許されざるもの
落ちる。
どこまでも続く奈落の底に向かって。
意識が闇に溶け、存在が消えようとする。
恐怖を抱えたままに。
――許されない。
闇と戯れるのもたまにはいい。夜は好きだ。闇夜にはむしろ安心感を覚える性質かもしれない。
ただ、今この時。
私にそれは、許されない。
この私。二条大橋紫乃上は、威風堂々とキキョウ紋を掲げる新興組織、キキョウ会の会長だ。総勢、三百人を超える組織のトップ。漏れなく気合の入った女ばかりの集団、そいつらの頭を張ってる。
多くが悪党だけど優秀で強者、そして誰もが野心と向上心を持った新進気鋭の女たちだ。それが我がキキョウ会。そんな奴らが命を預けてくれた。この私にだ。
残された命、失われた命に対して、果たすべきことは、まだまだ山のようにある。
まだ、なにも終わってない。終わらせてなんて、やるもんか。そんなことがあって、いいはずがない。
激しい感情が胸の奥底から湧き上がる。負の感情だろうがなんだろうが、断じてこのままにはしておけない。
恐怖は転じて怒りと化す。
この怒りを抱えたまま、死ねるわけがない。
闇に呑まれかけた意識が怒りに焼かれ、マグマの如き魔力が身体を満たした。
感覚のない身体に一本の芯を通すイメージ。
私はまだ死んでない。だったら、できることがある。人一倍どころじゃなく頑丈な身体なんだ。動かせないわけがない。どんな状態だろうと、この身体は私の意思に応えてくれる。それが、できるはずだ!
カッと見えない目を見開き、感覚のない腕を伸ばす。
筋力は出せなくても、魔力なら湧き上がる。そいつを使えば、動かせないなんてことはない。
声にならない気合いの声を盛大に上げた。いける。
骨を突っ張って胸を強く圧迫する何かを強引にどかすと、息を吸い込んだ。
「ごほっ!」
咳と同時に液体をぶちまける感覚。さらには全身を貫くような激痛が走り抜けた。これだけで気を失いかける。
ああ、痛い。死ぬほど痛い。でも、痛いってことは感覚が戻りつつあるってことだ。
目は見えないし耳も聞こえないけど、腕は動かせる。
ひりつくような激痛は火傷のせいだろうか。少しの挙動でも激痛は際限がないように跳ね上がる。頬や首筋を伝うぬるっとした感触は流れる出る血か。トロトロと身体中から流れ出て行く感覚には、ぞっとせざるを得ない。
ただ、感覚がある。激痛でも、なんとなく想像する酷い怪我の程度に比べれば、思ったほどじゃない。このくらいなら訓練でも時々はある痛みだ。ただそれが全身に至っただけのこと。
つまりは、どうってことない。全身の激痛だって、私の魔法行使を妨げられない。こんなことは、かつて何度もあった。問題があったって、そんなもんは殴り飛ばせ。
例え死の淵にいようとも、最高の魔法を使って見せてやる!
漏れ出る魔力を部屋いっぱいに広げ、強固なイメージを紡ぐ。魔法はイメージが全て。どんな状況だろうが、揺るぎはしない。
霧の魔法。第二級超複合回復薬の霧だ。死んでさえいなければ、どんな状態だって治してやる。
魔力の満ちた空間でイメージは具現化し、即座に効果は表れた。見えなくても分かる。
魔法の霧が優しく染み込むと同時に苦痛が遠退き、壊れた身体を奇跡のように修復する。失った血液さえ元に戻し、燃えた髪もすべらかな手触りを取り戻す。見えなかった目が光を映し、輝く白い霧を視認した。
みんなも同様に回復したはず。ただし――生きてさえいればの話だ。
室内に燻ぶった熱が急速に冷えるのを感じながら霧を消す。すると目の前には私が使ってる大机だ。なるほど、これが横倒しになって押し潰してきたらしい。
大丈夫、私は冷静だ。現実を見なければ。それでもどこか欠ける現実感を意識しながら、立ち上がって室内の様子を確認した。
「……っ」
言葉が出ない。ただ、息を飲み込んだ。
微かに聞こえる声は呻き声や寝言の一種だろう。目が覚めてるのは一人もいないらしい。服は焼け焦げてるけど、身体が綺麗に治ってるってことは大丈夫だ。私のように机に押し潰されてるようなのも見当たらない。すぐに手を貸す必要はなさそうだ。
そして、酷い傷を負って倒れたままのがいる。なんで治らないか。それは、その答えは明白。
――死んでるからだ。
さっき使った霧の魔法は、生きてる者にしか作用しない。
息を飲み込んだまま黙って見る。死に様をあえて目に焼き付けるように。
爆心地に近かったらしいのはもう原形を留めてない。上半身が無くなってるのがいれば、胴体の左半分が消えてるのもいる。頭や手足、よく分からない肉片や内臓がそこら中に散らばってもいる。顔が潰れてるのもいるし、吹っ飛んできた物が体に刺さったり、めり込んだりもしてる。首が折れ曲がってるのもいる。いまだに大量の血が流れ出てるし、内臓がずりゅっと零れ落ちてるのもいる。全員、即死だ。共通してるのは余りに酷い火傷。もう誰が誰だか判別することさえ難しい。
ぎゅっと目を瞑り、そしてまた開いた。
現実だ。これは紛れもない現実。あんまりな現実を容赦なく付きつけられる。それでも決して、目を逸らすことは許されない。
この状況で生き残れたことが不思議でならない。助かったみんなは、よくぞ生き残ってくれたと思う。
「ふぅーーー………」
ひっくり返りそうな胃の動きを我慢して、大きく息を吐く。飲み込んだ息の限界まで。
これはなんだ?
――分かってる。起こってしまったこと、そしてこれからやることもだ。
様々な感情と考えが頭をよぎるも、結局はできることを、やりたいことをやるしかない。悲嘆に暮れて立ち止まるわけにはいかない。私はキキョウ会の会長だから。
なにより、生き残れた。だから、責任を取ることができる。果たすことができる。それだけは地獄の神にでも感謝しておこう。
結果の責任は、会長である私にある。全て、なにもかもだ。
悲惨な結果であっても、受け止めるしかない。
それでも。重要なのはこれからだ。この結果を受けて、なにを成すかだ。責任のある会長として、どう始末をつけるかだ。
これまでに想像だけはしてきた。何度も、何度も、いつかはこういう日がくるってことを。
だから、私は迷わない。
――弱気になるなんて、許されない。
――逃げ出すなんて、許されない。
――諦めるなんて、許されない。
――これまでの歩みを否定するなんて、誰にも許されない。
無論、私だって許す気はない。とうの昔に覚悟は決まってる。だから、自分たちのことを否定することだけはしない。
うだうだしてる時間はない。うじうじしてる時間もない。そんな暇があったら、できることをやるんだ。
求められることは、ただ一つ。
敵を討つ。
完膚なきまでに敵を討ち、勝利を収める。掴み取るんだ。
なにがあっても、どんな時だって、前に進む。立ちはだかる敵をなぎ倒すんだ。彼女たちの魂がそれを望むと分かってる。
それこそが、我がキキョウ会だから。
散々に敵を殺してきた私に綺麗事を抜かす資格なんてない。そんなつもりだってない。
世間様は自業自得とさえ得意げにほざくだろう。
でもそんなことは関係ないんだ。
私の可愛い仲間たちの命を奪われた。
そのケジメは必ずつける。なにがどうあろうとも必ずだ。
そしてまた歩みを進める。未来に向かって、それぞれの野望を果たすべく。
私たちは、キキョウ会なんだから。そのために集まったんだから。始めてしまったんだからね。どこまでだって、行ってやるわよ。結局はそれしかないんだ。
気合いを入れ直すため、思い切り頬をバチンと叩いた。
物思いに耽るのはこのくらいでいい。彼女たちをこのままにはしておけない。
この時の頬の痛みと、直後にぎゅっと握りしめた手の痛さ、むせかえる血と臓物の焦げた臭いを、私は決して忘れない。
本部のなかには居住スペースや地下訓練場もあって、そこには当然のようにメンバーがいる。あの爆発後に駆け付けるのは自然の成り行きだ。
建物自体は規格外に頑丈なこともあって、被害はこの事務スペースだけにとどまる。他の階に影響がなかったことだけは良かった。
駆け付けたメンバーは一様に絶句し、地獄のようになった光景をただ信じられないように見つめる。
気持ちは分かるけど、今は呆然とする時でも感傷に浸る時でもない。私はあえて乱暴に声を張り上げた。
「ボケっとするな! 総員、警戒態勢! 外に出てろ! 屋上にも見張りを立てろ! やれることをやれ! これで終わったと思うな!」
弾かれたように動き出す。まるで逃げ出すように。感情が追い付くのはもう少し時間が経ってからだろう。ウチは犠牲に慣れてない。
それにね、無残な姿を彼女たちだって見られたくはないはずだ。事務局にはおしゃれ好きが多かった。服、化粧、髪型、アクセサリー。休憩時間にはよくそんなことを話してた。それが最期には死に化粧もしてやれない。
「ユカリさん」
この場に唯一残ったのは、第八戦闘団長のミーアだ。悲痛な顔をしてるけど、幹部として事情くらいは確かめたいんだろう。地下で待機してた彼女たちに同様の攻撃が無かったのは、今考えれば助かったわね。
「悪い、説明はあとでいい? 敵の攻撃があるなら絶好のタイミングだし、ミーアは外で指揮を頼むわ。私はこいつらをこのままにしておけないからさ」
「……分かりました。野次馬も集まりつつあるようですし、刺客への警戒も疎かにはできないですね」
理解の良いミーアは的確な判断で応じてくれた。頼りになるし、空気が読めるって素敵よね。これで気を失って倒れてるメンバーを除けば一人になれた。
熱くなりかけた瞼を押さえると行動に移る。
壁際に落ちてた自分の外套を拾い上げ、焼け焦げた服の上から身にまとう。こうすると墨色の外套の心強さを今更ながらに実感した。
認めよう。我ながらどうしたってショックはある。それでも立ちすくんでるわけにはいかない。ミーアに言ったように、彼女たちをこのままにはしておけないんだ。動こう。気を失ってる連中はそのままにして、ここは私だけでやる。
遺体を収める先として、軽量のアルミニウム合金で棺桶を作った。ここに一人ひとりを丁寧に寝かせてやる。
ボロボロになってしまった身体を抱き上げ、零れ落ちる血と臓物を受け止め、散らばったパーツを集めながら。精密に魔力感知し、組み合わせは間違えない。大事な仲間だった、みんなの身体なんだ。
ネガティブなことを考えそうな心を自ら叱咤し、亡骸を慎重に、しかし手早く棺桶に収める。
仲間だった者たちのまだ温かい血を浴びながら、せめてもの祈りをささげる。
許せなんて言う気はない。代わりに、必ず借りは返すと誓った。