story62‐‐絶望色の人生‐‐
わかっていた。
自分が〈聖人〉などと言える存在でないことくらい。
ただ、自分が〈狂魔〉と呼ばれ、この世から淘汰される存在であるということを、認めたくなかっただけなのかもしれない。
そう、僕らこそが本当の〈狂魔〉。〈狂魔もどき〉は、僕らが世界を滅ぼすための道具でしかない。
真の意味での〈狂魔〉は、最初から僕と兄さん、そして僕らの父親の三人しか存在しない。
『狂魔化』――それは人間が豊かな感情をもってしまったが故に、受け入れきれないストレスを溜め込んで発症する病。
数千年前の太古の昔、人々が互いに争い合う時代があった。彼らはいつしか、自分たちの家族や恋人、大事な人が無益な争いの末に死んでいくことに耐え難い悲しみを覚えた。彼らはだれも傷つくことのない『人類全体の平和』を願った。その願いは現代になって、豊かな感情をもった人間の誕生という形で、ようやく実現し始めたかに思われた。彼らは我々に豊かな感情を与えることで、互いの苦しみ、痛みを理解させ、そして本当の『幸せ』の意味を教えようとしてくれた。互いの苦しみと痛みを知り、争いの絶えた楽園のような『平和』な世界。その実現こそが『幸せ』そのものであると。しかし、彼らの願いは儚い夢に終わってしまった。
豊かな感情をもった人は、常人以上に苦しみやすく、幸せを感じやすい。だが同時に、他人の苦痛や喜びについても、常人以上に理解することができた。それ故、彼らの中には悲痛、憎悪、憤怒、あらゆる負の感情の集大成である『絶望』を理解してしまう者が現れた。彼らはそれらの負の感情を受け入れることができなかった。その結果、〈狂魔〉が現れた。
そして、偶然その最初の〈狂魔〉となったのが僕の父親だった。たったそれだけの理由で、僕は父親と同じ絶望色の人生を歩かされた。
だれかに理解してもらいたくて、死んでしまったあの子たちにも負の感情物質で僕らの味わった絶望を見せたが、やはり聖人化薬を打っただけの〈狂魔〉でない普通の人間には理解できないようだった。
〈狂魔〉になんてなりたくなかった。みんなと同じように、普通に暮らしたかった。
どうして僕だけ?
そう言えば、昔も心の中でそう言って泣き叫んでいたっけ。
それはまだ僕が十二の頃。その頃は、まだ遺伝子に父親の記憶が刻まれていることも、ヒロの存在も知らなかった。
僕は少しばかり神経質で、プライドが高い人間だった。
「シュウ!」
母親が怒り口調で言った。
僕は父親でも母親でも、例え知らない人でも、怒った人を見るのが嫌だった。純粋に怖かった。
「台所に置いてある靴を玄関に片付けなさい! 汚いでしょ」
僕はその頃、潔癖を患っていた。幻を見るほどに重い症状だった。
プライベート用の靴を台所に置いていたのは、台所に裏口があったから。玄関に置きたくなかったのは、玄関が見えない菌に汚染された『汚域』だから。その菌は絶対に触れたくない――もっと言うと、絶対に触れてはならないものだった。
菌は学校の同じクラスのある人間が発している。実際には菌などもちろんない。だが、僕はその人間を、容姿、行動、共に激しく嫌悪していた。そのあまりにも汚らしい行為に、僕は耐えられなかった。その人に直接触れることはもちろん、その人が触れたものにも触れられなくなった。そしていつしか幻――その見えない菌が僕の脳によって創造された。しかし、学校というのは人とのコミュニケーションを育む場所。本人に触れるのはさけられても、その人が触れて菌の付いたものに触れなくてはならない時は必ず訪れる。隣になってしまったその人と小テストで解答を互いに採点する時。掃除の際にその人が触れた机を運ばなくてはならない時。いくらでもある。この頃、僕は初めて自分は狂っているのだと自覚した。
菌は人から人へ、人から物へ、物から人へと伝染する。気付いたら、もう学校全体が菌に汚染された汚域と化していた。
そうなれば、自然と僕の身体も全身が汚染される。菌は水で洗えば取り除けたが、学校に津波でも来ない限り、学校の全ての汚域を洗い流すことはできなかった。菌は家の中でも、僕が触れた場所には伝染した。玄関を始め、自分の部屋や、階段も。僕は家の中が汚域と化して脳が苦痛で自壊するのを防ぐため、ほぼ本能的に汚染された身体では階段や通路の片側だけを通るなど、家の中でも何とか暮らせるようにばかばかしいほど気を遣った。そしていつしか僕は、どんな時でも心臓が動いているのと同じように、例外なく、毎日菌のことで神経をすり減らす生活を送った。僕は一体何をしているんだと、自分を愚かしく思った。何で自分だけこんなことになるんだと、孤独を感じた。だれ一人自分と同じ孤独を味わっている者はいない。愚かな僕の頭の中から、見えない菌は消えてはくれなかった。
そういうわけで、僕は台所に置いた靴を玄関に戻すことができなかった。プライベート用の靴まで汚域と化したら、僕の自由は本当になくなってしまう。「学校に汚くて触りたくない人がいる」などと言えるはずもない。醜い自分の姿を、他の人には知られたくなかった。
僕は何も言えず、聞こえなかったふりをしてその場を去った。
そしてある日、母親が勝手に台所の靴を玄関に戻していたのを知った時、僕は心の底から母親を憎悪した。
その日を境に、僕は少年の悪夢を見始めた。以降憎悪は次第に膨張していき、それは自分の苦しみを理解してくれない家族全員への殺意に近いものになった。
理由もないのに僕がそんなことするわけないだろう。
どうして、なぜそんなことをするのだろうと考えてくれなかったんだ? 僕のことを理解しようともしていない証拠だ。
家族とは、相手のことを思い、互いに愛し愛されるべきものじゃなかったのか?
それに気付いた日から、僕に「家族」はいなくなった。
いつかの父親の言葉を思い出した。
「親に向かって何て言い方だ!」
滑稽に思えた。
親だと思っているのは、家族だと思っているのはあんただけ。
僕の心は『憎悪』と『孤独』という立て札の付いた底なし沼の中に、いつまでも終わりを迎えることなく沈んでいった。
数年が経ち、僕は底なし沼から心を救い出せないまま、例の菌を発する人とは違う学校に進学した。僕は密かに何時間もかけ、家中の汚域を完全に水ぶきして消し去った。
だが僕の心は依然、自分を愛さなかった家族への『憎悪』と、自分がこの世界の異物であるという『孤独』に沈み続けた。心の傷は、そう簡単には癒えない。
ある日の深夜、『憎悪』と『孤独』に神経を侵され、一種の鬱状態に陥っていた僕は、自分を殺すためナイフをもって家を出た。
穢れを知らない美しい自然の中で死にたかった。
そして、初めて死の恐怖を知った。今まで僕は恐怖というものを知らなかった。ただ怖ければ、何でも恐怖なんだと思っていた。でも死に対する恐怖というものは、まるで別次元だった。
自分に明日がないことを思うと、身体の節々が痺れた。本当に物理的に痺れたのかどうかはわからなかったが、僕は掲げたナイフを自分に振り下ろすことができなかった。どこかでまだ生きたいと望んでいたのかもしれない。だが、何のために生きたいのか、その時はまだわからなかった。
結局、それから夜が明けても、昼になっても家には帰らなかった。橋の下に隠れてうずくまっていた。餓死できればと思った。
しかし、僕がナイフと共に消えているのに気付いた父親が警察に捜索願いを出しており、僕は警察によって発見され、保護された。
「最初から本気じゃなかったんでしょ? 他人に迷惑かけちゃだめだよ」
警察官はそう言い、僕は生きながらえたのを後悔した。
両親は泣いていた。
「すまない」
父親はそう言った。
人はすぐ謝る。何が悪いかわかっていなくても、謝る。
その謝罪に、本当に意味はあるのか?
すぐ謝るのは、本気で悪いと感じたことがない証だ。
人の心は、言葉では表せない。
「本当に死んじゃったのかと思った」
母親はそんなふうなことを言った。自分たちへの僕の憎悪に気付くことなく。
そうか、僕が死ぬのは嫌なのか。
僕の心はどうなったって構わないのに、僕が死ぬのは嫌なのか。
それって、周りから子供を死なせた人間だと思われたくないってだけなんじゃないのか?
『お前はただ生きてればいいんだよ』
そう言われた気がした。
学校に行くと、事情を知らない仲のよかった友達が、僕のもとまで誕生日を祝いにきた。絶望色に塗れた人生の、始まりの日を祝いに。
友達というのは、互いを理解し合えるものだと思っていた。
わかっている。それはただの完璧主義にすぎない。ただ一緒に話せば、それはもう友達。でも、所詮それだけの友達なら、僕はいらない。
そう思った時、僕に「友達」はいなくなった。
結局、だれも僕の心を理解してくれない。
それは現在のこの世界では、変わりようのない事実。
僕は家族を失い、友達を失った。安らげる場所など、もはやどこにも存在しない。だが、死ぬことも許されない。
絶望した。
神経質で、プライドが高く、完璧主義者。そして少し運が悪い。たったそれだけで人は絶望する。実にあっけない。
僕は一体、何のために生きているのだろう?
そう感じたその日、まるで意図したように、少年が町の全ての人間を殺している夢を見た。
そして理解した。
僕が生きている意味、それは、人の苦しみを理解できない利己的な人間たちで溢れるこの世を壊し、新たに他者の苦しみや痛み、悲しみを理解できる人たちだけによる、絶望の存在しない『平和』な世界を創造するためだ。
嵐の夜だった。
雨は滝が流れ落ちているかのように激しく屋根や通りを打ち付ける。木を倒し、車を吹き飛ばす風は、人間が家から出るのを断固拒否しているようだった。
その町の街灯は、嵐の闇の中を照らすにはあまりにも頼りなかった。街灯の根元ですら真っ暗で何も見えない。
そんな闇の中へ自ら踏み込もうとするかのように、とある家の裏口の扉が開いた。裏口前が屋内の明かりで照らされ、風雨がここぞとばかりに家の中へ吹き込む。
そんなことに構わず裏口から出てきたのは、一人のまだ顔に幼さの残る少年。
そして彼の目の前の闇の中に、もう一人の少年が突如として現れた。二人の少年はまるで瓜二つだった。いや、顔が似ているかどうかまでは判断しかねたが、その人間味のない容貌には共通点があった。二人は闇にも染まらぬ純白の髪と、闇をも見通さんばかりの真っ赤な眼をもっていた。
「秀一」
闇の中から少年が声をかけた。まるで相手の少年を闇に引きずり込もうとしているようだった。
秀一は何も言わず、左腕に力を込めた。
「俺はヒロ。蒼井ヒロだ。君の本当の兄貴だよ」
秀一の表情がわずかに引きつる。
「だったら何だ? 僕がたった今何をしてきたのかは、もうわかってるんだろ?」
秀一の服は血で真っ赤に染まっていた。
「あんたが本当に僕の兄さんだったとしても、僕があんたを殺さないでおく理由にはならない」
秀一は冷たく言い放った。
「俺は自分と同じ存在である君をずっと待っていた。君が俺たちや俺たちの本当の父親と同じ力を得るまで、俺は君をずっと見ていた。俺も何年か前に家族を殺した。今は俺たちの最大の敵となる組織に潜入している」
「どうして僕を待っていたんだ?」
秀一は警戒を解かずに尋ねる。
「君は見てきたはずだ。腐ったこの世界の惨状を。この世の人間共を。一緒にこの世界を作り変えないか?」
秀一は何も答えず、ただ鋭い目つきで自分と同じ相手の赤いひとみを睨んでいた。
「俺たちの父親はそれに最初に気付いた人間だ」
秀一はつい昨日も見た夢を思い出した。夢の中の少年は、絶望していた秀一に生きる意味を教えてくれた。
「……あの少年のことか?」
「ああ。俺たちは遺伝子に父親の記憶を刻み込まれ、人工的に生み出された人間だ。そして彼は俺たちと同じように世界を破壊しようとした。だが、失敗した。俺たちは彼の意志を継ぐ者。この使命から逃れることはできない。今度は確実に、この腐り切った世界を『平和』な世界に作り変えるんだ。そのために、手を組まないか?」
「……僕はだれも信じない」
秀一の目が見開かれ、瞬時にヒロの首元に手を伸ばした。
だが、途端にヒロの姿は闇の中へと消えた。
秀一は闇の中の微かな光も逃さまいと、その赤いひとみでヒロの姿を探した。
「どこを見てるんだ?」
秀一の耳元でだれかが囁いた。と同時に、秀一の首元に刃物が触れる冷たい感触があった。
「感情物質の制御もできていない。僕が放出した感情物質も感知できていない。まだしばらく君は力の使い方を学ぶ必要があるな」
ヒロは背後から指で秀一の胸の中心をトンと突いた。それは心臓とは別に鼓動する何か。秀一はその存在にその時初めて気付いた。
「これからはこれが君の力だ。この中に君の感情を全て溜め込め」
ヒロが秀一を放し、秀一の身体から力が抜けた。
「この町の人間を殺したいか?」
秀一が顔を上げる。
「君を苦しめたこの町に、君は怨みのままに復讐したいかと訊いているんだ」
しばらく沈黙した末に、秀一は頷いた。
「そうか。それはよかった。怨憎こそが人の力の根源……世界を破壊するのにもっとも必要な感情……」
そう呟き、ヒロは秀一の方を見た。
「俺も手伝ってやる。この町では組織の人間が君を監視している。そいつらは俺が殺しておいてやる。俺たちの怨みをこの町にぶつけてやろう」
怨みのままに、二人は町の人間に殺戮の限りを尽くした。
町から人が消え、『二度目の神隠し』が発生した。
殺戮を終えた二人が再び会った時、ヒロの方は一人の気を失った少年を担いでいた。
「そいつはだれ?」
秀一はヒロが担いでいる少年に視線を向けて尋ねた。
「秀一の復讐はこの町。そして俺の復讐がこいつだ。こいつには、人間を代表して俺たちの絶望を見せてやることにした」
「……生かしたのか?」
秀一は不本意そうだった。
「ああ。一時的に狂魔化させて強制記憶消去剤を打ち、組織に加える。こいつには、俺の復讐の対象になってもらう」
そう言うと、ヒロは唐突にどこかへ向かって歩き出した。
「どこに行くんだ?」
秀一も相変わらずの暴風雨にはものともせずにヒロの後ろを歩き始める。
「狂魔特別対策組織本部だ。今度はこれから、この世の全ての人間を消す『三度目の神隠し』の計画を立てる。とりあえず今の段階で決まっているのは、君も組織に潜入するってことだ」
「そんな簡単にできるのか?」
「ああ。感情物質を使えば簡単だ。まだ感情物質についてはわからないことも多いが、計画を立てながら解明していけばいい」
空が一瞬まぶしく輝き、間を空けて世界をとどろかすような雷鳴が地上を震わせた。
「僕は組織に潜入してどうするんだ?」
秀一が尋ねる。
「秀一は狂魔化患者として病室に隔離されることになるが、俺が自由に外に出られるようにしてやる。秀一には外で感情物質を操る訓練をしてもらう。人をどんどん狂魔化させて狂魔もどきを誕生させればいい。俺は組織の人間と共にその狂魔もどきを狩りながら、こいつに俺たちの絶望を見せてやる」
ヒロが少年を担いでいた方の肩を上げて示した。
「それも感情物質ってやつでやるのか?」
「まあな。だが、最近一つ感情物質についておもしろいことを見つけた。俺はちょっとした興味で山に負の感情物質を放出したんだ。人間が負の感情物質で狂魔もどきになるのはわかっていたが、人間以外にも効果があるのか知りたくてな。そしたら山の動植物に異変が起き始めたんだ。人間以外の生き物も負の感情物質の影響を受けるってことだ」
「で、その山の動植物はどうなったんだ?」
ヒロは簡潔に答えた。
「猛毒をもつようになった」
「それに何か意味があるのか?」
「ああ。大ありだ。俺たちは感情物質を感知できるが俺たちに対する効果はまったくと言っていいほどない。現にさっきも、俺は秀一に大量の負の感情物質を与えたが、多少不快な感覚はあっても、動けなくなったりすることはなかったはずだ。俺は野芝隼人という人間を殺して入れ替わり、組織に潜入している。だが、この野芝隼人は精神力が弱く、感情物質を多量に蓄積すると身体に異常をきたす」
秀一がなるほど、と呟いた。
「それを山の毒で誤魔化そうってことか」
「それだけじゃない。こいつに絶望を見せる手助けとして山の幻覚作用をもつ麻薬を利用できる。山は本部からそう離れていない。簡単に入手できる」
ヒロはさも得意げな口調だった。
「じゃあ、僕が感情物質ってやつを操る訓練をする間、あんたはそいつに麻薬を盛りながら負の感情物質を与えるってことか。それで、その後の計画は?」
「まだ大まかにしか言えないが、この世を壊す前に、俺はこいつに人間を代表して俺たちの絶望を味わわせる。この世が破壊されるのを見せるのもいいな。秀一は『三度目の神隠し』の準備をしてくれ。俺たちの最大の武器は感情物質だ。これを活かさない手はない。秀一には『三度目の神隠し』の準備のため、感情物質の研究をしてもらいたい。その成果によって計画を作っていく。ひとまずそれでいいな?」
「わかった」
「何か訊きたいことはあるか? お前の兄として、何でも答えてやろう」
ヒロはすっかり気軽な口調になっていた。
「それじゃあ、さっき狂魔もどきって言ってたけど、本物の狂魔は一体何?」
一瞬の間の後、ヒロが笑顔で振り返った。
「俺たちだよ」
秀一はそれが偽装した笑顔であることにすぐに気付いた。




