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 アイスはカップにしておくべきだった。後悔しても遅い。緩い冷房に溶けていくアイスが、コーンを伝って机の上にぽたぽたと落ちていく。思い出す度口に運ぶけど、間に合わない。

「麻衣ちゃんが彼氏さんを疑ったきっかけは、先月、七月二十九日の待ち合わせに二時間も遅れたことが発端でした。それだけでなく、彼氏さんは本来はお休みではない筈の金曜日を、わざわざ有給休暇を用いてまで休んでいます。理由を訊いても、軽くあしらわれてしまいました。

 さらに、彼氏さんは今月の二十九日、つまり今日も、本来の休日でないのにお休みにしていて、麻衣ちゃんがデートに誘ったにもかかわらず夕方からのデートを希望した。そして、現状、一時間以上の遅刻。そうですね」

「そう……だね」

 きっかけ、と言われれば、その通りだった。

「そして六月、五月、四月、三月と、メールを溯ると、毎月二十九日には、普段とは違う彼氏さんの行動が見えて来た。そこから類推すると、まるでどなたかの予定に合わせて行動しているかのような、そのような印象になります」

 ワタシはそれを、『浮気相手に合わせているのだ』という考えて、彼を疑った。

 実結は、それを、最後まで否定する。

「ですが先程も言ったように、もしもその『どなたか』が浮気相手であったとしたなら、これ程分かり易いものはありません。麻衣ちゃんにバレてもいいと思っているのならば別かもしれませんが、もしそれだけの関係であるならば、二十九日だけの逢瀬で終わるとも思えません」

「だったら、どうして」

「離婚歴です」

 思わぬ言葉が飛び出した。

「り、離婚、歴?」

「はい。それが全ての答えに結び付くと、わたしは推測します」

 実結は、肩掛けバッグから手帳を取り出した。開いてワタシに見せる。それは、スケジュール帳だった。

「わたしが気になったのは、どうしてこの方は毎月二十九日を特別なものと考えているかもしれないのに、麻衣ちゃんと彼氏さんの会う時間はバラバラなのだろう、という点です」

「意味が分からないんだけど」

 手をアイスが伝う。冷たい。けれど、それどころではない。

「いいですか」実結がカレンダーの今日をシャープペンシルで差す。

 ワタシが覗きこむと、向かいに座る実結は、逆さのカレンダーに器用に文字を書いていく。

「彼氏さんは麻衣ちゃんと会う時間に関して、今日は『夕方なら良い』とのことでした。確か、先月も今日のような時間とのことでしたね」

「うん」

 八月の所には『夕方』。七月にも同じように書いた。

「六月。この日は水曜日なので本来通りお休みで麻衣ちゃんはデートに誘いますが、『疲れているから午前中だけ』と言われ、そこに不満を覚えた麻衣ちゃんはデートをしません。しかし夕方に麻衣ちゃんが家を訪ねると、彼氏さんは不在でした」

 六月二十九日には『午前』と書かれた。

 どうやら、ワタシと会った時間、もしくは会うことが出来たであろう時間を書きこんでいるらしい。

「五月もそうです。麻衣ちゃんが家を訪ねようとした際、『夜遅くならばいい』と彼氏さんは言っています。

 四月はお二人で会っていないようですが、ほとんどが彼氏さんから送られているおやすみメールがこの日は麻衣ちゃんから出され、とうとう返信がない。これは、夜に何かがあった、という想像が出来るでしょう」

 両ページの二十九日のスペースには『日中、恐らく仕事』と書き、『夜は?』と補足がついた。

「しかし三月になると、今度はお昼の間に連絡がついていないのです。彼氏さんから返信があったのは夕方。その時間にならないと、返信できる状態にはならなかった、とも考えられますので」

 そう言いながら、実結は三月二十九日に『夕方』と書いた。

 ここまでの話とカレンダーの文字を見ても、ワタシには皆目見当がつかない。疑問符だけが脳内で漂う。

「これを見ると、彼氏さんが『誰に予定を合わせたのか』が自ずと見えてきます」

 まるでここに応えの全てが詰まっていると言いたげだ。いや、直球でそう言っているのか。

「考え方はこうです。麻衣ちゃんに会うことが出来た時間というのは、彼氏さんが『どなたか』に会うことが出来なかった時間であり、すなわち、その時間は『どなたか』にとってどうしても外せない予定があった、と。そしてその予定は、三月、七月、八月についてはさほど考える必要がなく、彼氏さんは日中であっても『どなたか』に会いに行くことが出来た」

 実結の言葉がワタシの思考の先をいく。追いつけない。なんとか脳内をイジメながら、言葉を噛み砕いていく。

「どうしてその三つは、考えなくてもいいの?」

「ポイントは、二十九日というのは、三月から八月まで、全て平日であるというところにあります」

「全て、平日……そういえばそうだね」

 あっ、と、ふと思い出して、ワタシは溶けていくアイスを慌てて口にする。気付いた時には、実結の前のカップは空になっていた。あれだけ話していたのに、いつ食べる余裕があったのか。

「世の中には、決められた期間、土日だけがお休みで、三月、七月、八月はその限りではない、と断言出来る人達がいます」

 会社員、は、休日勤務もあるだろう。断言出来る業種というと、公務員だろうか。

 でもそれだと、三、七、八を例外とすることが出来ない。

「四月、五月、六月。『どなたか』はほぼ確実に休みではありません。が、彼氏さんは仕事上どうしても平日に会いに行かなくてはならない。土日にお休みをいただくのって難しいですからね。

 ですが、その『どなたか』も、夕方になら予定が空くんです。ですから彼氏さんは、四月は夜に会い、五月もそうしています。六月はお休みである筈なのに夕方から出掛けていますので、同様と言っていいでしょう」

「ごめん実結、分からない。結局何、浮気はしているってこと?」

「いいえ。答えは、こうです」

 実結は三月のページに新たに三文字が記される。

『春休み』、と。

 ページをめくる。

 そして、七月、八月のところに、実結は、『夏休み』の文字を書いた。

「春休み、夏休み、共に、平日であっても確実に休みになります。それは……大人ではあり得ないこと。ですが」

「学生は休み……ってことは、もしかしてその相手って」

「そうです」

「大学生の、女?」

 実結ががくんと肩を落とした。初めて見る姿だ。

 恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、「そうではなくてですね」と実結は、スケジュール帳を自分の方に向け、シャープペンシルを用いて三秒。記した文字をこちらに見せる。

「わたしは浮気を否定する立場なので、その選択肢を除外して、こう結論付けたと言いますか、結論付けたいと言いますか」

 スケジュール帳の端に書かれた、実結が導き出す答え。

 小さな文字で、数は二つ。

「『子供』……こ……子供?」

「はい。お子さんです」

 ワタシの頭はどこぞの会社員を想像していた。ぱっと浮かんだのも大学生だった。

 まさかの子供。子供。子供?

「子供と浮気してんの?」

「何故そういう方向に行くんですか麻衣ちゃん。そんなに浮気していて欲しいんですか」

「いや、え、どういうこと?」

「彼氏さんのお子さんということですよ。先程麻衣ちゃんは彼氏さんについて、『バツがついている』と仰っていたじゃないですか」

「いや、確かに言ったけど、子供いるなんて聞いたことないよ」

「今付き合っている女性に、好んで過去のことを語る男性は少ないかと思われます。お子さんがいると知って去っていく女性も少なくないでしょうから」

 あくまでも推測。ワタシの話を聞き、メールを見て実結が推測したに過ぎないんだけど、ワタシは隠さずに動揺した。

 浮気でした。そう聞かされるよりも、地味にショックなことだったのかもしれない。

「ちょっと、一足飛び、って言うかさ。え……そりゃあ、バツ付いてるって聞いた時から考えたことなかったか、って訊かれたらそりゃ、あったけどさ」

「離婚歴がある以上、一足飛びではないと思います」

「子供……子供……か」

 一気に沈む声が、まさかここまで低いトーンにまでなるとは思わなかった。

 実結がアイスアイスって言うから、慌てて食べようとしたけれど、どうにも口に運べない。代わりに、残り僅かになった抹茶味は、実結が食べることになった。

 伏せた目を実結に向けると、あっという間にアイスもコーンもなくなっていた。服をまくり上げれば胃袋に直接食べ物を放りこむ為の扉でもあるのだろうか。

「離婚された元奥様との間にお子さんがいた場合、全て説明出来る気がするんです。

 まず、三月が春休みなので、日中にお子さんと会うことが出来ます。夕方お別れしてから携帯を開いてみると、麻衣ちゃんから何度も連絡があったことにようやく気付いた。

 四月、五月、六月。お子さんが学校に行っていたとしても、学校が終わって帰宅した夕方にならば、お子さんに会いに行くことは出来ます。四月の夜、彼氏さんからメールが来なかったことがありましたが、そこに無理矢理理屈を付けるならば、四月二十九日は金曜日で、翌日の土曜日はお子さんはお休みですから、その日だけは遅い時間まで一緒にいられたとか、お泊りになったとか、そういうこともあるでしょう。

 そして七月も八月も、夏休みに入っています。日中を共に過ごし、麻衣ちゃんとのデートは夕方にすることになった。しかし、お子さんとの別れが名残惜しく、なかなか離れられずにいた為に、二回続けて遅刻することになってしまった。

 ――いかがでしょうか。これが、わたしが行き着いた、希望的観測です」

 何故だか分からない。分からないけれど、信じたくないワタシがいた。

 いっそ浮気してくれれば、どこかで諦めがつく瞬間があったかもしれないのに。

 そんなワタシは、つい、反論を以って彼女を否定してしまう。

「じゃあ、五月二十九日の昼、あいつがゲームコーナーにいた、っていうメールについては」

「はい。そこがネックだったのです」

 実結は、疑問を残したままワタシに何かを提示するような子ではなかった。

「あの親子です」

 実結は、先程から幸せそうに笑いあう母親と小さな男の子を、聖母のように温かな瞳と、美麗な微笑みで見つめた。

「お子さんにせがまれ、あのお母さんは息子さんにぬいぐるみを買ってあげています。とても小さく、もしかしたらそこまで高価な物ではないかもしれませんが、あの親子から溢れ出て来る愛のオーラは、幸せそのものなのです。

 あの姿を見てわたしは、彼氏さんは、お子さんへのプレゼントを選んでいたのではないだろうかと」

「プレゼント?」

「ええ」

 実結の目線は、母親が椅子の上に置いた袋にあった。その中にはたぶん、ぬいぐるみがある。

「もしもお子さんに会えるのが一日だけだったとしたら、それは何故毎月二十九日なのか、が分からなかったんです。悩んで悩んで、浮かんだ答えが、もしかしたらお子さんの誕生日が、何月かの二十九日で、その日だけは特別に会うことを許されたのかもしれない、でした。

 それを軸にすると、麻衣ちゃんが度々デートを断られるようになって、その理由として挙げられた『買い物』も、月に一度しか会うことが出来ないお子さんに渡すプレゼントを選ぶ為に、何度もお店に足を運んでいたのかも、ですとか、ゲームコーナーにわざわざお昼休みに行っていたのも、お子さんの為にゲームを買おうとしていた、と想像出来ます」

 心音が響く。鼓膜を内側から叩く。

 嫌なんじゃない。訳が分からないだけだ。

 未知がそこにはある。

 誰だって初めては怖い。

 浮気なら、高校生の時、二人目に付き合った男にされた。相手は大学生だった。だから、もし今の彼氏に浮気されていたとしても、初めてではない。だからきっと、情けない思いをしながらも落ち込まずにいられたんだろう。

 でも、さすがに予想の斜め上から降って来る未知は、インパクトがある。

 まだ事実と決まってもいないのに、どうしてこうも脂汗のようなものが全身を襲うのか、経験のないことには判断のしようがない。

「でも、なんで三月からなの? 子供がいるなら、もっと小さなうちから会うでしょ」

 覇気のない声だった。気にしすぎだろ自分! と、己の心をグーで殴る。

「わたしが、子供さんは学生である、と考えたのは、麻衣ちゃんの、『五年前にバツがついた』と『二年持たなかった』の言葉からです。単純に計算すると今から七年前。もし結婚をしてすぐに子宝に恵まれていたとしたら、今頃、お子さんは」

「六歳か七歳。あ……小学校入学か……」

「はい。脳内だけで勝手に展開させていくのは失礼極まりないのですが、彼氏さんは元奥様に、子供が小学生になるまでは会ってはいけないと言われていたのかもしれません。そして、三月二十九日は入学式目前です。そうなると、辻褄は合う……いえ、強引に合わせてみたのですが、納得はしませんか」

 返事に困ってしまった。納得とか、そういうことではない。もはやこの胸の中に渦巻く感情がどういうものなのかを言い表すことが出来ない。答えられない。分からない。

「わたしは、ですね」

 実結は静かに口を開いた。

「当事者ではないので、好き勝手に言えてしまう立場を、今は最大限利用して言わせてもらいます。わたしは、もしも今回の件が彼氏さんの浮気であったとしたなら、麻衣ちゃんと彼氏さんはお別れになって、麻衣ちゃんは、また新しい恋に向かって歩き出していたと思うんです。悪いことではありません。前を向き続けるのは素敵です。けど、悲しいのです。今ここにある幸せが、裏切りの思い出になってしまうのが悲しいのです」

 自分自身でもよく分からないこのモヤモヤを、実結は見通すかのように。

「しかし、そうでないとしたなら。その可能性が僅かでもあるならば、わたしにはそれを信じてもらいたいのです」

 おとなしく、おっとりとしていて、側にいないと心配になっちゃうような、そんな女の子だと、思っていた。

 けれど。

「彼氏さんの話をする麻衣ちゃんは、とても、とても幸せそうでした。笑顔だったんです。素敵な輝きだったんです。それを、守りたいだけなんです」

 彼女のやわらかな口調から奏でられる優しい言葉に、真っ黒な紐で雁字搦めになった迷いとか、そういうものが、少しずつ解けていく気がした。

 彼女は、廃トンネルに光を灯す。

 決して、闇に誘う魔手ではない。

 だから――。

「困惑は当然でしょう。ですが、彼氏さんが、お子さんに愛を注ぐことのできる方だと、わたしは信じます。いいえ。彼氏さんを愛する、麻衣ちゃんの笑顔を、信じます」

 この言葉を、ワタシは信じることにした。

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