ディミトリ・ベッケンバウアーという男(3)
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シリウスと星空の下で長話をしたあと、パトリシアは用意されていた部屋に戻ると長旅で疲れていたのか、ベッドに潜り込むとまるで子どものようにストンと眠りに落ちてしまった。
パトリシアに関しては枕が変わると眠れないとか、そういった神経質なところは欠片もない図太い神経を持っていたおかげで、睡眠不足に陥ると言ったようなことはない。
生まれて初めて貴族の屋敷に招かれ、ふかふかのベッドで眠ったパトリシアは、その夜、新緑の森の木漏れ日の下をディムと散歩するという、心の安らぐ、とてもいい夢を見た。
寝つきはよかったのだが、気を張っていたのだろうか、目が覚めたのは日の出の前、徐々に空が白んでくる時間帯だった。
パトリシアは二度寝することなくシャキッと目を覚ました。ベッドから起き出し、顔が縮み上がるような冷たい水で顔を洗うと、まずは朝食に出すパンをこねている厨房に顔を出した。
そこでパトリシアは厨房を取り仕切る料理担当の使用人に深々と頭を下げた。ヒカリに出す食事の献立に口を出したり、手を加えたりすることに許可をもらうためだ。
貴族の屋敷で厨房を任される料理人は、そんじょそこらのレストランよりも腕が良く、栄養価の高いものを出しているというプライドが高いため、最初は話も聞いてもらえなかったが、それでも、それでもと食い下がるうち、朝いちばんのパンをこねている時間帯、つまり朝日が昇る前のまだ暗い時間帯に厨房に来て献立などの相談をするのならば、食材やレシピにまで口を出していいとの約束を取り付けた。ただし、調理の作業に口を出さないこと、そして料理人が献立を決めて下準備を始めてしまったらもう変更はできないことも、くれぐれも念を押された。
もっとも料理長はパトリシアが毎日、毎食、厨房に来て細かい指示を出すなんてこと、数日は続いたとしても、長くは続かないだろうと高をくくっていたせいなのだが、この屋敷の主であるレーヴェンドルフから、大切なお客人で、薬学に関してはこの若さでこの国随一だと聞かされていたので、それなりの敬意を払った結果なのだろう。
パトリシアが予め用意してあった朝食レシピは普段の食事とは大きく異なり、ミートボールと野菜で煮込んだ具だくさんのスープを潰してペースト状の流動食を作った。これまでスープのようなものしか喉を通らなかったというなら、こうでもしてカロリーを摂取しなければ身体が持たない。
あと、新鮮な柑橘系フルーツがゴロンとまるごと1つ。これは王国東部の平民の間に広く普及している風習で、とにかく体調を崩したら柑橘系のフルーツを食べるのがいいとされているからだ。このままで食べられないのなら、目の前で絞ってジュースにしてやればいいだけの話だ。
ひとりだけ別メニューとなると料理人の負担が跳ねあがるが、明日の朝食からレシピを作る食材は何が必要なのかということも指示することにより、料理人たちの負担を軽減した。そしてパトリシアが栄養士を務めた朝食はヒカリ専用となり、他の家族と同じものは出せなくなった。
パトリシアは料理人に今ある食材で朝食メニューを指示したあと、ヒカリの容態を見に行った。
小さくノックして寝室に入ると、ヒカリはもう目を覚ましていて、抗生物質の効果があったのか、昨日見た時よりも目に力を感じた。
「おはようございます。体調はどうですか?」
「おはよう。びっくりするほどいいわ。もしかすると治るかも? って思うほどよ?」
声にも張りがあって掠れてもいない。勇者というものの回復力を目の当たりにしたパトリシアは素直に驚いて見せた。
そしてベッドサイドにスリッパがあることに目をつけた。
「どこかに行かれたのですか?」
「起き上がることができたんだもの、おトイレぐらい自分で行きたいわよ」
「子どもじゃあるまいし、もうちょっと大人しくしていただけると助かるのですけれど?」
「はい、分かりました。何でも言うことを聞きます。私もうパトリシアさんの信者になってしまいそうなんだけど」
パトリシアは片方の手でヒカリの脈をとり、もう片方の手を額に合わせ、熱の具合を調べている。
昨日よりずいぶん回復していることに驚きは隠せないが、これは嬉しい誤算だった。
「私は信者なんて要りませんよ、脈は昨日よりゆっくりですね、熱はまだあるので起きて動き回らないようにしてくださいね」
「はい。命の恩人にはどんなお礼をすればいいのか、レーヴェンといっしょに考えないとね」
「そんな事は治ってから考えてください、私的には王都を観光したいですから、ヒカリさん、案内してくださいね」
そう言うと、パトリシアは朝日が差し込むのを防いでるカーテンをシャシャッと開け、少し窓をあけて換気がてら、冷たい空気を取り入れた。
「欲のない子ね」
「うふふっ、うちは弟たちを学校に行かせることができてますからね。稼ぎは十分足りていますよ、はいっ、今日からヒカリさん、あなたの食事は私が取り仕切ることになりました。体力なくて内臓にもダメージ受けてるからといってスープだけじゃ栄養が足りません。しばらくは専用の病人食を食べていただきますからね」
パトリシアの話を聞いていたのだろうか、タイミングよくノックの音がして使用人が食事を運んできた。
「失礼します、朝食のお時間です」
寝室兼病室に入ってきた使用人はヒカリの顔色をみると一瞬驚いたような表情を見せ、いつものように食事介護しょうと料理の乗ったワゴンをベッドサイドに横付けした。しかしヒカリは食事の介護を断った。
「ありがとね、でも今日は自分で食事できるから、水差しの水だけ換えといてください」
「は、はい。かしこまりました」
使用人はテキパキとスプーンとフォークの準備をしたあと、言われた通り水差しを持って退室した。
「見た? あの顔……。すっごい驚いた顔してたわね、昨日まで今にも死にそうな顔してたのかな、私」
言いながらも、巨大なオレンジが丸のまま乗っかってきたワゴンに目を奪われるヒカリ。
「こ、これはまた豪快な病人食ね……」
「酸っぱいのがイイんですよ、ジュースにするつもりで持ってきたんですけど、なんでしたらこのまま丸かじりしてもいいと思います」
「丸かじりは無理だから、中身をスプーンで掬っていただくとするわ」
ヒカリは食事をとりながら、酸っぱいのに悶絶し、しかめっ面を隠そうともせず、雑談の延長であったが、ひとつ気になっていたことを問うた。
「すっぱ――い。涙出そう……。ところでパトリシアさん、ゆうべシリウスと何を話してたの?」
「あら? お見通しでしたか……」
「見えてないわよ、あなたとシリウスの気配がずっとバルコニーにあったから……」
「話してたらなんだか意気統合しちゃいまして……、私たち友達になりましたっ」
「シリウスと友達? 信じられないわ。あんなに長話をしたの? 本当に? シリウスってものすっごく人見知りが激しくて、親戚やイトコたちとも打ち解けたりしないのだけど……どんな魔法を使ったの? あの子ちょっと難しい年齢に差し掛かってるからコツがあったら教えてほしいのだけど」
「コツなんてないですよ。ただシリウスは頭のいい子なので、子どもだと思って適当なことを言うと見透かされてしまいますね。ところで、ゆうべの話でディムさんがギンガさんと結婚して外国に行ったって聞いたのですけれど、ちょっと詳しく教えていただけませんか? 特に結婚というくだり、気になります」
「はあっ……思い出したわ。そういえば銀河も反抗期だったわ。だいたい詳しくも何も、話はそれで終わり。ギンガは私に反発してセイヤにくっついて行っちゃっいました。家出同然よね、ほんとあの不良娘……」
「なんですかそれ! 駆け落ちじゃないですか! だいたいディムさんとギンガさんって、知り合ってどれぐらいなんですか? 出会ってからそんなに時間たってませんよね。一目惚れ即結婚ですか! こちらのお宅ではそんな猫の子をやるぐらいの感覚で娘さんを嫁に出すんですか! くーっ、腹立ちます」
ヒカリはひとりで勝手に不機嫌になって地団駄を踏むパトリシアを見て、なんだか愉快な気持ちになった。身体全体で怒っている姿が、可愛らしく見えたのだ。
ふくれっ面でイライラオーラ全開のパトリシアを横目に、ヒカリは知らない間に微笑んでいた。
「何がおかしいんですか!」
「んー? 何もおかしくはないですよ。あなた可愛いし……」
「茶化さないでください! はいこれクスリです、朝の分ですからね、もっと苦く作ればよかったです!」
などと話しながらカチカチと乳鉢を鳴らしながら粉に挽いた抗生物質を紙に包んで手渡した。パトリシアの方もヒカリの容態が徐々に快方に向かっていると手ごたえを感じている。
昨日はちょっと話しただけで声がかすれ、疲れて話せなくなったのに、昼と夜の投薬から一晩寝ただけで微笑みが出るほど回復している。多少だが体力も戻りつつある。
昨日まで死にかけていたとは思えない。
「うわぁっ……、これでも十分苦いんですけど……」
「じゃあ苦いついでに、もうひとつ、苦い話をしますけど、いいですか?」
「甘い話じゃないのね、苦い話はあんまり好きじゃないのだけれど……」
「シリウスのことです」
「シリウスのこと? 分かりました。ぜひ聞かせてください」
「シリウスは、ヒカリさんと、お父さんのレーヴェンドルフさんに、お姉ちゃんはディミトリ・ベッケンバウアーと結婚して、外国に行ってしまったと聞いたそうです」
「はい、うまく説明できればよかったのですけれどね……、私にも半信半疑だったし、まさか本当にギンガが私たちよりもセイヤを選んでくっついていくとは思わなかったし、その、知ってると思うけど、セイヤってほら、アレでしょ……」
「アサシンですね」
「そうなのよね、シリウスがもうちょっと大人になって、15で成人したら本当のことを明かそうと思ってたのだけど、私自身、シリウスが15になるまで生きられないと思ってたしね……」
「シリウスは知ってますよ。ディムさんがアサシンだってこと」
「話したの!?」
「いいえ、私じゃなくて学校の友達の中に、実はディムさんとの戦闘で家族を亡くした人が居て、その友達がラールの街を襲撃してきた兵隊さんの生き残りから聞いたらしいですね。アサシンの名前はディミトリ・ベッケンバウアーだってこと。隠しきれてないんですよね、だからシリウスは学校も行かないんだって」
「ええっ……本当に? そ、そうでしたか、シリウスはもう知ってたのね……」
「そうですよ。だからシリウスはゆうべまで、もしかするとお姉さんのギンガさんがアサシンとの戦闘で、本当は死んでしまったのかもしれないと思ってましたし……。もちろんそれはないって言っておきましたけど、これはもうヒカリさんの口からちゃんと説明しないとダメですね」
「……ああっ、そうなのよね、レーヴェンが『ギンガお姉ちゃんが帰ってこないのはおかしい』ってシリウスに問い詰められてたじたじになってね、あの人上手に嘘をつけない性格だからつい『ディミトリ・ベッケンバウアーという外国人と結婚して、いまは外国にいるんだ。その人がシリウスの義理のお兄さんになるんだよ』って言ってたわね。失敗したなあ、ディミトリなんて名前じゃなくてセイヤにしとけばよかったわ。だって子どもの学校から噂が知れるだなんて思わなかった。王国兵には厳重な緘口令が敷かれたのだけど、こうもあっさり破られるのね……」
「厳重な緘口令? 何ですかそれ? ラールの街では子どもでも知ってるのにですか?」
「だよねー、わかった。バレちゃ仕方ないわね、そのうち話すわ……」




