[13歳] 美しい世界
脚にナイフを突き立てられながら力強く立ち上がったオークの戦士は、自らが受けた屈辱に牙をギリギリと鳴らしながら全身を怒りに震わせると、感情に任せて力いっぱいの体重をかけて、そこに倒れているだけの桜田ディミトリ踏み潰した。
痛みも衝撃も伝わっては来なかったが、視界がブレた瞬間に暗転し光が失われた。
耳からの音も、情報も、その一切が遮断された。
暗闇と無音を感じていた。時間の感覚もなかった。どれぐらい時間がたったのかもわからない。
それでも全身にビビビッと電気が走ったように激しい痺れを感じると、星弥は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
目に飛び込んできた光景は、さっきまでと同じ……、夜だというのにすこぶる明るく、遠くまで見通せる高感度カメラのような視界に切り替わった。ただ肉眼に飛び込んでくる映像と網膜に映し出す景色は、別人格としてディミトリの目と脳を通してみていたものとはずいぶんと違った印象だった。
夜のひんやりとした湿気を含む空気の匂いと、肌の毛穴が粟立つ感触。
満天の星空から降り注ぐ、眩いばかりの銀河の光。
寝そべって空を見上げていたディミトリの身体を最初に震わせたのは……感動だった。
「なんて美しい世界なんだ……」
―― ふはぁっ……。
自らの肺で呼吸している。油の燃える匂いと、材木の焼ける煙のコゲた匂い。
自らの舌で味わっているのは、血の味、鉄の味だ。
ひと呼吸ごとに力がみなぎってくる……。
そして再びピリッと全身が痺れると、全身から激痛が走り、この身に突き刺さった。
神経が接続されたようだ。
星弥は傷ついた全身から神経を伝達してきた、この激しい痛みですらも、その胸に抱きしめるよう受け止めると懐かしく噛みしめた。
痛みは生きている証だ。
生命の喜びだ。
顎が震え、奥歯がカチカチと鳴っているのが分かる。手が震える、ガクガクと震えている。
再び肉体を得たことで、喜びに打ち震えている。
ディミトリは "ゆらり" と、まるで立ち昇る湯気のように音もなく立ち上がると、あらためて辺りを見渡し、眼前にいるこのオークたちのステータスを知覚してみることにした。
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■ フェンドレカカ 58歳 男性
オーク族 レベル054
【戦士】B /大斧/大槌
■ マラーンレカカ・ロクサーニ 52歳 男性
オーク族 レベル062
【狂戦士】B /大斧/大槌
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ゴブリンはチラッと見たけどレベルも低く警戒するに値しないと判断したが、目の前にいる2体のオークどもはさすがに先陣を切って大人たちを薙ぎ倒し橋を渡ってきただけのことはある。
刺青オークのほう、レベル62なんて見たことがない。村の大人たちじゃ敵うわけがなかった。
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□ ディミトリ・ベッケンバウアー 13歳 男性
ヒト族 レベル019
【夜型生活】D /知覚/宵闇
【羊飼い】E /羊追い
【マッサージ師】E /鍼灸/整骨
【人見知り】F /聴覚/障壁
【ホームレス】F /拾い食い
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初めて肉体を操作する喜びに打ち震えながらも、自らのステータスを確認すると種族を表す文言の入る欄には、別人格ではなく、ヒト族になっていて、朝霞星弥の名前もなかった。
ディミトリ・ベッケンバウアーにはもう、ただ一人しかいないのだ。これまでずっと一緒に暮らしていた兄弟たちのアビリティを全て受け継いでいることには、寂しさしか感じない。
『みんな! どうしちゃったんだよ、返事をしてくれよ!』
頭の中で叫んでみても、もう誰にも聞こえないことは、なんとなく分かっていた。誰も返事をしないどころか、もう同居人など誰一人いないことを肌で理解してしまっている。
『確かにぼくはディミトリの主人格になりたいと思っていたさ、一度でいいから身体を動かして、自分の足でこの世界を駆けまわってみたいと思っていたよ。だけどさ、こんな形でぼくだけが残されるなんてイヤだよ。アビリティだけ残してみんな死んでしまうなんて、そんなのイヤだ……』
ディミトリは天を見上げて兄弟たちの名を呼んだ。
しかし誰一人として返事をする者は居なかった。
獣人たちはディミトリが音もなく立ち上がったのを感じ取ると、まるで信じられないといった表情で顔を見合わせている。目の前の少年の不死身っぷりが信じられないのだろう。
『違うよ、ぼくは不死身なんかじゃない。生まれた時からずっと一緒に育ってきた兄弟たちを、お前らに殺されてしまったんだからな』
鑑定で見る限り、星弥は何もしてないのにレベルが19にまで上がってる。細山田がゴブリンを2体倒したからかな? その経験値がディミトリに入ったということだ。
一般人レベルの子どもがレベル30超えのゴブリン戦士を倒したんだからこれぐらい一気に上がってもおかしくないのだろう。
『……いや、どうだっていい、つまりは、戦えるってことだ』
痛みは酷い。激痛で今にも倒れてしまいそうになりながら辛うじて立っているという状況。だけど【夜型生活】アビリティのおかげなのか、それとも『宵闇』という謎スキルのおかげなのか、激痛を押して立ち上がってみると身体は羽のように軽く、戸惑うほどだった。
まるで時間が止まってるんじゃないかって思うほどオークの動きがスローモーションに見えていた。
時間がゆっくりに感じる? いや、脳が冴えに冴えてるだけだ。
ディミトリは宿敵オークたちを目の前にして、この艶めかしく心を打つ感動に震えていた。
夜がこんなにも美しいことを知らなかったのだ。
夜のひんやりとした空気が肺胞から血管を巡り、身体に酸素を送り込むたびに漲る力が溢れ出す。
ディミトリの脳裏に湧き上がる殺意。" こいつら……この獣人ども、どうやって殺してやろうか" と血液が沸騰するのを抑えきれない。
だけどその反面、脳は常に冷静に、どこをどうすれば効率よく殺せるかを考えている。
『まったく、どうしてしまったんだろう、信じられないな。ぼくがこんなにも好戦的な男だったなんて……』
たったいま踏み潰してくれたこのオーク、なにを訝しんでいるのか、半歩、また半歩と後ずさりしたあと間合いを保って立ち尽くしている。
『なんだ棒立ちか? 隙だらけじゃないか。いまこの短剣を突き刺せば簡単に……』
ディムは濁流の向こう側で河を渡れずただ見てるだけの獣人たちに一瞥したあと、まずはダグラスをフッ飛ばし、桜田ディミトリを踏み潰してくれたこのオーク戦士を標的と定め、拾った短剣で喉を狙った。
流れるような動作で、羽毛がそよ風に舞うようにふわりと。だけど動作は恐ろしく正確で、短い切っ先はあらゆる防御の隙間をすり抜けた。
相手には油断もスキもあったろう。だが現実にトスッと軽い音を立てて、ナイフは頸動脈を斬り裂いた。まるでキャベツに包丁を入れるように、芯までざっくりと切り込む。いともたやすく。
驚いたのはたったいま首を切られたオークの方だった。いったい何がどうなったのか分からないようだ。首から大量の血を流しながらキョロキョロと落ち着きがない。
たったいま自分がこの少年に殺されたことにも気付かないのだから、どれほど油断していたか窺い知れる。戦士の死なんてのは、そんなものなのかもしれない。
まさかと思った瞬間、不意に訪れるのが、死そのものなのだ。