ディミトリ・ベッケンバウアーという男(1)
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「こんな感じなのよ、それでもね、セイヤは約束を守ってくれた。かなり手遅れなぐらい遅かったけどね、諦めずにこの世界に来てくれた。あなたの知ってるセイヤは、私のいた世界から、こっちの世界に転生して生まれてきたディミトリ・ベッケンバウアーなの。どう? あなたの事も聞かせてほしいな。ディミトリとの出会いとか、どんな奴だったとか、なんであんなバカのことを好きになったのかとか」
乳鉢で白い塊を粉末にすり潰す作業の傍ら、パトリシアは笑いが堪えられなくなり、噴き出してしまった。
だってヒカリがセイヤのことを好きになったきっかけがパトリシアとあんまり大差なかったから。
これが笑わずに居られようか、もしかするとあの男は女を危機に陥らせてから寸でのところで助け、心を奪ってゆくプロなのかもしれないとまで思って、それがおかしくてまた笑ってしまった。
「はい、これを飲んでください。食事も私が管理します。薬は毎食後ですからね」
「ええっ? なにそれ、教えない気なの? ずるいわそれ」
「ふふふっ、だって同じだもの。こっちのディムさんは誰にも負けないぐらいべらぼうに強かったんですけどね、狩人がこう、ここ眉間を狙って撃った矢をシュパッ!と手で掴んだりして。助けられた私のほうが開いた口ふさがりませんでしたから」
「あいつええかっこしいなのよね……やっぱり腹立つわ」
「ええかっこしいなのは確かにそうですね、はい、1回目の投薬が終わりました、苦くなかったですか? ディムさんやエルネッタさんたちが今どこでどうしてるのか? 雑談がてらでかまいませんから教えてくださいますか?」
「別に構わないわよ。今ここで聞きますか?」
「はい」
「セイヤは今より1000年前の世界に時空転移してしまったの。この時代にはもう居ないのよ」
パトリシアは首を傾げる素振りをしてみせた。
すこし理解が及ばないようだ。
「ちょっと何言ってるのかよくわからないのですけれど?」
「私もよくわからないの。ルーメン教会に真の歴史書があるらしくてさ、近いうちにこっそり内緒で読ませてもらうって話になってるんだけど、どうせ私はこの世界の文字に明るくないからレーヴェンに読んでもらうしかないのよね」
話をするのにも何度もため息をつくヒカリ。長い話をするのにも疲労感を隠せなくなってきた。
パトリシアは疲労を察し、ヒカリに無理をさせないよう眠るように促した。
「なんだかデタラメすぎて良く分からないです、でもちょっとお疲れみたいですね。時間はたっぷりあるのでまた聞かせてくださいな。今日のところはもう休んでくださいね」
「そうね、あなたの部屋は用意してあるので自由に使ってね、私もセイヤの話が聞きたいわ」
というヒカリがドアのほうを気にし始めた。どうやら誰か来たようだ。
「あ、下の子が帰ってきたみたいだから、お話の続きはまた今度にしましょう」
「はい、そうですね。ガールズトークの時間はおしまいですね」
ノックのあと扉がガチャリと開き、茶髪の男の子が元気よく入ってきたが、ヒカリの寝室に入るとフワリと勢いをなくし、いつの間にやら足音もさせずに、そろりそろりとベッドの脇に立った。
パトリシアはこの少年が、まるで風を連れてきたかのような、強い印象を受けた。
さっき挨拶したシリウスという子は上の子で、たしか13歳。こっちの子は下の子なのだから、年齢も13より下のはずなんだけど……、パトリシアの目にはこっちの子がお兄ちゃんなんじゃないか? と思った。それほどしっかりして見えたし、身体も骨格も兄のシリウスより明らかにガッチリしていて大きく見える。
「母上……、ただいま帰りました」
はつらつとした元気な声だったが、とても優しく響いた。騎士の家系に生まれた子というのは、これほど子供らしからぬ育ち方をするのかと思えるほどだった。
上の子はどこかディムの面影があったと思ったが、下の子とは髪形や顔立ちからしてずいぶん違うように思えた。ラールのギルド酒場で見たソレイユ家の騎士たちに似ている気がするので、たぶん父方のほうに似たのだろう。
男の子はヒカリのことを母上と呼び、帰宅の挨拶を済ませると、すぐさまパトリシアのほうに向きなおって、こんどは踵を鳴らし、拳を左胸に添える敬礼をしてみせた。
騎士のやる敬礼だ。
「こんにちわ、アルタイル・ソレイユです。あなたはパトリシアさんですね、母をよろしくお願いします」
パトリシアは騎士に敬礼されたことがなかったせいか、どう返せばいいか分からず、逆にヘンテコな敬礼の真似事をして「は、はい、こちらこそヨロシクお願いします」などと上ずった声を出してしまった。
年上女性の面目が丸つぶれになってしまい、なんともばつの悪そうな苦い顔をするパトリシアを見て、ヒカリは疲れた顔でくすくすと笑った。
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その日の夜の食事を終え、ヒカリの夜の投薬を済ませたあと、ちょっとだけ雑談したパトリシアは、バルコニーで見た星が綺麗だったという思い出話から、その夜、ヒカリが眠ってから、お風呂をいただき、湯冷めするぐらい外は寒いというのに、バルコニーの星空を見てみたくなり、ちょっとだけ……、外に出てみることにした。
王都ゲイルウィーバーの夜は暗い。
身分の高い者は夜に徒歩で出歩くことをしないので、街を明るくする必要がないのだ。
パトリシアが生まれて育ったラールの街は街灯がついていて夜はここよりもずいぶん明るかったが、明るいからこそ夜、外を出歩いたことはない。ただ一度だけ、森で狩人に襲われたのをディムに助けてもらったとき、夜遅くまで、真っ暗闇の森を、ランタンひとつつけて、抱き上げられたこと、触れた手が温かかったこと、ディムの顔が近くなって、もう何も考えられないほどドキドキしたこと……、そして家に帰ったらお母さんに思いっきり泣かれたことを思い出した。
パトリシアは、灯りがない方が、夜は遠くまで見渡せることを、いま初めて知った。
バルコニーに出て空を見上げると、しばらくは星もまばらだけど、やがて目が慣れてくるにつれ、まるで星が降るような満天の星空の下にいることに嫌でも気づく。
ぱあっと広がる星々に目を輝かせ、大きく腕を広げて目に入ってくる光の全てをぎゅーっと抱きしめる。
夜はこんなにも綺麗なんだ……、と感動に身を震わせるパトリシアの視界の端っこ、目が慣れると屋根の上に何か? 違和感を感じた。
ハッと息をのむ。
それは闇に溶けるようでありながら、そこに存在しているのか、いないのか、とてもあやふやなものに見えた。パトリシアが目を凝らして凝視すると、『それ』はこっちを見ているようで、チラッと目が合ったように感じただけなのかもしれない。
だが『それ』は例えて言うならば、少年のように見えた。
屋根の上の、一番はじっこに、ポケットに手を入れたまま、平均台のように狭い足場をものともせず、届かない空の、星々を見つめていて、それは極めて頼りなく、存在感の薄いものだったが、その出で立ち、醸し出す雰囲気も……、パトリシアの遠い追憶の中にいるディミトリ・ベッケンバウアーの姿とダブって見えた。
少年の姿を見つけたあと、パトリシアは目を奪われてしまった。
絶句して声も出ない、まるで夢を見て金縛りにあってしまったかのように、ディムとの思い出がフラッシュバックしていた。
しかし瞬きをした刹那、少年の姿を見失った。
「えっ?」
見間違いなどするはずがない、今確かに見た、少年が屋根の上に立っていて、空を見上げていた。
しかし瞬きほどの一瞬、目を話しただけでもう見失ってしまった。
次の瞬間、パトリシアの脇をすれ違い、バルコニーから屋敷に繋がる階段を降りようとする少年がいた。
驚いたなんてもんじゃなかった。
別に真っ暗闇の中、屋根に上っていたり、足音もさせず、姿も見えないよう接近を許してしまったなんてこと、パトリシアにとっては、いまさら驚くほどの事じゃない。何に驚いたかって、それはもう、この少年の夜の姿が、あのディミトリ・ベッケンバウアーを見間違うほどよく似ていたからだ。
パトリシアもたった今、理解した。
少年はこの家の長男で、勇者ヒカリの子、シリウス。昼にちょっと会ったときとはずいぶん印象が違って見えた。これもパトリシアにしてみれば初めての経験じゃない、なぜか? 何度でも言うが、あの、ディミトリ・ベッケンバウアーと同じ、夜型のアビリティを持っていることは、疑う余地すらない。
ヒカリは否定したが、やはりおかしい。
少年シリウスは、やっぱりディミトリ・ベッケンバウアーの血を引いているように思えた。
刹那、すれ違いざま、この奇跡のような出会いを無駄にしたくないと思ったのか、反射的にパトリシアの口をついてい出た言葉……。
「こんばんわ、いい夜ですね」
奇しくも夜の美しさに魅入られたディムがよく言うセリフだった。
夜の帳もおりて冷たく澄み渡った空気のなか、屋根のてっぺんで星空を見上げる少年を見ただけで、パトリシアは親近感を覚えたのだ。
パトリシアの思い人とは別人であることは確かなのだが、それでも、まるでディムがそばにいるかのような、この空気感は筆舌に尽くしがたく、居心地の良いものだった。
パトリシア自身、もう一度でいいから会いたかった感覚だった。
すれ違ったあと、声を掛けられ、シリウスは階段を降りる手前で立ち止まった。
シャワーのように降り注ぐ星の光を浴びていたが、これは母だけが知っている秘密だった。
それも「誰にも見つからないようにね」とくれぐれも念を押されていたので、今夜はまだ覚えたての視覚誤認スキルを使い、やり過ごそうとしたのに、あろうことか声を掛けられた。
それも『こんばんわ、いい夜ですね』などと言われた。
邪魔が入るまで、ひとりで気持ちのいい風を浴びながら屋根のてっぺんに立って、視界いっぱいに広がる海のような星空を見上げ『いい夜だなあ……』と思っていたのだから、この女にアビリティを覗かれたのかと内心では焦っているところだ。
そんな、小さくて痩せた少年を横目で観察しながら、パトリシアは続けた。
「夜は美しいですか?」
シリウスは少し驚いて肩越しに振り返り、応えた。
「うん、すっごく綺麗だよ」
たったこれだけのことで、二人はすぐに打ち解け、バルコニーの手すりにもたれたりしながら話しはじめた。シリウスは夜がどれほど美しいのかを語り、ひとは昼に眠って、夜に活動したほうがいいと熱弁を振るった。
パトリシアはディムと同じようなことを言い出したシリウスの話を聞くのがとても心地よく、湯冷めするのも、時間のたつのも忘れて話を聞いた。何百回頷いたか分からないほど「うんうん、そうね」と首を縦に振り続けた。
しばらく話すと、話題の途切れた時、いくばくかの沈黙を経て、シリウスは奥歯に何か挟まったように、遠回しぎみに話を振ってきた。
「ぼくがこんな話をしたって誰にも言わないでくれる?」
「ええ、秘密の話ね。わかったわ。約束する」
シリウスは13歳……。
13歳と言えば、パトリシアが森でディムと初めて出会ったトシだ。きっと何か学校の女子がどだとか、恋バナのよう相談をされるのだと思って安請け合いをしたのだが……、シリウス少年の口から出てきたのは、そんな軽い話じゃなかった。
「お姉ちゃんさ、ディミトリ・ベッケンバウアーってひと、知ってるって言ったよね?」
パトリシアはそんな事、この子の前で言った覚えはないので、どうやらヒカリとの会話を盗み聞きされたらしい。本来ならば勇者ヒカリの目を盗んで盗み聞きするだなんて、そのスキルのほうを疑う場面だが、パトリシアはこの少年のアビリティとスキルにディミトリ・ベッケンバウアーを幻視したところだ。何があっても驚くに値しない。
「うん、知ってるよ」
「どんな人なの?」
ディミトリ・ベッケンバウアー。
パトリシアの初恋の男性であり、この国では恐らくとんでもないお尋ね者になっているはずの人だ。
どんなことを聞かれるのかと思って構えていると、まさかディムのことを聞かれるとは思ってもみなかったパトリシア、ふふふっと失笑が漏れた。
「何がおかしいの?」
「ごめんなさい、ちょっとね……」
夜を迎え、精悍さを増したシリウスの顔を間近に見ながらパトリシアは微笑みを隠せず、どう答えるのがいいか一瞬だけ考えたあと、
「そうね、あなたにすっごく似てるわね」
似ていると言われたシリウスは一瞬たじろぐように驚いてみせた。どう理解すればいいか、13歳の男児にはよくわからないのだろう。パトリシアもその言葉の真意を量り兼ねていたからこそ、ストレートにそう答えたのだ。
だけどパトリシアは答えたあとになって、ひとつ気になることがあった。
なぜこの話をしたことを秘密にしなければいけないのかという事だ。
「でも何で秘密なの? もしかしてディムさんのこと話しちゃいけなかった?」
「しーっ! 違うんだお姉ちゃん。ディミトリってひと、銀河お姉ちゃんと結婚して外国に行ったんだけどさ……絶対だれにも言っちゃダメだからね、いい?」
……っ!
パトリシアは一瞬、そう一瞬だが、ショックで頭が真っ白になってしまった。
目の前が真っ暗になって、頭がクラクラするのを感じながらも、グッと正気を取り戻した。
「……う、うん! 約束したよ、私、口は堅いの。シルバーメダルの冒険者だし」
「マジで! すごい! じゃあ秘密だよ……、あのね……」
シリウスは王都ゲイルウィーバーで起きたアサシン襲撃事件の話をした。
それはラールの冒険者ギルドに流れてきた噂と大差のないレベルだったが、実際に見た者の臨場感も加わっていて、13歳の少年の話にしては真実味のあるものだった。
なかでも、王都の学校ではクラスメイトのお父さんが兵士であることが珍しくなく、アサシンの襲撃で大勢の生徒の家族が死んでしまって大変だったという話は、身につまされる思いだった。
そして王都を襲撃したアサシンは勇者である母親、ヒカリ・カスガ・ソレイユが倒したということも。
それはパトリシアがヒカリ本人から聞いて知っているウソだった。
王都ゲイルウィーバーでも、首都サンドラでもアサシンの正体は悪魔のような獣人だったのではないかと噂されているが、つい先日、クラスメイトのひとりが勇者の息子シリウスに言った。アサシンはオーガ族最強の戦士などではなく、ヒトだったという。
これは単なる噂話ではない。
情報の出どころは、若い男をひとり殺害するよう命令を受け、飛行船に乗って辺境のラールという街に投入された、実際にアサシンと戦って壊滅させられた王国軍の生き残りのひとり、つまりエルネッタのアパートを取り囲んで火をつけた兵士の中に居たということだ。
その生き残りの男が奇しくもアサシンの襲撃で亡くなったクラスメイトの父親と同期の戦友であり、墓に花を手向けるため家を訪れた。
生き残りの兵士は、自分たちが止めることのできなかったアサシンが王都を襲撃したのだと。
パトリシアはふうっと大きな溜息をついた。
実際にラールの街で国軍の襲撃を受けたのは冒険者ギルドだし、ディムさんたちが暮らしていたアパートなんだから、その戦闘は渦中に居合わせたパトリシアにも当然だけど、ある程度のことは分かっている。
トールギスの雷撃やヴェルザンディの炎魔法により、屈強な男たちが瞬く間に全滅したのを見ていた。
戦闘が始まると、三つ数えるまもなく、一瞬で勝敗が決してしまったほど、結果は圧倒的だった。
ディムの目的が皆殺しではなかったという、ただそれだけの幸運を受けて、トドメを刺されなかった僅かな者たちが生き延びたに過ぎない。
全身大火傷で彼岸を彷徨い、無事ではなかったが生きて帰った者も中にはいたし、もしかすると、いま話に出てきた男は、パトリシアが救助した兵士だったのかもしれない。
「そのお話の続き……、お姉ちゃんが当ててみようか?」
「うん、当ててみて」
「そのアサシンがディミトリ・ベッケンバウアーね」
「……、えっ? なんで? 知ってたの?」
パトリシアはちょっと意地悪にとぼけてみせた。
「知ってる? 何をかな? さっき私に言ったよね? ディミトリ・ベッケンバウアーを知ってるんでしょ? って」
「ディミトリ・ベッケンバウアーがアサシンだってことをだよ! ねえ、知ってるんでしょ? 教えてよ、お父さんもお母さんも、よく知らないって言うんだ。おかしいよね、だってお母さんが倒したアサシンと、銀河お姉ちゃんが結婚した相手が同じ名前なんだ。ぜったいにおかしいよ。誰に聞いても教えてくれなくて、いま外国で暮らしてるって……。ぼくは顔も見たことがないんだよ? いつ結婚する話になったのかも知らないし、何もかもが急だったんだ。絶対なにか隠してる、お父さんも、お母さんも、嘘つきだ……」
13歳の子どもが、すがるような眼で家族への不信感を露わにした。
最初はディムに似た空気を懐かしんだから話が弾んだ、しかしいつの間にか話がおかしな方向に向かっているのは理解しながら、パトリシアも話さないわけにはいかなくなった。




