたいことはたくさんあって、親にも、学校にも、先生にも、先輩にも、友達にも、友達じゃない同級生にも、ほとんどは不満だったけど、言いたかった。不満っていってもひとことだけなんだよ。あたし語彙力ないからさ。

「しねよ」

 って言う勇気。言われても負けない勇気。

 今はもう必要なくなった言葉だけれどね。いまは好きな友達がいて、嫌いな人はほとんどいなくて、「しね」って言わなきゃならない人はいない。だからいまは幸せなのです。

 もしあたしが美少女になる前のあのとき、

「しねよ」

 って言ったら。学校に行ったら。たぶんそれはそれで上手くいったんだよね。解決はしないしあたしはすごく嫌なやつになってたと思うけど、それでもあたしは学校に行けた。行ってしまえば勝ちだよ。負けない。教室に行かなくたっていいんだよ。保健室に行ったっていいし体育用具室に住み着いたっていい。給食室で給食を食べるおばけになってもいい。

 もし学校に行けてたら、ちょっとくらいおべんきょして、普通の高校に通ってたかもしれない。体育を少しだけやったら、持久走大会で最下位から二番目よりはちょっとだけ順位が上だったかもしれない。あと、もしかしたら不満を言いたかったひとびとの中から、実はそんなに嫌じゃないひとを見つけられたかもしれない。そしたら友達になろう。なろうって言ったって、もうなりようがないんだけどさ。

 なりようのない、昔のことです。学校に行かずに家で寝てただけじゃん、って話だけど、でもあたし結構頑張ったよ。頑張ってこれだからさ、やっぱ無理だったんじゃん。それはそれで。


::でもそれ全部より美少女になれてよかった。::


 あたしは嫌なやつになれなかった。「しねよ」って言う人にならずに、もっと美しくなろうとした。だからあたし、いま美少女。「しねよ」よりもきれいな言葉も覚えてちょっとだけ語彙力がつきました。ルリさんと、サト美ちゃんと、リンコちゃんと、タマイさんに、

「ありがとう」

 って言ったよ。きのう。そしたらみんな笑顔になった。すごいよね。


::あたし美少女になれてよかった。::


 美少女にならずにふつうに生きてもよかったけどさ。普通に高校生になって普通に大学に進学して普通に就職して、普通に年取って普通におじさんになる。あたしの人生はそれでもよかった。でもさ。


::あたし美少女になれてよかった。::


 みんなありがとう。あたしは美少女として、もっと美しくなりたい。


::あたし美少女になれてよかった。::

::だってあたしはここにいるから。::

 

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