聖域(2)記録された映像
聖域と呼ばれる『それ』は、石で築き上げた城壁をもった砦のように見えたが、岩肌に幾重にも苔が繁茂していて、入口の通路に整列してエントランスを形作っている篝火がなければ廃墟だと言われても疑う余地はない。そんな古い石造りの建造物の正面に、小さな、小さな、人ひとりが頭を少し下げてやっと通れるような入口がある。
聖域に近づくにつれてその大きさに圧倒されるように、小走りだった足を緩めたレーヴェンドルフに代わって、アンドロメダが前に出てエスコート役を務める。
扉のついていない小さな入口から足を踏み入れたところで、アンドロメダは振り返り、順番に入るよう促した。アンドロメダの後にレーヴェンドルフ、ヒカリ、シリウスと続いて、パトリシアが入る。
ジャニスとコンスタンティンはエントランスに立ち、アンドロメダたちの一行が入っていった、小さな、小さな、人ひとりが頭を少し下げてやっと通れるような入口を守るように待機した。
入り口を入るとすぐ右に折れていて、狭い、人ひとりが通れる通路が階段になっていて、円筒状の聖域の建物の内側から外周をぐるっと回り、らせん状に回りながら緩やかに上がってゆく。
長い間、空気の入れ替えが為されていないのだろう、空気が澱んでいるのがわかる。すこしのかび臭さがパトリシアの鼻についた。だが聖域は森の中にある、木々が教えてくれる。
森を愛し、森に愛されるパトリシアには分かった。いや、パトリシアは森が教えてくれたと言うだろう。 この上に巨大な魔法装置があって、いまもかすかに息づいていることを教えてくれた。森はこの巨大な魔法の塊ともいうべき聖域を受け入れていて、共生、共存の関係を保っている。
そうだ、パトリシアがここにきて最初に感じた違和感。教会の敷地に入り、馬車を降りたとたんに季節感がおかしくなった。とっくに収穫してなくちゃいけないはずの麦が黄金の穂を揺らしていた。
聖域の森は、聖域そのものが放出する巨大な魔力を土から吸い上げることで繁栄している。
森を出た集落にある畑もきっとそうなのだろう。この聖域を守っているのは強大な魔法の力だ。
森にいるパトリシアは空間認識力が相当に強化されている。階段をのぼりながらぐるっと回りこみながら、アパートの三階ぐらいの高さまで上がってきたことが理解できたし、入口からちょうど半周したところで階段は途切れ、広い空間に出たことも分かった。
先頭をゆくアンドロメダが両手を大きく広げると、ヒカリが灯していたライトの魔法が消失した。
夜目の利くスキルを持つものは瞳孔が開いて暗順応するまで、ほんのわずかの時間、視力を失った。
皆が真っ暗な闇に沈んだ瞬間を逃さず、アンドロメダはその手を天にかざした。
すると皆を囲んだ四方から無数の光が噴水のように吹き上がり、高い天井に当たってキラキラと瞬き発光した。天井はドーム型になっているようだ。煌めきが奥行きを持ちはじめる。この不思議な現象は、シリウスの目にどう映っているのだろうか、パトリシアはここが石造りの建物の中であることすら忘れてしまうほど精巧に作られた夜空、いや、目を見張る満天の星空に見えた。
人の目に見えづらいとされる4等星以下の小さな星々まで完璧に再現された天文図を見たレーヴェンドルフはその精度と出来栄えの素晴らしさに息をのむ。
「おおっ……これは北天の星海ではないか、盃星、隼星、あれは兜座の金剛星。素晴らしいな! これも魔法なのか? いったいどういう仕組みで……」
レーヴェンドルフの疑問にアンドロメダは答えず、唇に少しだけ微笑みを湛えながらゆっくりと中央の通路をゆく。ヒカリは自分自身が時空の壁を超え、この世界に転移してきた日のことを思い出していた。
そうだ、この世界に転移してきたとき、最初に目に飛び込んできたのはこの満天の星だった。
あれから何年たつだろうか、今になってその種明かしを見せられた。もと日本人のヒカリにとってそれはとても懐かしい技術だった。
「プラネタリウム? イキなことするのね……。ねえアンドロメダ、これは誰の発案なの?」
「プロキオン兄さんの技術ですよ。私は明かりを灯しただけです」
「プロキオン・ソレイユ自らが作った魔導器なのか! すごいな! 1000年前の魔導はこれほどまでに進んでいた。なぜ現代の魔導技術はこんなにも衰退してしまったのだ?」
「この国の魔導技術はプロキオン兄さんのおかげで大躍進を遂げました。魔導の技術は知識の継承が為されなければ、たった一代で消滅してしまうのです。だから魔法使いは自らの魔導技術を後世に残すため、魔導書を遺すのですが……」
「そうだな、こんなにも素晴らしい魔導が失われたのは歴史を修正のせいだ。貴重な魔導書を焼くだなんて正気とは思えん」
「魔導大学院もこっそり隠し持っているみたいですよ? 少なくとも魔鏡を使ってますからね、っと、そうそう、ここ覚えてますか? ヒカリ」
「もちろん」
通路の左側の、何もないバスケットコートぐらいの平坦な空間があり、ヒカリはその中央部分で倒れていた。
レーヴェンドルフが目を凝らしたところで視力では見えないのだが、ヒカリがこの世界にきた転移魔法陣が仕掛けられていることを知っているので、学者の血は騒ぐ。
「ソレイユ家の当主を招いて行う収穫祭は奥の祭壇に強いお酒をお供えするんだけど、今日はここで。ここの中央ね、ヒカリが倒れていたところが、ちょうどお父さんの眠っている棺の上。そのすぐ左側にギンガ母さんの眠っている棺が収められていて、お父さんの右側にはディアッカ母さんが眠ってる。何もなくてガッカリしましたか? でもこの中には足を踏み入れちゃダメですよ。また何かの拍子で転移魔法陣が起動したら、次こそ予想もできないことになっちゃいますから」
「ここ? ここの土の下にギンガは眠っているのか?」
「はい、何もなくて驚きましたか?」
「あ……、ああ。もっと立派な墓標があるものだとばかり……」
「この聖域と、聖域の森が墓標です。ですからいま私たちがいる、この場所こそが墓所になってます。あまり立派なものを作ろうとしたら王国と面と向かって戦争になっちゃいますからね、ルーメン教会は伝承の女神アスタロッテを信仰していることにして、熱狂的な国民の後押しもあり、ハーメルン王国の国教になりました。ディアッカ母さんを女神アスタロッテの生まれ変わりだと信じる人が多かったので助かったのも事実です。でもその実、ルーメン教会設立当初の目的はこの聖域を守ることでした。そのあと、焚書から書物を守ったり、私たちベッケンバウアーの血縁者を王国の暗殺者から守るという目的も加わったんですけどね」
そういうとアンドロメダは話を中断し、片膝をついて、何もない土の地面に向かって祈りを捧げた。
レーヴェンドルフもアンドロメダに倣い、片膝をついた。ヒカリだけは俯いたまま、手を合わせるという祈りの手法を見せたが、これは生まれ故郷の作法だという。シリウスはそこにギンガが眠っているなどと言われても到底信じられるわけもなく、ただ立ち尽くした。
パトリシアは瞑目し、このかび臭い澱んだ空気から、少しでもディムの気配のようなものを感じ取れないかと、懸命に気配察知スキルを働かせたが、それは徒労に終わった。パトリシアはここに来れば何か、ディムを感じることができるのではないかと、淡い期待をしていたが、1000年の時はそれを許さなかった。
どれぐらい時間が経ったろうか。長時間というほどのことはないが、家族の死を悼み、祈りを捧げているには少し長すぎるぐらいの時間が経過した。恐らくは気が済むまで祈りを捧げたのだと思う。
音もなく、声もなく立ち上がり、地面についた片膝をパタパタと払う音を合図に、パトリシアも気が済んだのだろう、ディムを感じることができず、すこし残念そうに、ゆっくりと瞼を開いた。
「祈りは済みましたか?」
「あ、ああ。ギンガを過去に送った時空転移魔法を解読したのは私だ。ギンガが過去に時空転移したことは重々理解しているつもりだ。1000年前に飛ばしてしまったのだ、もう人生を全うしていることぐらい理屈ではわかってるんだ。そう、理屈では。だが私の中でまだ信じたくないという気持ちがあって、理屈ではわかっているはずの私とせめぎ合っている。自分の気持ちの整理がつかないのだ、なあヒカリ、お前もそうだろう?」
「ええ、そうね。頭ではわかっているつもりでも、やっぱりね……、信じたくないという気持ちがどこかにあるのよね……」
「ギンガ母さんって愛されてたんですね」
レーヴェンドルフとヒカリは「当たり前だ」と胸を張ってみせた。
そんな二人を見て、アンドロメダは嬉しそうに微笑んだ。
「ではこのまま後ろを見てください」
祭壇に向かう通路は円形の建物の中央を二分する形で通っており、アンドロメダが指示したのは右側の区画だった。夜目の利かないパトリシアには何があるのかよく見えなかったが、そこに何かあるのではないかと思って気配を探ってみるとようやくわかる程度、稀薄ではあったが何やら魔力を感じた。
それも先ほど森の中で見つけた、魔鏡といわれる魔導器にとても良く似た気配だ。しかし誰かに見られているような感じはしない。
いま魔導器が魔力を放出し始めた。アンドロメダが何らかの魔法を起動したのだ。
パッと明るくなった。
レーヴェンドルフやパトリシアには壁に何か光の窓が開いたように見えた。
映像だ。
壁に映し出された映像はカラーだったが色彩はかなり薄く、色の情報がほとんど失われている。
ヒカリにとって、これはとても懐かしいもので、日本では映写機と呼ばれているものだ。
スクリーンではなく白い壁に直接投影されている。
音声はない。動きは少しカクカクしていたが、場所はそこそこ広い室内。木造の柱に漆喰の壁、建築様式はずいぶんとレトロだった。大人から子供まで合わせると15、6人ほどが集まっていて、中央の三人掛けのソファー、中央に座っている男性にパトリシアは目を奪われた。年の頃は40歳ぐらい、ひげを蓄えていたがすぐに分かった。
ディミトリ・ベッケンバウアーその人だ。
パトリシアがまだ駆け出しの探索者だったころ、一緒に森を歩いたときのままの、優しい目をしていた。
右側の女性との間に割り込んだ若い女がディミトリ・ベッケンバウアーの首に手をまわした。割り込まれたほうの女性は苦笑いを浮かべながらお尻をつねった。3人掛けのソファーに大人が4人も座るとぎゅうぎゅう詰めだ。
割り込んでディムにべたべたしたのがアンドロメダだ。ディムの隣を死守すべく、母親と小競り合いをしている。驚くべきことに、おしとやかな貴族の令嬢の着るようなフレアスカートの女性らしい服を着ているが、外見上、今とほぼ同じ容姿をしている。
そしてアンドロメダに割り込まれたのがギンガだ。ちょっとトシはいってるが家族には一目みただけでギンガと分かった、若いころの体型を維持している。いい年の取り方だ。
レーヴェンドルフは成長したギンガの姿に目を奪われていた。こんな魔法装置を見せられて、いつもならどういう仕組みになっているのか、これは自分の家でも見られるのか? いつものレーヴェンドルフなら質問攻めにしているところだが、突然現れたギンガの姿に絶句していた。
映像の中に出てきた人たちは大笑いしはじめた。歯を出さないよう口を押えて笑っている者もいれば、手を叩いて大笑いしている者もいる。いい服を着てはいるが、あれはディアッカ(エルネッタ)だ。
どうやら撮影者が何かウケるようなことをしたようだが、フレームの外だったので、映像には記録されていない。しかし、暖かい空気は十分に伝わった。
爆笑シーンから数秒遅れて画面手前から奥に向かって走る男性がいた。魔導器を操作していた男だ。
男はソファーの後ろ、整列する大勢の中にはいって中央に割り行った。
立ち位置はディムとその左側に座っている凛とした涼しい目の女性、ディアッカ(エルネッタ)の間で、二人の肩に手を添えた。
それから数秒の間、整列したまま動きはなく、壁に投影された映像は緩やかに暗くなっていった。




