[19歳] ふたりは赦された
ヒカリはこの狭い場末の酒場に入って、まずは客席にいた知った顔の男に、およそケンカどころじゃない騒ぎだったことは想像に難くないこの有様の説明を求めた。
「ひどい有様ねバーランダー、いったい何があったの?」
「いや、ディアッカの彼氏に王都から暗殺者が差し向けられたらしい。手回しの早いことだ。この迅速さが北部戦線に活かされてたらな。王立騎士として忸怩たる思いだよ」
勇者ヒカリはようやく立ち上がってそそくさと酒場を出ようとする暗殺者たちを自らの目で鑑定し、おおよその事態を飲み込むことができた。
「ふうん、王立諜報部ね、じゃあ私たちがどうこうできる問題でもなさそう。だけど私たちが来た以上、もうあなた方の自由にはさせませんよ、早々に撤退するのを勧めるわ。これ以上やると言うなら、私たちも黙っていませんから」
そういうと勇者ヒカリはこの酒場に改めて懐かしい顔をみつけ、優しく微笑んだ。
「……ディアッカ? 思った通り、奇麗になったわね……」
エルネッタはカウンターの高い椅子に腰かけたままビアジョッキを置いて、ヒカリの優しい眼差しに最高の笑顔で応える。微笑ましい再会シーンだが、この国の怖い女ナンバーワン決定戦があったとするなら、きっと決勝戦はこの二人だ。
「やあヒカリ。せっかく逃げ隠れしてたのに、ちょっとした手違いがあってさ、とうとう見つかってしまったんだ。……あーギルド長、アルス、紹介するよ。勇者のヒカリとギンガだ、この二人は美人だが、お前らの手に負えるような相手じゃないからな、手を出したら死ぬぞ?」
エルネッタはギルドの仲間に、勇者ヒカリと、その娘ギンガを紹介した。
まさか勇者がこんな場末のギルド酒場にくるなんて誰も思ってなかったのだろう、勇者が街に出ると、だいたい普通は握手を求められたり、色紙にサインをしたりするのだけど、ここの冒険者たちときたらドン引きしているのである。
「ねえ母さん、分かる? あのひと」
ギンガが指さしたのは、背中を向けて、無関係だとでも言いたげにヨソ見を続け、いま入ってきた勇者たちを見ようともしない男だった。
「ええ、そうね。私の目にはディミトリ・ベッケンバウアーさんとしか見えないのだけど、私の顔を見て逃げたからね、きっと何か都合の悪いことでもあるのでしょう」
「私に目には『セイヤ・アサカ、54歳』と出てる、あの男は母さんの知り合いなんでしょ? そしてこっちの女の子がトールギスっていって、わたしたちの隠れてる森を1か月もずっと守ってくれてたの。ほんとすっごく強いんだからね、きっと母さん驚くわ。ね、この子にもお礼を言って」
「やっと会えたわね、セイヤ。えっと、こちらの人は? ヒトじゃないわね、めたもるふぉすぐりぷす? トールギスっていうのね。ギンガを守ってくれてありがとう、私はギンガの母で、ヒカリといいます」
ディムは聞こえないふりをしていたが、トールギスは笑顔でギンガに手を振って応えていた。えらく懐いてるじゃないか! と、ちょっとだけ妬ける気持ちをグッと堪え、なおも知らないふりを続ける。
「なんだ、ギンガはトールギスちゃんと仲良しなのね。じゃあ決めた。ディアッカ、奥の席に移動しましょうか。積もる話もあるだろうし」
6人掛けのボックステーブル、ディムの向かいに座ってるトールギスを奥に詰めさせて、強引に割り込んできたのがギンガとヒカリだった。
不機嫌そうな表情でプイっと壁に目を背けるディムの隣にエルネッタが座った。
「ディムどうしたんだ? 毒でも回ったか? ああ、兄さんもここに座るか? ディム、もうちょっと詰めてくれ」
「そうだな、同席させていただく。まったく……、しかしディミトリさん、急にしおらしくなったな」
「ああ、こんな面白いディムは初めてだ。逃げようとしたら死刑だからな………………ほら、頭をひっぱたいても耳を引っ張っても反応しない。面白いぞ、アルス、いまなら殴っていい。後で殺されるけどな」
「そこのカドの席がおっかねえよ! みろ、あのディムが小さくなっちまって、チャルが茶を出すこともできないじゃないか」
「あの、すいません、お茶持って行っていいでしょうか」
テーブルに人数分の茶が出されると、ヴェルザンディはポケットから飛び出して、どうやって飲んだらいいのかとグラスの周りをグルグル回るのをみてギンガとトールギスがクスクスと笑い始めた。
なんとかこの場は和んだようだ。しかしディムの内心は穏やかではない。
ディムとヒカリはとくに会話するでなく椅子に掛けている。ディムは視界にヒカリを入れないほどそっぽを向いて、ただ壁を見ているのに対し、ヒカリのほうはじっとディムの横顔を見つめているという対照的な姿が周りにいた者にとって印象的に映った。
このままだと埒が明かないと判断したのか、まず口火を切ったのはヒカリだった。
「驚いたわ、本当にセイヤなのね。変わらない、ほんと変わらない。変わったのは外見だけ? やっと会えたのにさ、私に顔を見せてくれないの?」
ヒカリの声でセイヤの名が呼ばれた。間違いなくこの春日ひかりの声帯から発せられた声だ。空気を伝わって鼓膜を震わせる優しい声が心に届いた。そして目の前にヒカリがいる。この懐かしい感覚、この柔らかな空気感こそ日本に住んでいた頃の朝霞星弥が唯一つ望んで止まなかったことだ。
しかし今はただ心に懐かしく響いただけだ。
「ディム、おまえどうしたんだ?」
返事をしようとしないディムにエルネッタは少し不快感を覚え、ヒカリは苛立ちを露にした。
「こっち向け、私を見ろバカセイヤ! ほんとにもう……マジでイライラする。ねえディアッカ、このバカと一緒に暮らしてるってホント?」
「うん、もう6年ぐらい一緒かな」
「6年もいっしょに居て、こんなバカのこと見捨てずにいてくれたのね……」
「……う、うん。ごめん、まさかこの人があの……セイヤだったなんて知らなくて……つい先週知って、その、悪く言って済まなかった」
「あー、いいのいいの。ギンガに聞いたときは時間が止まったように感じたわ、まさかセイヤがこんな所まで来るなんてね」
「ディム、どうしたんだ? なぜヒカリを見ない?」
「このひと怒るとこうなのよ。ね、セイヤずいぶん若くなったわね。私を見てどう思った? おばさんになってて驚いたんじゃない?」
ふう……と鼻を鳴らしたディムは、ようやくヒカリの顔を正面から見ることができた。
セイヤに正面を向かせて話をしようとするヒカリの巧みな誘導が功を奏したという事だ。
ディムのほうも敢えてヒカリの誘いに乗ることにした。たしかに"年を取ったな……"というのが25年ぶりにヒカリと会ったセイヤの正直な感想だった。
朝霞星弥は春日ひかりと幼馴染として育った。
物心ついたころにはもうひかりは隣にいたし、出会いの瞬間も、いつ好きになったのかも覚えてないほど幼い頃から一緒に育ったのだ。物心ついてからの25年を一緒にいた。
いまディムの目の前にいるひかりは朝霞星弥の記憶の中にいる"春日ひかり"とは別人だし、いまは人妻になっていて、ギンガのお母さんだというのだ。こうやってテーブルを挟んで対面に雁首揃えて座られると母娘であることは良くわかる。こんなにもDNAの存在を否定できない容姿をしているのだ。せっかく苦虫をかみつぶしたような不機嫌な顔をしていたのに「フッ……」と、つい失笑を漏らしてしまうのも無理はない。
「……? 何かおかしい? だけどセイヤとは似ても似つかないわね。若返るなんてズルいわ。久しぶりに会ったのに、話すことは何もないの? せっかく会えたのに、ずいぶん遅かった。そして私は殺されてしまうのかな、あなたに」
勇者ヒカリの言葉に聞き耳を立てていたギルドの面々が顔を見合わせる。
勇者がディムに殺されてしまうと言ったのだ。
"殺されてしまうのかな"と問われ、これまで堅く口を閉ざしていたディムがようやく重い口を開いた。
これまでは何を話せばいいのか分からなかったのだ。突然ヒカリがギルド酒場に来るなんて考えてもみなかったことなので、驚きも過ぎると人は言葉も出ないというが、まさにその通りだった。
「なぜぼくがお前を殺すんだ? 思ってもない事は言わないほうがいい。みんな驚いてるだろ?」
うまくディムの口を開かせたのだから、この酒場での会話はヒカリのペースだということだ。もちろんディムは主導権を握られたことぐらい分かっていたが、この女はそう簡単に主導権を渡してくれるような女じゃないことを良く知っている。
「だってセイヤ怒ってるし。ギンガに聞いたときは驚いたわ。まさかあなたがアサシンになってこの世界に来てるだなんて、誰だって私を殺しに来たと思うわよ」
「殺されるようなことしてないだろ?」
ディムの問いに答える前に、ヒカリは背筋をピンとのばし、くっと顎を引いてから対角線上に座るディムの顔をしっかりと直視しながら一呼吸おいて話し始めた。
これはヒカリが真面目な話をするときのクセだ。
だからディムのほうもちゃんと背筋を伸ばして、いま初めてヒカリの目をしっかりと見据え、話を聞く準備ができた事を暗黙のまま知らせた。いま冗談を言ったり茶化したりすると、ひどい雷が落ちるのを知っているからこそ神妙になった。
「セイヤ……。私はこの世界で、ひとりの男性を愛して、3人の子を産みました。ギンガを助けてくれてありがとうね、私はあなたがこんな所まで来てくれるだなんて、信じて待つことができなかったの。ほんとうにごめんなさい。子どもたちも手を離れたしね、あなたが殺してくれるなら、それもいいかな」
ディムはヒカリの言葉を聞いて小さな溜息がでた。
エルネッタの方を見て確認することもなくヒカリの言葉に嘘はない。春日ひかりはこういう女なんだ。
その実、自分が殺されるなんて爪の先ほども考えていない。
もし本当に自分が殺されてしまうような危険を感じているとするならば、大切な娘と一緒にノコノコ昔の男に会いに来るわけがない。たとえ星弥がアサシンであっても、危害を加えるようなことは絶対にないと踏んでの行動だ。
ヒカリは星弥のことを深く信頼しているということだ。
聞いた話によるとヒカリが異世界に転移して8~9年もの長い間、朝霞星弥のことを思っていたのだという。それは超人的な強さだ。
当の朝霞星弥はというと、身体も動かせない予備の別人格としてディミトリ・ベッケンバウアーの中に生まれて、ちょうど2~3歳の頃だし、その頃はまだ前世の記憶がはっきりしなかった。
朝霞星弥は死んだ。これはもうどうしようもない現実だ。紛れもない事実だ。
幽霊になった星弥が次元を飛び越えて異世界に辿り着き、その辺にいる妊婦に宿る胎児に憑依してまで恋人の事を追いかけてきたのだとすると、純愛を飛び越えて迫りくるタイプのリアルホラーだ。
ディムは、まるで離れていた時間なんて無かったかのように屈託のない笑顔を見せた。
「ははは、本当は悪かったなんて思ってないくせに、よく言うよ」
「ごめんね、夫から求婚されて返事をするときは、あなたの顔が頭から離れなくて、本当に申し訳ないと思ったけれど、いまはそれほど悪いとは思ってない。こう言っちゃズルいかもしれないけどホッとしたわ。だってあなたもディアッカのこと好きなんでしょ? お互い様よ」
「そうだな確かにお互い様だ。そんな事よりもヒカリ、おまえ幸せなんだって? ギンガから聞いたぞ」
「ええ、とても」
「そっか。幸せならお前を赦すよ」
「ありがとネ。セイヤならそう言ってくれると思ってた、ところであなたたちは? どうなの」
「ぼくたちも近々結婚するつもりなんだ」
「ふーん、なかなか難しいと思うけど? ハーメルン王家が黙ってないわよ?」
「それでもだ」
「どうしようかなあ、私の立場では手放しで祝福することは許されないのよ。ごめんね、でもディアッカを好きになったあなたを赦します。ディアッカ美人だしスタイルもいいし、あなたもどういう訳か若返ってるし、なーんか腹立つんだけど?」




