story47‐‐戦支度‐‐
なかったはずの身体が戻った。
今まで見てたのはただの夢。
そんな感覚だった。
手足が指先まで自分の意志通りに動く。奇跡としか言いようのない出来事だった。
「体調はどうですか?」
目を開けると、目の前に泉が立っていた。
ここは病室で、昨日の手術の後、ようやく目が覚めたらしい。
「快調だ」
日比野は答えた。
生まれて初めて日差しが心地いいと思えた。
布団から腕を出し、改めてその義手の出来ばえを観察する。
「これが岩谷の残した形見か」
指でコツコツと叩いた。叩かれている感覚はあるのに、非常に丈夫で硬そうな音がする。
「明日までに自由に動けるよう、身体を慣らしておいてください」
泉が命令口調で指示を出した。
「また無茶を……」
日比野は無理難題を押しつけられたように言った。
「寝てる間に甘えん坊になってしまいましたか? この前の覚悟が失せてしまったようなら、もうあなたに用は――」
「わかっている」
泉に最後まで言わせず日比野が口を挟む。
「もちろん墓へはやることをやってから行くつもりだ。だが……罪の十字架は左足一本でもっていくものと思っていた……」
「岩谷さんは、十字架を左足一本で墓までもっていかせるような酷い人間じゃありません。あなたのように重い十字架を背負わせる時は、ちゃんと後ろから支えてくれる人なんですよ」
「岩谷…………」
日比野は窓の外の大空に目をやった。
「岩谷さんはきっと、天国であなたを許してくれますよ」
「それは俺が、ちゃんと墓まで十字架を背負って行けたらの話だ。それまでは許しちゃくれねえよ」
日比野は窓から手もとに視線を戻し、「岩谷の形見」を握りしめた。
「それで、俺が引き継ぐ岩谷の研究っていうのは何だ?」
日比野は人と目を合わせるのが得意ではないのか、ベッド脇の椅子に座る泉の方を向かず、正面に顔を向けたまま尋ねた。
泉は窓ガラスの向こう側の縁で身体をつついているスズメを眺めながら、日比野の質問をボーっと聞いていた。窓の向こうのスズメを見るというシチュエーションに、何か懐かしい感じがした。
「感情物質を通さないクリームの開発らしいです」
泉はみなまで言うのが面倒に感じられ、細かいことはわかりませんが、と付け加えるのをやめた。
日比野の表情に目立った変化はない。予想の範疇だったのか、それとも最初から興味はあまりなかったのか、はたまたそのどちらでもないのか、泉には判断できなかった。尋ねてきた時点でまったく興味がないというわけでもないようだったが、何しろ、今の泉は日差しが気持ちよくて、考えることすら気だるかった。
「それなら、俺も似たようなものを作った」
日比野は妙に物悲しそうな表情になって言った。
「地下の研究所の孤児たちの存在を、蒼井やここの感知器に感知されないよう、感情物質の生成を抑える薬を彼らに打っていた。俺は内側から抑えることしかできなかったが……そうか……やはりあいつは……」
「じゃあ、春頃には完成させてください。それがあれば、蒼井の唯一の力も絶たれます」
泉は言いながら、以前、真梨香と泉の部屋でこんなふうに窓の外のスズメを見ていたことを思い出した。
真梨香が狂魔化する前の最後の記憶だが、もうだいぶ前のことのように感じられた。親友の記憶が過去のものとなって、やがて薄れていってしまうのが、とても寂しく感じられた。家族も同じだった。最後に光と話したのはいつだったか、もはや思い出せない。最後に桜と博行の声を聞いたのは、一体いつだったろうか。
「一つ言っておく」
急に日比野が口を開いた。
口調はあくまで真面目くさったものだった。
「今のお前らじゃ、蒼井にはまず間違いなく勝てない」
泉の目がようやく目覚めたというように、ぼんやりしたものから適度に細められた真剣なものに変わった。
「何か作戦はあるのか?」
「とりあえずボスのツテを使って今準備しているのが、全員分の拳銃、食糧を一人一か月分、それともち運び可能な簡易医療機器です。具体的な作戦は決まっていませんが、あたしはここの管理室の者と共に栗原さんの捜索、他の全員は蒼井の捜索をしようと考えています」
泉は自分が組織に復帰する前に、すでに小塚たちに決められていた大まかな作戦を話した。栗原の捜索については自分で願い出たものだった。
「蒼井の捜索を全員で行え。おそらく蒼井は栗原を監視しているはずだ。蒼井を見つければ栗原の居場所もわかるだろう」
泉は口元に手を当て、少し考え込んだ。しばらくの間の後、渋々といった感じで了解した。
「……わかりました」
「それと、その程度の火力じゃ蒼井には歯が立たないだろう。強力な爆弾か何かは用意できないのか?」
まるでそれが当然であるというような尋ね方だった。
「頼れるあてがありません」
組織の中に爆弾に詳しいものはいないし、組織にそんな資料もない。それに、もう組織の人間はだれも手が空いていなかった。
「蒼井は十年以上も前からこの計画のことしか頭になかった男だ。計画を止めることは困難必至。富士山を一日で登り下りするようなものだ。たとえ何かの偶然で計画を止められたとしても、お前らのうち、一人でも生き残れたらそれは奇跡と呼べるだろうな」
あまり買い被りすぎているという感じはしなかった。むしろ日比野は、舐めてかかっている泉たちに憐れみの情すら覚えているようだった。
「毒なら……どうですか?」
急な泉の提案に、日比野は不意を突かれたように驚いた顔をした。
「毒? 毒か…………なるほどな……毒なら……」
日比野はしばらく独り言のようにぼそぼそと呟いていた。
「猛毒を用意できるのか?」
「たぶん」
「なら、いろんなタイプの毒を仕込んだ武器を作っておくといいだろう。俺も早く終われば、そっちを手伝ってやる」
「わかりました」
泉は心の中で真梨香に感謝した。直前に真梨香のことを考えていなければ、毒という発想はなかっただろう。真梨香と毒という単語が、決していい意味で繋がっているわけではなかった。二つの媒介となってしまった自分の亡き家族のことを思い出さずにはいられない。もはや条件反射のように、毒と聞けば家族と真梨香のことを思い出し、真梨香と聞けば家族と毒のことを思い出す。
「それでは」
言いながら立ち上がった。
「どんな種類の毒を入手できるのか、まずはそれを俺に教えてくれ」
「わかりました」
病室を出た泉は早速行動を開始し、まずは老舗和風料理店『都』へ向かうことにした。
佐川は待ち合わせ場所の町の道路の片側に車を止めた。コートを羽織って車を出ると、そばの建物に寄りかかってコートのポケットに手を突っ込み、相手を待った。
相手の連絡先はボスのデスクの中にメモとして残されており、連絡をつけると、武器の補充を快く引き受けてくれた。生前のボスの話によると、相手はボスの知り合いというより、国家の人間らしかった。普段は管理課の者に任せていたのだが、今は蒼井や栗原の捜索のため、管理室で何やら機械を動かすのに手いっぱいらしかった。
まだ昼前で外は気温が低く、上からコートを羽織っていても寒い。
それに、ここは町中のはずなのに、人通りが非常に少ない。吹きすさぶ寒風が、この辺りから人を遠ざけているようだった。しかし、待ち合わせ場所は相手から指定してきたのだから、仕方がなかった。
車の中で待っているのは何となく失礼かと思って出てきたが、やはり寒くなってきた。鼻や耳が痛くなり、そろそろ限界かと車に戻ろうとした時だった。
道路の向こうから大型のトラックが佐川の方へ走ってきた。佐川に近付いてもスピードを落とす気配がないため、待ち合わせの相手ではないのかと思ったが、トラックは佐川の目の前で急にブレーキをかけて止まった。乱暴な人らしい。
窓から白い髪を短く刈った年配の男性が顔を出した。
「待たせたな」
佐川はコートの内側のポケットから手帳のようなものを取り出し、男の顔の前にかざした。
「特別秘密治安維持組織」
男は手帳に書かれた文字を読み、笑顔を向けた。
「今日もほんとに若いきれいな女の子だな。代行してきた甲斐があったというもんだ」
この男はボスのツテの国家の人間を代行しているらしい。友人か同僚かそれとも家族か、とにかくこの男は国家の人間というよりは一般市民に見えた。
「それはどうも」
佐川は相手の機嫌を取るように穏やかな口調で言った。
「あんたも顔はいいが、前の子ほどミステリアスな感じじゃないな」
一応管理課の者たちは人間ではないから、少々ミステリアスな雰囲気はあったかもしれない。
「んじゃ、仕事をしますか」
男がドアを開けて降りてきた。
「まったく、さみぃなー」
ぶつぶつと文句を言いながら、寒そうに早足でトラックの後ろへ回っていった。
男は錠を外し、扉を開けた。
なぜこんな大型のトラックで来たのか、正直佐川にはわからなかった。だだっ広い空間に、長くて大きなケースが全部で十くらい積まれている。組織で使用しているケースと同じものらしい。
「中身を確認してくれ」
男はトラックに上がってケースの蓋を一つ一つ開けていった。
拳銃と弾がきれいに並べられていた。いざ取り出す時、躊躇ってしまうのではないかと感じてしまうほど美的感覚をくすぐられた。
結局注文した数きっかりの拳銃と弾があり、佐川はオーケーですと言って組織の車のトランクを開けた。
「ここにお願いします」
「おお」
男は返事をしていかにも重そうにケースを運んだ。
「あたしも手伝いますね」
「おお、すまんな。本当は若い女の子に重労働なんかさせたくないんだが。どうも年を取り過ぎてそうも言っていられない」
「構いませんよ。あたしたちは特別に訓練を積んでいる身ですし」
「前の女の子たちも気を遣って手伝ってくれたなあ」
懐かしそうに男は言った。
時間短縮を図ったのか、それともやはり純粋に手伝いたくなったのか、佐川には判断しかねた。
確かにこの男性は男前に見えなくもないが、年をだいぶ重ねているのも確かだった。彼がもち運ぶには少々重すぎるようだった。
佐川は片手ずつケースの取っ手を掴み、二つ一気に車へ運んだ。
「嬢ちゃんたちはやっぱり力もちだなあ。最近の町の男は貧弱なやつばっかで呆れかえってたもんだぜ」
男は感心したように言った。
「まあ、日々鍛錬してますから」
佐川はさらに別のケースを運び出しながら言った。
「そうか。あんたたちは、俺たち市民のために頑張ってくれてるんだよな」
本当にただの市民のようだった。だが、市民にしては拳銃を見ても動じることがなかった。もう何度も代行しているのかもしれない。
「この町の平和を……冴木町……じゃなくて……黒江町を守ってくれてありがとうな」
急に男の雰囲気が変わった気がして、佐川は危うくケースを落としそうになった。そういえば、黒江町の前は冴木町という名前だった気がする。この男の人は、今ではもう珍しいその年代の人だということだ。
ケースを運び終わってから、男が再び話し出した。
「俺たち黒江町の市民はな、実は……みんなもう気付いてるんだ」
佐川は自分の心臓の鼓動が、早鐘のように激しくなるのを感じた。彼は今、物凄いことを言おうとしている、そう直感した。
「あんたたちは夜、俺たち市民のために『怪物』と戦ってくれてるんだろ?」
佐川は自分の耳を疑った。
語尾は形式的な疑問形にこそなっていたが、すでに市民の間に狂魔の存在は既知の事実として広まっているようだった。
佐川が頭の整理をつけられないでいる間に、男は続けた。
「怪物は俺たち自身だってのに、俺たちは自分で解決せず、他人のあんたらに完全に押しつけてる」
「そんなことは……」
佐川は口を開きかけたが、男が口元に人差指を当てた。
「今のうちに言っておきたいんだ」
男は静かな口調で続けた。
「俺たちは別にあんたらに恨みをもってるわけじゃない。でも実際のところ、昔も今もあんたたちは怪物の犠牲になってるんだろ。本当にすまねえと思ってる。恨んでてもここまで酷いことはしねえよな。俺たちは自分の命欲しさに、あんたらの命を代わりに危険に晒してる……」
男の口調はまるで、犯罪を犯し、罪悪感に苛まれる人間のようだった。
「俺たちは…………怖いんだ」
怖い、恐怖、死。佐川の脳裏に、連鎖的に過去の悪夢のような映像が溢れ出してきた。毎晩のように思い出す、家族の無惨な死。
佐川が顔を上げると、男は目頭を押さえていた。その口から出てきた声はひっくり返り、そして言葉は震えていた。
「怪物の存在はもちろん怖い。でも……もっと恐ろしいのは、自分の命欲しさに、あんたらの命を代わりに差し出そうとする俺たちの心の醜さだ!」
男は俯き、顔を両手で押さえながら泣き始めた。
佐川は男の言葉が心の芯に刺さって直接伝わってくるように、目の前で泣く男の気持ちを理解できた。
人間は一度何かに恐怖すると、それが間違っているとわかっていても、本能的な自分の行動に抗えなくなる。だが、その恐怖は愛する家族をもっているがため、親しい友を失いたくないがため。佐川には、それがちゃんとわかっていた。この人はきっとそんな中、自分の間違った行動に抗い、こうして組織の手伝いをしているんだろう、そう感じた。
「しっかりしてください」
佐川は男の肩を優しく揺すった。
「確かに、あたしたちは先日組織のリーダーを失い、怪物に関わっているが故に葬儀すらさせてもらえませんでした」
男が涙を拭い、佐川の方へ顔を上げた。
「他にも仲間が一人亡くなりました。そしてさらに別の仲間の一人も今、とても苦しんいます。きっと、あたしやあなたたちよりももっと深く、酷く苦しんでいます。その苦しみは、もはやあたしたちの理解を超えているかもしれません」
脳裏に目を真っ赤に染めた栗原の顔が浮かび上がったが、佐川は拳を固く握りしめ、その顔を振り払った。
「あたしたちはこれからその仲間を助け、そしていつかきっと、怪物の発生を防ぐ方法を見つけます。だから……」
佐川は改めて男の目を見つめた。
「あたしたちが自分の命を懸けて戦っているんだから、あなた方市民も、そう簡単に命を落とさないでください。そしてできれば、あたしたちを陰から応援してくれていると、とても心強いです」
(ボスだったらきっとこう言うんだろうな)
男は涙ながらに訴えるように言った。
「俺たちは……俺たち黒江町の罪びとたちは……全員であんたたちを応援している。だから……この町を……俺たちの未来を……守ってくれ」




