[レーヴェンドルフ] 勇者に恋した男(4)
遅くなりました。次はこの同じ流れで、アンドロメダが手紙を持ってくる話でも。
こういうことは母親に聞くのが手っ取り早い。朝食を終えて水差しをもち居間に向かおうとする母を捕まえて聞いてみることにした。
ディアッカの母、キサ・レイド・ソレイユは、父アンダーソンに嫁ぐまで、爵位のない商家の令嬢で、学生時代はずっと図書館に籠って本の虫だったという。レーヴェンドルフの話す専門用語の意味が分からず、父アンダーソンがキサを呼んで解説を求めたりすることもあった。
「ねえ母上、涙が涸れるってどういう事?」
「唐突ねディアッカ。それは比喩表現としての話? それとも実際の話?」
「実際の話だと思う、ヒカリはここに来て8年だろ? 少し前まで夜空を見上げて泣いてたのに今は泣かなくなった。それで聞いたんだ、泣かなくなったってことは、ここでの生活も悪く感じなくなったのかなと思って……」
「ふうん……なるほど。そっか、ディアッカにはまだわからないかな?」
「母上! 私をそう子ども扱いにするな」
「本当に? ならついてきなさい」
ディアッカは母について、居間を通り抜け書庫に入った。
母は本棚の奥、右隅の一番下の段に差し込まれている、背表紙が少し黄ばんだ本を引っ張り出すと、バンバンと叩いて埃を払い、ディアッカに手渡した。
「この本を読んでみるといいかな。この本に書かれてある内容が分からないようじゃ、まだまだ子どもだから、その時はまた返しに来るようにね」
ディアッカは少しバカにされたように感じたのか、それなら読んでやろうじゃないのさ! と、少し場違いな気合を入れて、今日は朝から本のページをめくってみたのが運の尽きだった。
本のタイトルは "セメナスの恋" という恋愛を主体とした物語で、主人公のセメナスがヒロインのターナと恋をする男性目線で物語りが進行する女性向け小説だった。
大まかなストーリーはこうだ。
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貧しい町人の息子セメナスは、とても裕福な商人の家に生まれた美しい娘ターナと恋に落ちた。
しかしターナの両親は貧しい町人の子セメナスを受け入れようとせず、条件のいい見合いを薦めるばかりだった。
ターナの両親は、いくら追い返そうともターナとの付き合いを認めてほしいと食い下がるセメナスを諦めさせるため、知恵の回る屋敷の馬番に相談し、一計を案じた。
それは近頃噂になっている、商人の家に押し入って強盗を働く『ドルガム山の盗賊団』がターナの家を狙っているという情報をこっそりセメナスの耳に入れるのが第一段階。
そして第二段階ではその情報を触れて回ったセメナスが『ドルガム山の盗賊団』から命を狙われるという設定で、この町から出て行ってもらうという作戦だ。
見たこともない怪しげな男たちの会話を小耳に挟み、ターナの家が盗賊団に狙われていると知ったセメナスは、ターナの家に逃げるよう直談判したり、衛兵の詰め所に助けを求めたりしたけれど、誰もセメナスを信じようとしなかった。
あらかじめ衛兵たちにはターナの父親が「ドルガム山の盗賊団が襲ってくるなどという頭のおかしな奴が来ても相手をしないように」と言い含めていたのだ。
次は盗賊団のことを衛兵に告げ口したセメナスが、命を狙われるという手はずだった。
しかし、ドルガム山の盗賊団は、誰かが衛兵の詰め所に駆け込んでも信じてもらえない、この最大のチャンスを逃さず、ターナの屋敷を襲撃するため、武器を持って街に出てきたのだ。
盗賊団は屋敷の馬番とグルだった。
たっぷりお金を儲けているターナの家を安全に襲撃するため、衛兵を遠ざけたのだ。
襲撃の夜、暗闇の街道で盗賊団12人をたった一人で迎え撃つ男が居た。
ひとふりの剣を腰に下げて、盗賊団からターナを守る、ただそれだけを魂に誓って。
結果、盗賊たち2人が倒されたところで、セメナスも後ろから刺された傷が致命傷となり、盗賊団の棟梁と刺し違えて命を落とした。
残った盗賊たちはこの場で戦闘があったことも、盗賊団が関わった事実も隠匿する必要があったので、倒れた盗賊の亡骸も、セメナスの遺体も持ち去られ、どこかに埋めてしまった。
襲撃しようとした事実そのものを無かったことにしたのだ。
セメナスは命を落とした。だがしかし、この戦い、盗賊団の計画を阻止したセメナスの勝利だ。セメナスはきっと笑って死んでいったのだろう。
一方、セメナス居なくなってしまった街で、ターナは寂しい思いをしていた。
お父さんは、ターナに危険が迫っているのに、セメナスは逃げたという。あんな男の事は忘れて、もっと他にいい人を見つけなさいと。
ターナはそれから数年の間、セメナスの帰りを待ち、見合いの話はすべて断っていたが、町で学校の先生をしている子供好きの素朴な青年と恋愛して結ばれた。
とても可愛らしく聡明な5人の子に恵まれ、死ぬまで幸せに暮らしたという。
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朝から物語に引き込まれ、昼食もとらず騎士の鍛錬をサボってしまうほど時間を忘れて夢中で読んだディアッカ。物語のラストで主人公のセメナスは愛するターナを守るため、誰にも言わず、誰にも心配を掛けず戦いに赴き、そしてターナの危機を救った。その代償にセメナスは命を落としたが、死に顔はとても満足そうだったという。
この本の最後のページには、ターナが幸せになったことでセメナスの愛が成就したと締めくくられていた。
ディアッカは母のいる居間に駆け込んで涙ながらに訴えた。
「母上、これはダメだセメナスが気の毒じゃないか。なぜターナに何も言わずに戦いに出たんだ」
「ディアッカにはまだ分からないのね、セメナスはターナを悲しませたくなかったのよ」
「そんなの分かってる、だけど母上、わたしは納得できない。ターナを守るために戦い、命を落としたというのに、事実を知らないまま他の男を愛するなんてセメナスが浮かばれない。ターナはセメナスが逃げたと思っている。こんなに残酷な話はない」
ディアッカはこんなにも安易な悲劇を読んで素直に涙を流した。悲しい結末には涙を流す、それは当然のことだ、もっともっと他に方法があったはずなのに、そんな悲しい結末にしか行きつけなかった、物語りの袋小路に迷い込んで涙を流す。
「そうねディアッカ。あなたはこの本をまた明日も、あさっても、何度も読み返してみなさい。セメナスの気持ちになって、何度も」
ディアッカは母に言われた通り、セメナスの気持ちになって何度も何度も同じ物語を読み返した。
そして5回も読み返したころには、クライマックスシーンの文脈など暗記してしまい、本を見ずとも朗読できてしまうほどとなった。
何度も読み返すうち、あれほど可哀想だったセメナスとターナの末路に涙が流れることはなくなってしまった。あれほど感動的だったシナリオは輝きを保ったまま色褪せてしまう。
母が教えたかったのはこういう事なんだ。
いくら素晴らしい思い出も、いくら自分を憐れんで涙を流しても、セメナスとターナの物語がそうだったように、何度も何度も悲しみを経験すると、どれほど心を打ちのめそうとする悲しみであっても、心が勝つ。人の心は弱いようで居ながら、波のように繰り返し押し寄せる悲しみに対し、耐えて跳ねのける力を持っているんだ。
もうどれだけ考えても涙が出ない。セメナスとターナは救われることがないのに、それでももう、感動は薄れ、涙を流すことはない。
涙が涸れたも同然なんだ。
「そうねディアッカ。じゃあ次はちょっと難しいかもしれないけど、ターナの気持ちになって読んでみて」
ディアッカは何も知らされず、何も知ろうとしないヒロイン、ターナのことを愚かな女だと思っていた。
だがしかし、母に言われるままターナの気持ちになって物語に没入してゆくと新たな発見がある。
気付かなかった言葉尻にある反抗心と悲しみ。セメナスとの美しい思い出。
ターナは愛するメナスが死んだことを知っていたのだ。
そこには安易に英雄になろうとする男が、女を残酷な運命に誘うという、とても現実的な物語が隠されていた。
セメナスはターナの手を引いて、どこへなりと逃げればよかったのだ。
ターナは何よりもそれを望んでいた。
セメナスはずっとターナの両親に認められたいと考えていて、その功名心ゆえに命を落とした。
愚かなのはセメナスのほう。涙が涸れたのは、ターナのほうだった。
「母上、ありがとう。なんか、うまく言えないけど、分かったような気がする。レーヴェン叔父さんもヒカリも、きっと間違ってる気がするんだ」
翌日、ディアッカはこんな女性向けの三文恋愛小説をレーヴェンドルフに手渡した。
「レーヴェン叔父さん、ここには真実が書かれてある。まずは読んでみてほしい」
「えええっ? なになに? うっわ、恋愛小説? ちょっと、私はこういうの苦手なんだけどなあ」
「苦手でも読んで。この本の主人公セメナスはレーヴェン叔父さんを映す鏡のような愚か者なんだ」
「手厳しいな……、分かった、ディアッカがそう言うなら興味がある。読んでみたくなった」
レーヴェンドルフは自分の置かれた状況と、本に出てくるセメナスの情景を照らし合わせ、ディアッカが何を言いたいのか理解した。
この世界に来て8年、ヒカリは悲しんで悲しんで、悲しみ抜いて涙も涸れてしまったこと。
それなのにレーヴェンドルフ自身、この先何十年かかるか分からないような研究に、ヒカリを巻き込もうとしていること。
「研究なんて諦めてもいいじゃん、ヒカリをいま幸せにしてやれる方法があって、それができるのはレーヴェン叔父さんだけなんだよ!」と、強く背中を押された。
それからレーヴェンドルフがヒカリに初めての求婚するのに、さして時間はかからなかった。
いつか兄に言われた言葉を思い出し、そして噛みしめながら心に杭を打つ。
『レーヴェン。お前は身体が小さく、力も強くない。だけどな、騎士とは生き方だ、強い弱いは関係ないんだ。お前の胸に一本鉄の杭を打て。どのような力を加えても曲がらぬほど、太い杭をな。それがいつか騎士の誉となり、お前を助ける』
騎士として生きるのに強い弱いは関係ない。
レーヴェンドルフはどう足掻いても勝てないほど強大な力を持った女を、ただの女として愛した。
王都の騎士たちは笑うだろう。最弱の男が最強の女を愛したのだから。
しかし最強の女は、寂しがり屋の、可憐な女性だった。涙も涸れてしまうほどの大きな悲しみを一人で抱えている。レーヴェンドルフは心に鋼の杭を打ち込んだ。
愛しい人を、もう二度と悲しませやしない。
『あなたの事は好きだけど……』なんて気を持たせた振られ方をしたせいか、レーヴェンドルフのほうも後に引くことができなくなり、3度目の求婚をすることになった。
星の降るバルコニーで、熱い紅茶を淹れながらではなく、今日は跪いてみせた。
「ヒカリさん、私は自分勝手な男です。こんなに好きなあなたを異世界に帰すなんて強情を張っていました。本心では帰したくないです、でも、私はあなたに認められたいと思っていました。剣を持っては愛するあなたにまったく及びもしません、私があなたにいいところを見せられるのは、きっと転移魔法の研究しかないのです……。だけど、いやです。あなたがこの世界からいなくなるのは、私にとって耐えられません。あなたに認められたいという功名心を捨ててもいいでしょうか。何のとりえもない、ただあなたを愛するだけの男になってしまいますが……、私はそうありたい」
ヒカリはレーヴェンドルフの精いっぱいの告白を受け、葛藤する心の内を打ち明けた。
「私は……、あなたのことが好きになりました。私の心は傾いています。あなたと共にこの世界で暮らしてゆく幸せな未来を夢見るようになりました。……でも、心に罪悪感があります。異世界に残してきた恋人の事です。彼は私が居なくなったことで、きっとものすごく心配して……、きっと今も探していると思います。私は彼を忘れることができません。でも私はそんな彼を裏切って、あなたに心変わりしようとしています、それは許されないことです」
「ヒカリさん! 許しなど必要ないのです。それは愛深き故の苦悩です。私はそんなあなただからこそ愛してしまいました。いけないことだと思いつつ、心があなたを求めました……。なあに、こんな不器用な私にだって初恋の相手ぐらいはおりました。今でも忘れられない女性がいるのです。そのひとは私の人生を鮮やかな彩に染め上げました。心に安らぎを与えてくれたのです。きっとあなたの彼も同じなのでしょう」
ヒカリは嬉し涙で前が見えなくなるという生まれて初めての経験をした。もう涸れてしまったと思っていた涙が止めどなく流れる中、レーヴェンドルフの差し伸べる手を取った。
ひとの心は弱い。あれほど激しく愛し合った者たちが、長い人生のうち、わずか何年か離れ離れになるだけでたやすく折れてしまうほどに。だけど涸れてしまった涙も、年月が潤してくれる。
レーヴェンドルフは涙するヒカリを抱きしめてやるなんて気の利いたことも出来ず、手だけを握り合い、二人いっしょになって涙を流していた。星の降るバルコニーで、燦々と輝く銀河の下で、人生で最高の幸運を掴み取った温かみを手のひらに感じながら。




