[19歳] ディムは誘惑に負けそう
エルネッタさんの症状は胸が痛いのと、苦しい。
死ぬほど胸が痛くて、苦しい?
「エルネッタさん、心筋梗塞じゃない?」
「うー、それは何だ? 怖い病気なんだろ?」
「心筋梗塞は怖いよ! 苦しいのは呼吸困難なの? もしかして肺になにか……」
「ああっ、ディム。ごめんな、一緒にいてやれなくて、ほんとごめんな」
いや、エルネッタさんが泣き言をいうたびに大丈夫そうに見えてきた。
だけどどうやら本気で胸を痛めているらしく、ぎゅっと胸を抑え、ディムに向かって何か訴えかけるような視線を投げかけている。泣きそうになるほどの事だろうか。
まさか病気で死んでしまうなんて言うもんだから、一瞬ヒヤッとして目の前が真っ暗になったけど、よく話を聞いてみたらそれほど心配しなくてもよさそうだ。
ディムは少しだけ心当たりのある病名があった。
もしかするとエルネッタさん……恋してるのかな? とも思ったけれど、仮にもアラサー女性にそれはない。頭をブンブン振って甘い考えを振りほどいた。なにしろ相手はあのエルネッタさんだ。あのヒトのことだから何か勘違いを誘発する未来しか見えない。喜んで小躍りしながら『エルネッタさん、ぼくに恋してるんだよ』なんてこと言ったら瞬間的に態度をガチガチに堅くして、120%全否定するに決まってる。
否定するだけならまだしも、ぜったいに怒る。
この人は怒って逆ギレしてでも、この場を切り抜けるような人だ。
こ……ここは黙っておいて、恋心を暖めておいた方が得策だ。
ディムは何も言わずリュックの中から鉢を出し、もしもの時のために持ってきたカサナツの葉を取り出して鉢の中で潰して緑色の薬を作った。
「ディム……何を出した? わたしは暗いと良く見えないんだ」
「エルネッタさんが死んでしまったらぼく泣いてしまうから、カサナツで薬を作ってる」
「まってくれディム、カサナツは嫌いだ。あんなの口に入れたら二日は苦みが取れないじゃないか。絶対イヤだ」
そう、カサナツは胃腸薬でもあり、下痢止めでもあるから旅に出るときは必須の薬草なんだけど、これがたぶん世界で一番ニガい。苦いと言うか、渋柿の渋味成分のようなものが含まれていて、口に入れると粘膜が歪んだようなイヤな刺激に襲われる。
「エルネッタさん病気なんでしょ? ぼくが診た感じではこれで治るよ。一発で!」
「いやぁ、カサナツはっ、んっ……んん――」
話を聞いてるのか聞いてないのか。妙に色っぽい吐息を声に出したな、と思ったらエルネッタさんは珍しく顔を近づけてきて……目を潤ませている。
上気したように頬も赤らめていて、まるで恋する乙女が泥酔して目の前の男に色仕掛けで迫っているようにも思える。
「ねえどうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ない……」
エルネッタさんが膝に乗って首に巻き付いてくる。息が……耳に。
ディムの耳、かすかに、唇がついている。
「ええええ、エルネッタさん……。耳に唇ついてるよねこれ……ぞわぞわするよ。なんでそんなに積極的なんだ――っ! エルネッタさん、たしかに大丈夫じゃないよね! どうしてそうなったか言える? ぼくの言ってることが分かる?」
エルネッタさんが誘ってる? いや違う。絶対何か裏がある。
見た感じでは芝居には見えないし、息も荒くなってる。『聴覚』スキルを発動して心音を聞くと、心拍数があり得ないほど上がっていて、まるで短距離走をマジダッシュで走った後のようにバクバクしてる。
とろんとした目、瞳孔が開き切って黒目が大きな魅力的な瞳と、半開きの唇が劣情を刺激する。
押し倒すべきか突き放すべきか葛藤して誘惑に負けそうだ。
据え膳食わぬは武士の恥だ! 恥っ! 恥の中の恥とも言う。
やらぬなら、やらねばならぬ、なにもかも! ともいう!
ディムですら混乱し始めている。素数を数えようにも素数ってなんだっけ? というレベルで己の無知を呪った。もう自分で何考えてるのかよくわからなくなってきた。
平常心を突き抜けてリビドーに支配される。
これが色仕掛けだ。
ディムは己の弱点を知った。男であるという、その本能こそが弱点となりうるのだ。
このまま誘惑に流されてしまいたいという欲望との葛藤で、頭がクラクラしてきた。いったい何があったらそうなるのか。エルネッタさんにへんなクスリでもキマってるのか。
「はあっ、ディムぅ……お願い、お願い……」
エルネッタはディムの首に手を回して強引に抱き寄せると、ディムはそのまま押し倒される。
「ちょ、マジやばい……」
……っ!
男として、若い肉体を持つオッサンとして、すごく嬉しい。
嬉しいけれど!!
「でもエルネッタさん変だ。はい、これ飲んで」
「……っ! もがあああぁぁぁ!」
エルネッタさんの半開きでちょっと舌を出したような口に指を突っ込んで開き、いま擂ったばかりの苦――いクスリを放り込んでやると、さすがのエルネッタさんもゲヘゲヘとむせっ返り、そのあとうがいと口の中を洗浄するため、川に頭を突っ込んだ。
これで目が覚めるだろう。
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「けほっ、けほっ……にがい……にが――い。ディムのアホ、もっと他にやりようがあるだろうが!」
「ぼくはいまにも涙が出そうなほど惜しいことをしたんだ。もしかしたら一生悔やむかもしれないような決断をしたのに、怒られる筋合いないからね!」
エルネッタさんもようやく正気を取り戻したらしく、口の中の苦みもどうやら落ち着いてきたらしい。
ひとしきり口の中を拭き取ったあと、ロールマットに座って深々と頭を下げた。
「ディム……すまん。本当にすまん。わたしの意思じゃないんだ。信じてくれ」
「そんなの分かってるよ。えっと……」
「すまないが、聞かないで欲しいんだ。本当に死に至る病かもしれない。ディム、お前には心配させるかもしれないが、わたしを信じてもう少し時間をくれないか」
「話してくれないって事? それは隠し事なの? でも心配だよ、護衛のときとか、他の人相手にい今みたくなったら嫌だよ?」
「ならない。大丈夫じゃないって思うかもしれないが、ディムにだけだ。原因もなんとなくわかってる。絶対にわたしがなんとかするし、いまは言えないが隠し事する気はない、時がきたら必ず話すつもりだ」
「なんだよそれ、じゅうぶん隠し事じゃん。何ともならなかったらぼくに相談してね、絶対だからね」
「ああ、そうする。しかしまたディムに助けられたな。じゃあなんでもお願いを一つ聞いてやるぞ、ありがとうの気持ちだ」
「本当? 女に二言はない?」
「ない」
「じゃあぼくの彼女になって」
「まだ隠し事があるだろう? ダメだな。隠し事をすべて告白してから出直してこい」
「まーだ根に持ってんの? もうそろそろ許してよ。どうせエルネッタさんにも隠し事はあるんだし、ぼくの隠し事ひとつとエルネッタさんの隠し事ひとつ相殺しない?」
「それじゃあお互いに100ずつ隠し事をしようかってことになるだろ? ダメだ」
100も隠し事があるのか……。どんだけだよ。
「女に二言はないって言ったくせに」
「じゃあ、わたしが断れないような状況で彼女になれって言うのか? 本当にそれでいいのか?」
「うっ……ずるいよそれ」
「なりましょうか。はい、分かりました。何でもと言ったのは確かにわたしだからな。彼女になればいいのか?」
「あーもう、わかったよ、今日のところは取り下げるよ」
「別のお願いを言ってみろ。なんでもいいから」
「もう言ったよ。願いはそれだけなんだ。今日のところはフラれたけどね。次また頑張るよ」
「なあ、わたしはもうすぐ30になるんだぞ。なんでディムはこんなオバちゃんがいいんだ? そういうフェチなのか? パトリシアはどうよ? あいつもディムのことが好きだからな、ひしひしと思いが伝わってくる。あと2年もすればサラエだって相当な美人になるぞ? あれを逃したら惜しいと思うが……」
「そうやって若い女を勧めるくせに『わたしの事は諦めろ』とは言わないんだよね。エルネッタさんは」
「諦めろと言ったら諦めるのか?」
「諦めるから言ってみれば?」
「本当に諦めるのか?」
「本当に諦めるって言ってんじゃん」
「本当に本当なのか? 言うぞ?」
「どうぞ。言えばいい。諦めてやるから」
「……」
「……どうしたのエルネッタさん」
「うるさいな。イヤだ」
30前までずっと男として振る舞ってきた恋愛経験ゼロの女って、ほんと面倒くさいと思った。
この恋愛ドヘタクソな癖に主導権を握って放したくないエルネッタさんと一緒に暮らし始めてから6年。ようやく好きだと言ってくれるようになったと、今はそれだけで満足しておこう。あと10年も一緒に居れば、二人は付き合ってるかもしれないし。
「うん。じゃあ諦めないから、いつか彼女になってね」
「ダメだって言っただろう? なあディム、ひとつハッキリと聞かせてくれ。わたしのどこがそんなにいいんだ?」
「じゃあ逆に聞くけど、ぼくのこの性格でパトリシアと付き合えると思ってるの? あの子、絶対泣くよ」
「おまえは性格が悪いからな、ちょっと手加減してやればいいじゃないか」
「だからエルネッタさんじゃないとぼくにはついて来れないんだってば」
「……いつの間にかわたしが追う立場になってるしな。お前本当に油断も隙もないな」
その夜ディムはエルネッタさんをロールマットに寝かせてマッサージしながら、水が瀬を渡るシャラシャラという涼し気な音に包まれて眠った。朝になってもすぐに身体がシャンとせず昼までゴロゴロしながら過ごし、けっきょくお昼ご飯を食べてからキャンプ撤収したので、休息地についたのは夕刻前だった。
休息地はラールの街のような西洋風の石造り建築とは打って変わって、木造建築がメインとなっている。
この国で木造建築なんて貧乏人か、もしくは彫刻まみれの悪趣味な貴族ぐらいしか住まないと思ってたけれど、ここの温泉宿は揃いも揃って、どこか和のテイストが加味されていて、もと日本人のディムにすれば、どこか懐かしく感じる造りの温泉町だ。
スマホとか携帯電話があれば予約するんだけど、ここじゃあ予約システムなんてないから、いちばん繁盛してそうな温泉宿 "あさひや" に決めた。
決め手は、宿を出ると斜め前に奥さんを殺されたムゲノ・ダムフェルドさんの土産物屋があるという、名探偵ディミトリ的には一等地ということなんだけど。




