聖域(1)
がっくりと肩を落とし、途方に暮れようとするコンスタンティンの上着のくたびれた襟元がパトリシアの目に留まった。それを見てなんだか気の毒に見えたのも確かだ。どっちにせよアンドロメダのペースについていけるわけがないのに。
「コンちゃんホント大変なんですね、助けてあげましょうか?」
「おおっ、本当ですか? お願いします! ぜひ、お願いします!」
「いえいえ、コンちゃんにもホントいろんなこと手伝ってもらいましたから。ひとつ恩返ししておきますね、さっき通ってきた森の入り口あたりにひとつ。ヒカリたちが別れて行った方の森の外れにひとつ、あと北の方角にもひとつあるようですよ。近くまで行けばきっとシリウスが見つけてくれると思いますけど」
シリウスは目を見張った。
「すごいねパトリシア。ぼくすぐ近くじゃないと見えないのに。なぜそんなことがわかるの?」
「今ので魔法が起動している気配は覚えましたから!……っていえばカッコいいのかなあ。本当は木々が教えてくれる? といったほうが近いかも」
「森の木の言葉がわかるの?」
「わかんない……。でもね、植物は常にサインを出しているのよ、せっかく出した葉っぱが虫に食べられたとか、大切な枝が折れてしまったとか。森は生きているの。その声を聴くことはできなくてもね」
植物が生きているということはこの世界でも常識なのだが、さすがにシリウスもパトリシアの言ったように、常に何らかのサインを出しているなど考えたこともなかった。
「パトリシアは森の声が聞こえるの? すごいよ」
「そんな大層なものではありませんよ。そもそも私には魔法なんて見えませんからね、魔法が見えるシリウスがすごいですっ。あと、私が分かるのは森の中だけですからね、農地や集落のほうはサッパリなので手も足も出ません。なので片手落ちになるかもしれませんけど?」
直径1キロ程度の小さな森とはいえ、たったいま魔導大学院のトレヴァス学長と鏡越しに対面したところだ。こっちで魔鏡を発見したことは当然あちらさんも知っているし、こちらが次に打つ手、つまりほかに魔鏡がないか大捜索するということも、簡単に予想できる。つまり、相手はほかに仕掛けた魔鏡が見つからないように何らかの策を講じると考えて行動すべきだし、そうなるとコンスタンティンが単独で探知魔法をかけながら森の中を練り歩いていたのでは後手に回る。
パトリシアは何となく『あの辺がおかしい』と分かるチート能力の持ち主だし、シリウスはパトリシアの指した『あの辺』を目で見ることで魔法の起動を見分けるという、こっちも相当なチート能力の持ち主だ。
とはいえ、アンドロメダの叔父にあたる人だというのだからどんなチートを持っていようが驚くほどのものではないのだが…、とにかくコンスタンティンにとってこの二人は救世主といって過言ではなかった。
「聖域の森に魔鏡を仕掛けるなど許せませんな! わかりました、パトリシアさん! 今すぐ探しに行きましょう。シリウスくんも、その目でしかと発見してください。私が責任をもって、しかと! 魔鏡は安全に取り除きましょう!」
「私はかまいませんよ? シリウスもいい?」
「いく!」
「ありがとうパトリシアさん、あなたは私の女神です! 結婚してください」
「それはイヤです」
秒殺で振られたコンスタンティンだったが、へこたれないのが彼の素晴らしいところ。
『結婚してください』のくだりを聞いたシリウスが少々イラっとした程度だった。
その後、パトリシアはシリウスの力を借りて魔鏡捜索に手を貸すことになった。
なんとも意地の悪いことに聖域の森に仕掛けられた魔鏡のことごとくが高い位置にあったせいで、シリウスが見つけるたび、哀れなコンスタンティンはアンドロメダの手によって力いっぱい真上に向けて投げられるという憂き目に遭った。そっちのほうが早いのだから仕方がない。
シリウスは最初の1回目、意地悪をするつもりで魔鏡が仕掛けられた枝よりもさらに上の枝を指定し、コンスタンティンが遥か上空まで打ち上げられる様をみたことにより、図らずも大人が仕事をする大変さを知ることとなった。さすがに同情を禁じえず、以後はコンスタンティンに対する認識を改め、意地悪をすることもなかった。
森の中にあった残り3基の魔鏡を処理するのに数時間かかったが、3基ともすでに接続は切られていて、こちら側から相手を覗き込むことはできなかった。
森に入るときに履く、探索者用の革靴ではなく、街歩き用の靴が泥だらけになってしまったパトリシアだったが、さすがに森を歩くのは慣れているようで足が痛くなることもなく、森に仕掛けられたすべての魔鏡を回収することに成功した。
回収作業そのものには、そう時間はかからなかったが、森の中を歩いて移動する時間が長く、作業が終わるまでには、やはりそれなりに時間がかかった。
パトリシアが木漏れ日の向こう側、空を見上げている。
「そろそろ戻ったほうがいいわね、暗くなるわ」
当然シリウスは夜の森でもよく目が見えるので、
「ぼくは大丈夫だよ」
もちろんあのディミトリ・ベッケンバウアーの娘であり、銀河から勇者のスキル『見通す目』を受け継いだアンドロメダも、
「私も大丈夫だし、パトリシアも大丈夫でしょ?」
「目は見えませんけど、躓くことはないですね」
「じゃあ急がなくても大丈夫ですね」
……。
……。
この4人の中で、夜の森を明かりなしで歩くスキルを持ってないのはコンスタンティンだけ。
とはいえ、こう見えてソレイユ家の男だ、戦闘になればそれなり以上に戦うだけの能力を持ってはいるが、夜目が利くとか、そういった特殊技能は持ち合わせていない。
「早く図書館に戻りましょう、フィクサ・ソレイユどのがきっと首を長くしてお待ちですよきっと!」
などと言って早く戻ろうとしたところで、レーヴェンドルフが図書館で歴史書を読んでいるという事実だけで、時間の感覚なんて失くしてしまっている事ぐらいシリウスもアンドロメダも知っている。
どうせ図書館に戻ったところで、熱中するレーヴェンドルフから本を取り上げるのに時間がかかることは火を見るより明らかなことだ。
というわけで4人は特に急ぐことなく、アンドロメダのガイドのもと、聖域の森の遊歩道を散策しながら歩き、ツタに浸食され、半ば緑のモンスターに飲み込まれてしまいそうな古い木造の建造物のところまできた。ここが図書館だ。
湿度の高い森の中に図書館を作るなど、所蔵される本にとっては最悪の環境なのだが、どういうわけかこの建物にもいたみが見られない。だいたい2、30年もすると材木は朽ちるし虫も食う。そういった衰えを微塵も感じさせない。ただ、建築様式は相当に古い、それだけはパトリシアにも分かった。
アンドロメダが言うに「この世界の真の歴史を記録している唯一の場所」とのことだ。
この人工建造物が森に受け入れられ、同化していることが分かる。そんな場所が聖域の森に守られていることに、パトリシアは
奇妙な親近感を覚えた。
アンドロメダがドアノブに手をかけ、グイっと引くと蝶番が『キュイッ』と鳴いて軽く開いた。
空が燃え上がる時間帯なので、図書館の中は当然明かりが灯っていると思いきや、一歩足を踏み入れると、ほぼ闇の世界だった。
「気を付けてね、貴重な書物ばかりだからさ、火気厳禁なのよね」
夜目の利くアンドロメダの言い分がこれだった。
パトリシア的にはだいたい予想の範疇だったのだけど、いくら森に入って隠しスキル『レンジャー』が発動しているとはいえ、こんなにも空気の澱んだ人工建造物の中では足元に何があるのかすらわからない。
隠しスキル『レンジャー』は、パトリシアにレーダーのような効果をもたらすことから森の中でありさえすれば気配探知もアンドロメダ以上の精度で小動物まで探知するが、室内の空気が森から隔絶された密閉空間だと一気に精度が下がる。
パトリシアが歩くのに自信を失ったことを察したのか、シリウスは何も言わずパトリシアの手をとった。
コンスタンティンは室内の構造を完璧に覚えているので目が見えなくても歩くのに躊躇いはない。
レーヴェンドルフとヒカリのいる部屋は、エントランスから廊下を直進した最奥の部屋だ。
奥に行くほど闇が深くなってゆく。
シリウスの引く手が止まった。ノックの音がした。厚手の扉なのだろう、いかにも重厚な音が廊下を反響する。
中の返事を待たずに扉を開くと、暗闇に慣れた目に光が飛び込んできた。
本にかじりつくようにドアの開いたほうを見ようともしないレーヴェンドルフの手元を照らすように、灯火の魔法が部屋の中心に浮かんでいる。パトリシアは初めて見たが、これが灯火の魔法なのだろう。事故が起こらないように火を用いない灯火で触っても熱くない。
みたところここは図書館というよりも書庫だ。明りとりの天窓もなければ、燭台も用意されてはいない。
真昼間の明る時間帯であっても室内は相当に暗かったはずだ。
ヒカリはずっとこの明かりを灯しつつレーヴェンドルフに寄り添い、歴史書の解読に付き合っている。
「はあ、このひとずっとこの調子なのよね、シリウス、秘密基地はどうだった?」
「よくわかんないけど、すごかったよ。歴史書にはお姉ちゃんのこと書いてあったの?」
レーヴェンドルフはようやく顔を上げた。
「シリウス、この歴史書はすごいぞ。ギンガ・ベッケンバウアーの名が守護の女神として記されている。まるで英雄譚だ。ギンガとベッケンバウアーさんが全世界を巻き込んだ戦争をいかに戦い、いかにこの小さな国を守り、いかにして勝ち抜いたか、詳細に記されている。まるっきり時間が足りない、ここに住み込みで解読したいぐらいだ」
「ダメです。ヒカリも同行するなら完治するまで許可できません」
間髪容れず、すぐさまダメ出しをしたのは当然パトリシアだ。
ヒカリの病状はよくなっているとはいえ、ようやく外出できる程度に回復したに過ぎない。
パトリシアは医師ではないが、ちょっと動けるようになったからといって、完治してないのに出歩かれちゃ困る。
「パトリシアさん、ヒカリは大丈夫なんだろう? 明日にはもっと良くなるって言ってたじゃないか」
「私は必ず直すと約束しましたからね、このあと聖域ってところにいって、お墓参りするんでしょ? そしたら馬車に乗って帰って、お食事をとって、薬を飲まなきゃです」
宝の山に囲まれて興奮気味のレーヴェンドルフを諫め、みんな揃ってこれから聖域へと向かうこととなった。真っ暗闇の森を見通せないレーヴェンドルフが同行するので、ヒカリはライトの魔法をそのまま、入口の小部屋に控えていた聖ジャニス・ネヴィルもライトの魔法で道を照らす役目という、ただそれだけのことで呼ばれた。次期大賢者の第一候補と言われているジャニスをランタン替わりに使うなど贅沢この上ないのだが、アンドロメダにかかれば寝小便たれのジャニスだ、その扱いはコンスタンティンと大差あるものではない。
一行が図書館を出たとき、夕焼けの空は鳴りを潜め、藍色の抜けるような星空が出ていた。
ライトの魔法が周囲を照らし出す。直視すると暗い部分がまるっきり見えなくなるほど強い光が、足元どころか夜道を明るく遠くまで見渡すことができた。
足元が見えるのに、シリウスはパトリシアの手を取った。
触れた手は暖かかった。パトリシアがシリウスの顔を見ると、昼間よりずっと精悍で大人びた雰囲気だった。これほどまでに変わるものかと思った。
そんなシリウスを見ていたのはパトリシアだけではない。アンドロメダも気が付いた。
普段はぼうっとしていて、ソレイユ家は弟のアルタイルのほうに期待を寄せているというが、そのシリウスの夜の姿に目を見張った。鑑定眼では見えないこの少年のアビリティが、まるで手に取るように分かったのだ。
アンドロメダはかすかに鼻に抜ける、この懐かしい雰囲気から、次々と優しい思い出が頭をよぎった。
気配が闇に溶かし夜と同化する13歳の少年に父の面影をみた。そしてディミトリ・ベッケンバウアーの再来ではないかと、期待に胸を躍らせた。
ヒカリもまた病に臥せっていたせいで夜のシリウスを知らなかったが、否が応でも知ることとなる。
シリウスもアンドロメダと同じ、夜の世界の住人だということを。
レーヴェンドルフは気配を感じることもできないし、感知系のスキルを持ってもいない、優秀な考古学者であること以外、ごく普通の父親だ。ギンガの父として娘の眠っている墓を実際に自分の目で見て確かめたいと思っていた。特に何をどうこうできるとは考えてはいないが、とにかくギンガがそこに眠っているというのなら、父親として行くのが務めだ。
真っ暗な森の小道は整備されていてとても歩きやすかったが、遠くのほうに小さな明かりが見えてくるとレーヴェンドルフは知らぬ間に早足になっていて、ヒカリたちを引き離していた。
「ねえあなた、小走りになってるわよ、足元に気を付けて」
「ああ、すまんヒカリ。だけどなあ、私たちはこれからギンガの墓に行くんだろう? なんで正気でいられるんだ? あそこにいると思うと気が変になりそうだ」
そういってレーヴェンドルフは足を緩めることなく、小走りで聖域の篝火に向かっていった。
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