story4‐‐闇夜の赤い影‐‐
助手席に小塚、真ん中に栗原と隼人、後ろに泉と佐川が、そして運転席にはボスが乗っていた。黒い大型車を猛スピードで走らせながらボスが説明した。
「いつも通り隼人、栗原ペア、小塚、佐川ペアだ。安藤君は隼人たちのところに加わってくれ。安藤君、我々はこの狂魔感知器を見ながら動く」
隣の佐川が画面を見せた。町の地理が簡単に白黒で電子化されていた。本部らしき建物が真っ白に塗り潰され、そこから十数キロ離れた建物のある一点を中心に赤い円が表示されている。メンバーがもっている発信機らしき複数の重なって移動している赤い点も表示されている。
「狂魔はその円の中にいる。現時点ではおそらくまだ中心点にいるだろう」
佐川が泉の分のケースから小型感知器を取り出して泉に渡した。
「狂魔化は始まってからある程度時間が経って初めて完全な狂魔と成り果てる。それまでに保護できれば運がいいが、できなければ同じ屋根の下にいる人はおそらく助からないだろう。まずは小塚たちが中心に向かう。栗原たちは蛇行しながら通りに人がいればどこかの家に入れてもらえるまで付き添う。そうして人々をなるべく避難させながら円の中心に向かう。常にトランシーバーで連絡を取りながら行動する。行動の変更があるときも非常事態でなければ私から連絡を入れる」
ボスの指示が終わり、泉は佐川が泉のケースから取り出してくれた銃とトランシーバーを受け取った。
「ケースは置いていっていいよ」
「……はい」
泉は緊張のせいか、とてもぼそぼそと言った。
「一番大事なことを言い忘れていた」
ボスは威厳のこもった口調で言った。
「絶対に一人で行動するな」
小塚以外は、と小さく付け加え、車のスピードをさらに上げた。
円に入る直前で車を止め、それぞれが行動を始めた。
「狂魔は移動するとこの円も一緒に移動する。一度移動を始めたらもう狂魔がこの円のどこにいてもおかしくない」
泉は栗原からさらに細かい説明を受けていたが、泉の目は焦点が定まらないようで、身体も震えていた。
「安藤さん? 体調悪いの?」
泉の様子に気づいた栗原が心配そうに尋ねた。
「違う」
震える泉の代わりに隼人が答えた。
「こんな暗い時間に外を歩いているのは、一般人――しかも女の子にとっては酷く怖いことなんだよ」
「そうなのか……腕、掴まってる?」
栗原が差し出した腕に泉は飛びつくようにつかまった。
泉が落ち着いてきたのを見計らって、栗原が説明を再開した。
「誰も言ってないから使ってないだろうけど、ケースの中に防護クリームが入ってたと思う」
泉は置いてきたケースの中身を思い出した。そんなものがあった気がした。
「我が優秀なる天才科学者が開発したものだよ。全員車に乗る前に全身に塗ってる。特殊な金属が練り込まれてて、切り傷でも打ち身でもダメージを軽減させてくれる。青緑でねばねばしてるけど、色はすぐ薄くなっていくし、実際効果は絶大なんだよ」
「……いろいろすごいんですね」
泉は弱々しい声で返した。
泉たちが歩いているのは住宅街で建物がかなり並んではいるが、明かりはたいして外まで届かないようだった。通りは静寂と闇に包まれ、人の姿は見受けられない。点々と立つ青い街灯が彼らの周りを照らすだけだった。
『状況を報告しろ』
トランシーバーからボスの声が聞こえた。
「栗原、他二人、異常なし。通行人はいません」
栗原は慣れた口調で応答した。
「あの、私たちが夜に出歩いてちゃいけないのって……」
泉は恐怖で声が震えないように気をつけながら訊いた。
「そう。狂魔が出るからだよ」
栗原は静かに返した。
「それに俺らも戦いにくいしな。正直、一般人を守りながら戦うのはかなり危険だ」
「狂魔ってそんなに恐ろしい存在なんですか?」
隼人が泉の質問に答える。
「どんな想像をしてもそれ以上に恐ろしい存在だ。運が悪ければ今日お目にかかれるかもしれないよ」
「おい、本当に運が悪いかもしれないぞ」
険しい顔つきの栗原に習って泉と隼人も感知器の画面を見た。
赤い円が移動していた。円の中心は泉たちの方へ向かっている。
「で、でも……この円ってあくまで狂魔の移動可能範囲だよな。中心がこっちに来てても俺たちのそばにいるとは……」
隼人が言いき切る前に彼らの視認できる距離に人影が現れた。
「いいかげんびくびくするな、隼人。それでもボスの息子か。現実と向き合え」
栗原が隼人の弱気な心持ちをたしなめる。
「安藤さん、言い忘れてたけど、神経が極限まで張り詰めて染まったあの真っ赤な目が、狂魔の証拠だよ」
栗原の言葉の意味はすぐにわかった。
わずか三十メートルの目の前の人間の目は、宇宙空間という闇の中で独り燃える太陽のように、真っ赤に輝いていた。
円の中心に向かって駆けていた小塚と佐川のトランシーバーに連絡が入った。
『こちら栗原、狂魔を確認。戦闘に入ります』
『中心点の家の処理は私が行う。小塚たちはすぐに栗原たちの援護に行け』
「……了解」
小塚が小さく舌を鳴らし、二人は向きを変えて元の道を戻り始めた。
「すれ違ったみたいね」
「ああ。先に行ってる」
今まで佐川に合わせて走っていた小塚は、いきなりスピードを上げ、数秒のうちに佐川の視界から消えてしまった。
栗原と隼人が銃口を向けると、狂魔は素早く二つの建物の間の陰に身を潜めた。
「理性崩壊型か」
隼人が吐き捨てるように呟いた。
栗原がトランシーバーに連絡を入れてから、泉たちは狂魔の隠れた物陰に慎重に近づいた。前衛の男二人は銃を構えながら、小型ライトで奥まで照らした。
そこには建物の間の細い隙間が奥の壁まで続いているだけで、他には何もなかった。見間違えたかと栗原と隼人が辺りを確認していると、二人の後ろにいた泉が目に恐怖を宿して叫んだ。
「う……上です!」
二人が屋根を見上げたと同時に、狂魔は隼人に向かって一瞬鈍く光った何かを異常な速度で投げつけてきた。
だめだ、間に合わない、と泉は思った。
狂魔の投げた物体は一直線に隼人の頭部に向かっていた。
泉が目をそらした直後、グサリと肉を裂き、骨を砕くような音がした。
恐る恐る隼人に視線を戻すと、反射的に手で防いだのか、右の手の甲をナイフが深く貫いていた。
栗原が発砲するが狂魔はすぐに身を隠した。
「やっぱり、もう第三段階まで移行していたか」
隼人が痛みにこらえて小さく呻き、栗原は屋根に銃を向けながら、三人は建物から距離を取った。
泉は栗原の後ろで隼人の右手に包帯を巻いて応急処置を始めた。
「すぐに終わります」
泉は小さい頃、弟の光が転んで怪我した腕を包帯で巻いてやったことがあるため、慣れた手つきですぐに包帯を巻き終えた。
泉が応急処置をしている間、狂魔の潜む屋根に特に動きはなく、栗原は周りを観察し始めていた。
「おかしい。狂魔が何もせずに僕らの動きを観察しているとは思えない」
栗原が呟くと、背後の住宅の植木が乾いた音を立てた。
三人ともまさかと反射的に振り向くが人影はなかった。
背後からこちらに駆けてくるよく潜めた足音には栗原がいち早く気づき、人影に向かって銃を撃った。人影は寸前で身体をそらし、弾は相手の左肩をかすめただけだった。
影は異常なスピードで走り寄り、栗原を蹴り飛ばした。
蹴った勢いに乗って一回転し、隼人たちの方を向いた狂魔は、不意に泉の平手で顎を垂直に突き上げられた。さらに浮いた状態の狂魔の腹部に泉のもう片方の平手が強くめり込んだ。
狂魔は後ろへよろけた。口から血を流していたが、すぐに泉に殴りかかった。狂魔の拳は一回一回が高速で強力なため、泉は反応がかなり遅れがちだった。何とか腕を痛めながらも頭部だけはかばうが、狂魔の不意の蹴りに全く反応できず、腰を強く打って転がり倒れた。
狂魔は泉に馬乗りになって力任せに泉の首を絞め始めた。
泉は両手で相手の両手首を掴んで抵抗するが、狂魔の筋力には敵わず、すぐに意識が遠くなった。
隼人は左手に拳銃を握っていたが、伸ばした腕が震えてうまく定まらない様子だった。その上狂魔は泉に接近しすぎているため、慣れない左手では泉を撃ってしまう可能性が十分にあった。無理に近づきすぎれば返り討ちに遭う。パニックになりかけたように周りを見回すが、栗原は蹴り飛ばされたときに頭を打ち、意識を失っているようだった。泉を助けられそうなものは何一つ見当たらなかった。
薄れゆく意識の中、泉の目は狂魔が狂おしい憎悪に顔を醜く歪め、激しく充血した目を大きく見開いた、髪の長い女性であるのを認識していた。この人たちが狂魔なんて名前を付けられた理由がわかった気がした。他の人間にとって彼女のような存在はあまりにも恐ろしかったのだ。
泉は自分が、さきほど狂魔が殴りつけてくるスピードをはるかに上回る速度で思考を巡らしているのを感じていた。これは高いところから落ちた人の目に、周りの景色がスローモーションで動いているように感じられるのと同じ現象なのだろうか、などと冷静に分析したりもした。
しかし首を絞め付けられる苦しみは確かにあり、抵抗する腕の力も抜けそうだった。
そろそろ瞼を開けていられなくなり、泉はゆっくりとその瞼を閉ざしていった。
不意に首を絞める力が急激に弱まる。目を開くと、泉の顔のすぐ横に刀が突き刺さっているのが見えた。
やがて身体が軽くなり、泉は横になって激しく咳き込んだ。
少し落ち着いてから見上げた。
目の前には、月光が横顔を照らし、金色の髪と同じく金のピアスが美しく輝く少年の姿があった。少年の片足は頭部を刀で貫かれた狂魔の女性の上に載っていた。
泉はこの少年――小塚が車から走り出ていった時、背に刀を背負っていたようだったのをようやく思い出した。
泉は助かったのを理解して安心したように気を失った。
やがて佐川とボスの車が駆け付け、車は泉と栗原を乗せて先に本部に戻っていった。
泉が後から聞いた話によると、小塚は屋根伝いに飛んできて、狂魔の頭に刺さっていた刀は、屋根の上から小塚が投げたものだったという。