[レーヴェンドルフ] 勇者に恋した男(3)
現在ちょっと気が向いたので夏のホラー2018に投稿する作品を執筆中です。締め切りが8月9日なので、間に合えばよし、間に合わなければボツ、どっちにせよこのお話の続きは、8月9日以降になると思われます。
ヒカリ・カスガがこの世界にきて5年がたった。ということは、月下の涙に魅入られ、元の世界に帰る手伝いをすると約束を交わしてから3年が時が流れたということになる。
勇者がこの世界に現れたという事は、ハーメルン王国に災いが起こるのでは? と不吉の兆しだと考えられていたが、わずか5年ほど勇者のニュースを聞かないだけで、人々の記憶の隅に追いやられてしまったらしく、王国に災いが起こるなどと、城下町の場末の酒場ですら語る者が居なくなった。
人の噂も七十五日という言葉がある。これは日本の故事諺だが、この世界でも同じようなもので、5年も身を隠していればもう誰も覚えてはいないのだろう。
ヒカリを無事に元の世界へと送り返す約束をしたレーヴェンドルフは自らの得意分野、古文書にその解を求めた。このハーメルン王国が建国された頃、魔法陣という未知の魔導学問が盛んに研究されていたとある。もちろんヒカリが現れたルーメン教会の聖域も、姪っ子ディアッカの目撃証言によると、どうやら魔法陣が生きた状態で設置されているらしい。レーヴェンドルフの力では聖域を調査する許可は得られなかったがしかし、ルーメン教会の歴史と成り立ちがソレイユ家の始祖との関係性がかなり密接に絡み合っていることが分かった。手がかりとしては十分ではなかったが、自らの生い立ちにも繋がる考古学の研究ともあって、レーヴェンドルフは古文書解読にいそしみ、更にはありとあらゆるコネを使ってルーメン教会所蔵の未公開古文書の公開を請求して、少しずつ、少しずつ、まるで亀の歩みのようであったが、一歩一歩着実に前に進んでいるように思えた。
そして夕刻、逢魔が時からは満天の星空の下、レーヴェンドルフは特に進展などなくとも研究成果の報告と、今後どうすればいいかという相談をすることに、いつの間にか心躍らせていることに気が付いた。
これまでこんな気持ちになったことは無かった。学問を解すること以外にこれほどの喜びを胸に抱くなど考えられない事だった……。いや、遠い過去、幼い日に感じたことがある。そう、あのアンという教会の女に抱いた感情に少し似ているような気がして、鼻に抜ける思い出の香りに記憶がフラッシュバックした。
騎士の練兵場の中にある小高い丘に寝そべって空を見ているところ、いつの間にか横に座っていて、レーヴェンドルフの顔を上から覗き込んだんだった。得体の知れない女だ。しかし、今は他の女とまたぞろ、今度は夜空を見上げることに胸の高鳴りを感じている。空と女が合わさったらドキドキするものなのかと考えると、レーヴェンドルフは意味もなく笑えてきた。くくくく……と、押し殺したような笑いだった。
「あら? レーヴェンドルフさん、いかがなさいましたか? 何かよいことでもありましたでしょうか?」
「いえ、これは自嘲というものでして、ヒカリさん、あなたには関係のないことです。えっと、今日はいいローズヒップが手に入ったので、北天の星々でも眺めながら香りを愉しみましょう」
この日を境に、レーヴェンドルフの研究は座学の段階を超越し、理論を実践に移すこととなった。
転移目的の魔法陣が完成したのだった。とりあえず転移先の座標は数メートル先のすぐ近くに設定してのテストだったが、魔法陣に魔力を流し込む段階で躓いた。
ヒカリ・カスガは勇者の持てる膨大な魔力をもってレーヴェンドルフの作成した魔法陣に魔力を流し込もうとしたが、うまく魔法陣に魔力が充填せず、微かに光を帯びはするのだが、起動するまでは至らない。根本的に何かが足りないのだと思い、更なる研究と実践、試行錯誤を繰り返していた。
ある日の事だ、もうすぐ10歳でアビリティの恩恵に与る姪っ子のディアッカがヒカリ目当てで遊びに来ているとき、不意に言われた言葉にレーヴェンドルフは息を呑んだ。
「レーヴェン叔父さん、なんだか楽しそう。いいことあったの?」
「大人をからかっちゃいけないな。私が? 楽しそう?」
「そうだよ。なんだか見るたびに元気が漲ってる!って感じ!」
そういってニヤニヤするディアッカに何か見透かされたような気がして、レーヴェンドルフは例えようのない恥ずかしさを感じるのだった。
ちょうどそこにホールの階段を降りてくるヒカリとレーヴェンドルフを交互に何度も見返しながら、表情の変化を見ているらしく、ディアッカは不覚にも赤面してしまったレーヴェンドルフを指さしてニヤリと口角を上げた。
「ふーん、なーんだ。そうなのかー」
そう毎日だ。ここのところ、ほぼ毎日といっていいほどディアッカが遊びに来ていて、バルコニーで星を見上げるのにいつも二人セットになっていた。そこにレーヴェンドルフが混ざりに行こうものなら「ガールズトークを邪魔するなっ!」と容赦ない言葉を浴びせられることになる。
「なあディアッカ。ちょっと聞いていいかい?」
「いいよん。なんでも。どうせヒカリのことでしょ?」
「んっ、そ、それはその通りなんだが……私はヒカリを元居た世界に帰してやると約束したんだ。だけど研究成果の出ないまま、ヒカリがここに来てもう5年以上たった。もし、万が一、帰れないとしたら……」
自分の言葉に矛盾があることを知り、途中で言葉が出なくなってしまった。
レーヴェンドルフはヒカリを元の世界に帰してやると約束したにもかかわらず、本心では帰ってほしくないと考えていた。もしかすると最近、研究があまり捗っていないのは、帰ってほしくない人を帰すための研究などという矛盾をはらむ研究だから熱が入らないのではないかと考えた。
この気持ちを悟られてはいけない。もしヒカリに知れたら、信頼の土台そのものが大きく揺らぐ。
レーヴェンドルフは心を冷たく閉ざすことに決めた。
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それから3年が経過した。
レーヴェンドルフとヒカリの研究は、魔法陣を書くため魔力伝導率の高いチョークの開発にようやく成功したところだ。本来ならあと30%は伝導率を高めたいところだが、魔力伝導率の高い物質で魔法陣を描くというところまでようやくこぎつけたのだ。研究は一歩も後退することなく、着実に前へ前へと進んでいる。それはレーヴェンドルフのみならずヒカリにも実感としてあった。だが如何せん、研究の進むスピードとそれにかかる時間が膨大で、たかだかチョークの開発に8年。
逆に言えばチョークのプロトタイプができるのに、8年もかかってしまったという事だ。これでは二人が生きているうちに元居た世界に帰れるかどうかも分からない。たとえ研究が完成したとしても、30年、40年と時間を浪費すると、ヒカリが元居た世界に戻ったとて、家族が生きているなんて保証もなければ、親しかった友人や、生活基盤が残っているのかも怪しい。たとえば70歳、80歳になって故郷の地を踏んだとしても、そこから先の生活は過酷なものとなるだろう。
レーヴェンドルフが異世界転移魔法を研究しているのは、科学者が科学技術発展のために、人類の未来のためにと胸を張るようなものではない。この世界に迷い込んできたたった一人の女性を、家族たちのもとへ帰してやるためだけの研究だ。何世代にもわたって研究成果を蓄積しながら進めていくようなものではなく、ヒカリの時間も、異世界で帰りを待っているであろうヒカリの家族の時間も等しく有限なのだ。
屋敷の庭に研究小屋を建てて、土間に古文書にある解読不能の魔法陣を見よう見まねで描き、ヒカリの魔力を注入すると青白くぼんやりと光る現象が見られた。研究は確実に前に進んでいる。その成果もしっかりと実感できる。しかし遅い、絶望するほど研究の進捗が遅い。
レーヴェンドルフの焦りとは裏腹に、夜バルコニーに出て星空を見上げるヒカリの姿に少し異変があった。いつもだいたい涙を流していたヒカリが泣かなくなった。涙を流すことがほとんどなくなったのだ。
これはレーヴェンドルフがホッとして胸をなでおろす、たった一つの "いい出来事" だった。
ずっと泣いている女性を、白いバルコニーの階段の下から、ずっと見上げていることしかできなかった男の、ほんの少しの安堵感。こんな進捗の遅い、生きているうちに完成するかしないか分からないような研究でも、泣いている女性の涙を止めることぐらいはできたのだと……そう思った。
願わくば次は笑顔を、涙を止めることができたなら、次は笑顔を見せてもらえるようにと強く願った。
レーベンドルフが西向きのバルコニーに上がるとヒカリの側にはディアッカがくっついていて、たぶんまたいつものように異世界の話をしてくれとねだっているのだろう。何しろヒカリの話す異世界の話というのは、まるで荒唐無稽なファンタジーだ。ディアッカが夢中になるのも無理はない。
ディアッカはソレイユ家の誉である聖騎士のアビリティを受け、大人でも音を上げるような厳しい肉体鍛練と、何度も心を折って、どんな逆境にも挫けぬ精神を鍛え上げる修行をこなして、その帰り、鼻歌交じりでここに遊びに来ている。男に生まれたなら兄バーランダーを超え、父アンダーソンをも凌駕していただろうにと、騎士団では女に生まれたことが惜しい惜しいと言われるほどの逸材だった。13歳の少女と侮ると騎士を鍛え上げる教官ですら痛い目に合うと評判の技を持っている。
なにしろディアッカはたまに騎士の鍛錬を抜け出してきては、ここでヒカリと剣戟を合わせている。
槍の腕前もメキメキ音を立てて上がろうというものだ。
真っ赤に燃え上がった夕陽が沈む逢魔が時に、ソレイユ家伝統の白い騎士服を朱に染めながら、二人はなにやら雑談しているようだった。女性同士の会話に割り込むつもりはないが、せっかくのいい紅茶が冷めてしまってはつまらない。レーヴェンドルフはティーセットの乗ったお盆を両手で抱えながら、トントンとバルコニーへと上がった。
「陽が沈むと一気に冷え込むからね、熱いお茶でもいかがですか?」
「レーヴェン叔父さんの淹れてくれたお茶は美味しいからなあ、ヒカリは毎日叔父さんのお茶を飲んでいるのか? 羨ましいな」
「おお、ディアッカが絶賛してくれるなんてお茶ぐらいなものかな。だけど私のお茶なんて、そんな大それたものではないんだ。私はいいお茶の葉を選んで買っているだけさ、美味しいお茶を作ってくれる農家の人に感謝しているよ。ところでディアッカ、今日はどんな話をしてもらったんだい? 馬が引かなくても動く馬車の話かな? それとも遠くの人と話すことができるマジックアイテムの話かな?」
ディアッカの挑戦的な眼差しが、この時ばかりはなにか観察するような視線になると、すこしの間を空けて言った。
「セイヤの話を聞いてた。セイヤは往生際が悪いんだって。いま正に沈もうとして、地平線に隠れても、空を真っ赤に燃やすあの夕陽のようだって」
こうやって大人の気持ちを試すようなことをする。ディアッカの悪い癖だった。
しかし効果は覿面に出た。一瞬、レーヴェンドルフの表情が曇ったのをディアッカは見逃すことはなかった。
レーヴェンドルフの方も、あまり好んで聞きたくもない名前を聞いた。
セイヤ・アサカという男、ヒカリがこちらの世界に来たことで、空間断絶により離れ離れになった恋人だと聞いている。ヒカリは会えなくなって8年経った今でもセイヤ・アサカの事を愛し、そして、セイヤ・アサカを心の支えにして生きている。いつか会えると信じて。
「でもさ、セイヤなんて8年もヒカリをここで待たせてるじゃん。助けに来ないじゃん」
子どもは残酷だ。
本当の事を口に出して言う、ただそれだけのことでどれだけ人が傷つくかをまだ知らない。
レーヴェンドルフはディアッカにその言葉を少し嗜めるように言った。
「なあディアッカ。人が人を想う力を甘く見ちゃいけないよ。信じてさえいれば思いはいつか必ず届くんだ、私が証明してみせる。ディアッカに約束するよ、私はヒカリを必ず元の世界へ送り帰すと」
そう言ってから元気を振り絞って、レーヴェンドルフは精一杯の笑顔を見せてバルコニーの階段を降りて行った。取り繕ったつもりなのだろう。
だけどディアッカの目には、レーヴェンドルフ精一杯の笑顔は、寂しそうで、痛々しく映った。
ディアッカはレーヴェンドルフの背中を見送り、会話が聞こえないだろうことを確認して言った。
「ヒカリ、どう思う?」
「え? 何のこと?」
「レーヴェン叔父さんだよ。こんなにもヒカリのことが好きなのに、ヒカリと離れ離れになるために毎日頑張ってる。わたしは痛々しくて見てらんないのよね……」
「聖騎士の中でも逸材と言われるディアッカちゃんも思春期ね、そんなことが気になるお年頃かな?」
「あ、はぐらかした。でもさ、レーヴェン叔父さん言ってたよ。ヒカリが泣かなくなったって。何年か前までずっと星空を見上げて涙を流していたのに、今はもう泣いてないって喜んでた。こうやって小さな幸せを積み重ねていくものなの? 大人って」
「マセてるわね、まさかそんなことを言われるなんて思ってなかった……」
「で、どうなのヒカリ、レーヴェン叔父さんのことどう思う? 泣かなくなったのは確かだし、わたしもそこは喜んでるけどね?」
「涙はね……涸れるものなのよ……」
この言葉の真意が分からず、問い質してみたけれど13歳のディアッカにはよくわからなかった。
だがある日、騎士の鍛練場で教官たちの激しい攻撃を大盾ですべて受け切るという猛烈な訓練をしながらも、心ここにあらず、ヒカリのいった涙が涸れるという事を考えていたが、それでも13歳の人生経験の足りない未熟な心には分からなかった。




