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狂魔伝  作者: ラジオ
第二章
51/67

story50‐‐山の守護者‐‐

「変わったな」

 目の前の滝壺の岩の上に、三枚の葉をくわえ、首まで水面下に沈めて座禅を組む髪の長い男がいた。

「目も開けないで、どうしてわかるんですか?」

 泉の手に滝のしぶきが飛んだ。滝自体が神秘的で幻想的な美しさを醸し出しているためか、飛んできた滴は清く澄んでいるように感じた。

「わからなければ、君も私も、とうの昔に死んでいる」

 男の口調ははっきりしていたが、言葉の意味は謎だった。

「少し、お話を伺いたいんですが」

 男は服から大量の水を滴らせながら、ゆっくりと立ち上がる。まるで、滝壺で眠っていた巨大な何かが深い眠りから目覚め、地面を揺らして動き始めたかのような神々しさを放っていた。





 どうやら、太一が今まで歩いて登り、泉が今日も踏みしめて登ってきたあの山道は、本来のこの山とは別次元に存在しているようだった。

 今、男の後ろに従って歩きながら泉が目にしているものは、地面までの一切の光を遮る無数の樹木、歪んだ足場の九割方を緑で埋め尽くすコケ、樹木の枝から顔のそばまで垂れさがる太いツル、岩の狭間から顔を覗かせる大きな傘の白いキノコ……。

 例えるなら、樹海やジャングルに近い。季節感などまるでなく、一年中薄暗闇でじめじめとし、冷えた空気が身体にまとわりついて放さない、そんな不気味な雰囲気だった。

「あの、さっきの言葉」

 泉は足もとに気をつけながら、無言で先を歩く男に話しかけた。

「あなたもあたしも、とうの昔に死んでいる……って、どういう意味ですか?」

「深い意味はない。言葉通りの意味だ」

 少し開けた場所にたどり着くと、男は泉の方を振り向いた。

「興味があるようなら……今ここで試そう」

 男は何か遠くの声でも聞こうとするように目を閉じた。

 頭上高くで風が吹き、乾いた葉のこすれる音が下まで響いてくる。やがて風は泉たちのもとにも吹き始めた。ツルが揺れ、木々の葉がざわつく。

 泉の身体はなぜか急に危険を感じ始め、全身から汗が出始めた。

 不意に、背後で何かが動く音がした。

 振り返ると、すぐ前方の枝からこちらに迫る黒くて太いツル――ではなく巨大なヘビが口を大きく縦に開き、牙を向けて泉に飛びかかってきていた。

「ひゃっ!」

 悲鳴を上げて後ろへ倒れた泉の目の前に、今度は全身真っ黒で尾の針をこちらに向けたサソリがいた。

 慌てて身体を起こし、かがんだ状態のまま後ずさる。

 さらに再び背後から、怒ったように激しいカエルの鳴き声が聞こえ始めた。振り返った先には、赤や黄色といった派手なカエルが数匹、泉のそばで興奮したように飛び跳ねていた。

「……何……これ?」

 気付くと、泉の周りをヘビやサソリ、カエルの他、赤と紫の小鳥や赤い模様の入ったクモなど、無数の生物が取り囲んでいた。全て興奮したように鳴いたり跳ねたりしている。

「全部猛毒をもっている」

 男は離れた場所からこちらを見て静かに言った。

 泉の身体が恐怖で硬直しする。その泉の足先から、赤っぽい体をもった大量のアリが登り始めていた。

「うそ……やめて……」

 激しくひとみを揺らす泉の口からは、かすれた弱々しい声しか出なかった。

 泉を包み込んでしまおうとするように大量のアリが登ってくる。まるで身体から湧き出ているようだった。いつしか泉のまとうその赤い粒は、恐怖そのものへと変わっていった。

 泉の目が固くつむられる。

(嫌だ。怖い。もうだめ。のみ込まれる)


『ここはもう、今まで君が暮らしてきたようなのどかな場所じゃないんだ』


 懐かしい声が聞こえた気がした。





 ――天井の木の板が見えた。

 自分が眠っていたことに気付き、身体を起こして周囲を見渡す。奥の暗がりに顔のない銅像、泉のすぐそばには背負ってきたリュックサックがある。ここは以前来た山の頂上の小屋の中のようだった。ドアのない入り口から光が差し込んでいる。

 服はわずかだが湿っていた。

「そういえばあたし、あの森で生き物に囲まれて……」

 あれからかなり時間が経っているように感じる。

 立ち上がり、少しふらつきながら外に出た。

 太陽が高い。朝早く登ったためか、まだ昼の始めの時間らしい。

 広大な景色を見下ろした。いつ見ても鳥肌が立つほど感動する。

 ふと思い出したように振り返って小屋の屋根を見上げる。案の定、男はそこで目を閉じたまま座禅を組んでいた。

「気付いたか」

 男は目を開けず、欠片ほども心配しているような様子を見せずに言った。

「上がれ」

 泉は指示に従い、屋根の縁を掴んで飛び乗った。

 男の隣に静かに腰を下ろす。

「さっきのあれは、一体何なんですか?」

 助けてくれたことには感謝していたが、それよりどうしてもさっきの出来事について訊きたかった。

 男は目を開いた。しかし見つめるのは遠く向こうの山。

「あれが本来のこの山の姿。いや、今のこの山の姿、の方が正しいかもしれない」

「言ってる意味がわかりません」

 少し強めの口調で、もっと明確に話してほしいと促す。

「普段は私が彼らの怒りや憎悪を鎮めているんだ」

 男はゆったりとした穏やかな調子で言った。

「怒りや……憎悪……?」

(あの生き物たちは、怒り、憎んでいたということなの?)

「でも、一体何に?」

「彼らの毒は、我々人間を殺すためのものだ。山の他の生き物には効果がないこともある」

 ますます泉の頭は混乱した。なぜこの山の生き物は人間に怒り、人間を憎み、そして人間を殺そうとするのか。まるでわからない。

「明確な理由は私にもわからない」

 男は泉の心を読んだように言った。

「私はこの山の生き物を鎮め、周囲の人間に害が出ないようにするため、二年前にここに遣わされた。以前はこの山の生き物も穏やかだったそうだが、私が訪れた時には、すでにほとんどの生き物が猛毒を獲得し、ここまで凶暴化していた」

「あなたは……一体どこから派遣されきたんですか?」

 もはや懐疑の色を隠さずに尋ねた。

「ある実態をもたない宗教組織だ。加入すると、他者の心に影響を与える修業をすることになる。我が父もその宗教組織の人間だった」

「『だった』?」

「ある程度他者の心に影響を与えられるようになると、天命を授かり、この町に遣わされる。我が父は、あの山で哀れな人間の墓守をしていた」

 泉はやっと男がずっと正面の山を見つめている理由を知った。

「しかしつい最近、もうその父の気配を感じることはなくなった。代わりに、まるで魔が目覚めようとしているかのように禍々しい気配を、しかも日に日に強く感じるようになった」

「あの山からですか?」

「そうだ」

 以前会った時にも、男はそんなことを言っていた気がした。

「そう言えば、太一さん……えーっと、この前あたしと一緒にいた男性のことですけど、彼はどの生き物が毒をもつのか、あなたに聞いたと言っていました。どうしてあなたにはそれがわかったんですか?」

「『気』だ」

 男は一言で言った。

「『気』?」

「毒をもつものはみな共通して、我々人間に怒りや憎悪の『気』をぶつけてくる。その『気』の強さに比例して、もつ毒の強さも強くなる。あの男には、その『気』が最も弱いもの――つまり精神力が強い良質なものだけを教えた。教えたもの以外は全て毒をもっているとな」

 この謎に包まれた男に関して、泉はだんだんわかってきたように感じた。

「あたしも、生き物に囲まれたあの時、何かそういう気配を感じた気がします」

 男は唐突に泉の方へ顔を向けた。やはりその顔立ちからは、年齢はもちろん、年齢層すら予測できない。

「君も『気』を感じた?」

 信じられないとでも言いたげな口調だった。

「あ、はい。たぶん……」

 少し自信をなくして答える。

「君はまさか、『狂った悪魔』なる怪物と対峙している者か?」

「え? 狂った悪魔……って狂魔? どうしてそれを……」

 狂魔のことは今のところ、組織の人間と国家の一部の人間しか知らない、国家レベルで管理されている超重要機密事項のはずだった。

「なるほど……」

 男は一人でぶつぶつ呟いたり頷いたりし始めた。

 この男のことを理解しようとすればするほどまた謎も出てくる、そんな先の見えてこない感じだった。

「あ!」

 不意に泉が、忘れ物でもした生徒のように慌てて立ち上がった。

「あたし、ここの生き物の毒を調べに来たんだった!」

 男が再び泉の方を向いた。

「さっき倒れた君が調べられるのか?」

「あはは、そうですね」

 頭を掻きながら腑抜けな自分を恥じる。

「私がいくつか取ってこよう」

「え?……えーっと……いいんですか?」

 意外な申し出に、一瞬泉は戸惑ってしまった。

「容れ物はあるか?」

 男が尋ねる。

「あ、はい」

 言いながら、泉は小屋の中から今日背負ってきたリュックサックを抱えてきた。

「この中にいろいろなサイズの容れ物が入ってます」

「わかった。では、なるべく多種に渡るように取ってこよう」

「ありがとうございます」

「その代わり、君が所属する組織に案内してもらいたい」

 男はさも自然な流れを装って条件を出した。





(とりあえず今日はもう帰ってくれ、か……)

 佐川はおぼつかない足取りで地上一階へ向かっていた。

 健康を意識して、朝の食事と訓練は決めた時間に行うようにしている。そして午前七時の今も、いつも通りの健康的な朝食を取りに一階の食堂へ向かって廊下を歩いているところだった。

 しかし、階段を上るにしても、足は重く、身体も何となくだるく感じられた。頭の中の不安が物質化して、強い重力の影響でも受けているようだった。

 二十歳を迎えてからというもの、毎日ベッドに入って数時間は眠りに落ちることができなかった。ここ最近は特にそれも酷かった。だが、昨日は珍しいことに、睡眠がいつもより十分に取れた。普段なら快調のはずだった。

 今、佐川の頭の中にあるのは、一つの懸念と一つの罪悪感だった。

 昨日、小塚の個室を訪れた時、佐川は自分の母親が狂魔であること、そして狂魔の血が自分の身体の中に色濃く流れているということを告白した。

 正直、小塚の表情が一変して寂しそうな目になった時は、もうだめだと思った。小塚が狂魔を憎んでいたことはもちろん知っていたが、二人の関係がだんだん親密になってきて、いつまでも隠している自分に罪悪感を感じ、夜な夜な恥じていた。そして心の底から勇気を絞り出し、それを言葉にした。

 だが、その後、小塚の方も想像の遥か上をいく衝撃的な事実を口にした。きっと小塚も佐川の秘密を聞いた時、そんな風に思ったのだろう。

『俺にも狂魔の血が流れている。安藤が言うには、俺はいつ狂魔化してもおかしくない状態らしい。しかも、そんな身体にしたのはここ、狂魔特別対策組織だ』

 小塚はそう言い、佐川は言葉を失ってしまった。

 やがて小塚は立ち上がると、物悲しい目でとりあえず今日はもう帰ってくれ、と佐川に告げた。

 一夜が明けたが、あれから佐川は小塚にどんな顔をして会えばいいのかわからずにいた。

(もう一度会いに行くべき?)

 佐川は小塚の言った言葉の意味をうまく理解できていなかった。あまりに突飛で、日をまたいだ今でもまるで現実感がない。だから小塚がどんな気持ちなのかもわからない。どう接すればいいのか見当もつかない。

 そして何より気がかりなのは、自分に狂魔の血が流れていると知っても、小塚はまだ好きでいてくれるのかという懸念だった。

 小塚もまた身体の中に狂魔の血が流れている。そしていつ狂魔化するかわからない状態。だがそう言われても、小塚が狂魔化したとして、果たして自分がどんな行動を取るか、想像できない。そもそも小塚が狂魔化する映像自体、佐川の頭の中の物質では構成不可能だった。

 だが、小塚の中に狂魔の血が流れているということは、以前自信をもって断言した「小塚君は絶対に狂魔じゃないよ」は、今となっては小塚を深く傷つけただけの、信憑性の欠片もない言葉になってしまったことになる。

 自分は嘘をつき、小塚を酷く傷つけた。もう、小塚が自分の言葉を二度と信じてくれなくなってもおかしくない。

(それくらいの罪を、あたしは犯した)

 小塚が狂魔の血をもつ自分を好きでいてくれるのかという懸念。

 小塚に嘘を言い、二度と信頼してもらえなくてもおかしくないくらいに傷つけてしまったという罪悪感。

 いや、本当に佐川の心の中を支配しているのは、また自分が一人になってしまうのではないかという『恐怖』。

 ただそれだけだった。

 佐川は孤独に沈んだ目で「和風バランス定食」のボタンを押した。





 佐川が食器を返却して廊下に出ようとしていた時だった。

 久しく聞いていなかったアナウンスが流れた。疑いようもなく人間らしい声ではあるが、おそらく管理課の人ならざる者の声だろう。

「飯島薫様と関水史郎様が、日比野徹さんとの面会を求めています。メンバーで許諾される方は、至急一階のエントランスホールまでお越しください」

 本来は、外部の人間が本部に訪れてきた場合、管理課の者がまず休憩室に電話を入れる。それでメンバーがだれも出なかった場合はこうして食堂と地下の全フロアにアナウンスが入ることになっている。

 基本的に小塚は暇があれば訓練施設に出向いているが、休憩室にいても緊急連絡以外の電話には出ない。隼人はまだ起きていないか、タイミング悪く訓練か食事で休憩室を出ているのかもしれない。日比野はおそらく研究室で研究の真っ最中なのだろう。

 食堂にいた佐川は、最も近いであろう自分が真っ先にエントランスホールへ向かうことにした。

 エントランスホールに着くと、先に受付の女性に自分が応対する旨を告げた。そうすれば、他のメンバーへ応対の必要がなくなったことを伝えてくれる。ちなみに、受付の者は管理課、食堂の者は治療課に属しているらしい。

 日比野に面会を求めているという二人の客人は、食堂がある方向とは反対側の受付の脇に置かれたベンチに腰掛けていた。

 一人は長く豊かな白いあごひげを生やした、年配だが体つきのいい男。もう一人は長身で、まだ三十代くらいの柔和な面持ちの男だった。どちらも知的な印象を与えるメガネをかけている上に、白衣を着ていた。二人とも学者か研究者か、とにかく岩谷や日比野に近い職の人物のようだった。

「お待たせしました」

 佐川が丁寧に頭を下げる。

飯島(いいじま)だ」

 あごひげの男が先に立ち上がって言った。

関水(せきみず)です」

 若い男も後に続く。

「野芝君のことは聞いている。悲惨な最期だったそうだな」

 飯島は憐れむように言った。

「……はい」

「私は国家の所有する研究所で感情物質を主に研究している。今日は毒性学者として日比野という男に呼ばれた、この関水に便乗して来させてもらった」

「日比野さんという方が、毒性学者として私の話を伺いたいということですが……ここは一体……」

 どうやら、飯島は狂魔の存在を認知しているらしいが、関水は何も知らされていないようだった。

「では、とりあえず研究室にご案内しますね」

 佐川は地下のフロアへ続くプラスチックのドアにパスワードを入力し、二人の案内を始めた。

 地下に出ると、関水はきょろきょろ回りを眺め出したが、飯島はここに来たことがあるのか、特に何かに興味をもつ様子はない。

 長い間階段を下り、パスワードを入力して研究室の扉を開くと、日比野はやはり謎の実験を行っていた。


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