story42‐‐二人の天才科学者‐‐
休憩室に姿を見せた小塚の顔はやつれて見えた。地下での興奮はもう鎮まってはいるようだったが、不機嫌そうに泉を睨んでいる。
「何のつもりだ?」
すぐ後ろから佐川も休憩室に入ってきた。驚いた顔をしている。
「頭は冷めましたか?」
泉はあくまで気持ちを込めず、単調に訊いた。
「ああ」
小塚は自分のエリアのソファに腰を下ろし、目の前の机に足を載せた。
「それで、どうしてお前がそこに座っている?」
小塚がボスのデスクの方を向いて言った。
泉は一段高くなった床に置かれているボスのデスクから小塚を見下ろしていた。
「あたしがボスだからです」
「お前は野芝東一郎の代わりにはなれん」
「そんなつもりはありません。あたしはあたしなりに、狂魔特別対策組織のボスとして蒼井を止めます」
小塚が泉を睥睨する。ボスとして認められないようだった。
佐川は二人からは一歩身を引き、扉のそばに立っていた。傍から二人を静かに見守ることに決めたらしい。
「どうして俺をここに呼んだ?」
小塚は足を組み換えながら詰問口調で尋ねた。
「……日比野の命を助けます」
泉の言葉は単純明快というよりは、わざと説明を省いて相手の反応を窺うかのようだった。
小塚の目の色が変わり、泉に刺すような鋭い視線を向ける。
「お前がいくら助けようと、俺はあいつを殺す」
小塚の意志は揺らいではいなかった。
「まだ頭は冷えていないようですね」
泉が上から目線で言った。
「別に俺はお前らが日比野から情報を聞き出すのを止める気はない。その後で――」
「だから頭が冷えてないと言ったんです」
語調を強めて泉が遮った。
小塚は険しい目つきでまっすぐ泉を睨み返している。
急に張り詰めた空気に、佐川も動揺を隠せずそわそわする。
「岩谷さんが亡くなった今、あたしたちには日比野の力が必要です」
「人を犠牲にして得た力に何の意味がある?」
「あたしもそう思って、さっきは日比野を殺そうとしました。しかし、小塚さんがここに来る間、よく考え直しました。そして今では後悔し、深く反省しています」
一度自分の愚行を恥じるように目を伏せた後、再び口を開いた。
「隼人さんから聞きましたが、小塚さんは先ほどこう言ったそうですね。『知らないうちに狂魔としてこの世から淘汰される存在になるより、こいつの被害者として普通に殺された方が、あいつらにとってどれだけ幸せだったか』と。ならばわかるはずです。狂魔としてこの世から淘汰された孤児たちが、どうすればこの世界のために犠牲になれたと言えるのか」
小塚はソファに腰まで沈んで目を固くつぶっていた。
佐川も小塚の心の葛藤を悟り、こらえ切れなくなったように静かに泣き始めた。自分の誓いと孤児の願い、この二つに引き裂かれる小塚の心の痛みを、自分のことのように感じているのかもしれない。
「ここで日比野を殺したら、孤児たちの死も、本当に無意味なものになってしまいます。日比野を生かして組織で利用する、それが孤児たちの死を犬死にと呼ばないための唯一無二の方法です」
小塚は目もとに腕を載せ、歯を食い縛った。
やがて、真実を認めなければならないことを悟ったように、その頬を一条の光が伝う。
一週間後。狂魔特別対策組織本部の三階。
泉は病室のドアを静かにノックした。返事はなかったが、もともと期待はしていなかった。あくまで無言を貫き通す病室に、泉は堂々と扉を開けて入った。真冬の透明な日光が淡く室内を照らしている。
年配の男がベッドの上に身体を起こしていた。髪の下に巻かれた包帯から覗く顔には皺が寄り、頬の骨の輪郭がきれいに浮き出ている。ただの病弱の年寄りにしか見えなかった。だが、飛び出した爬虫類のような眼球だけが、この男――日比野徹の唯一残された身体的特徴を顕著に表していた。
放心したようにまっすぐ前を見ていた日比野は、泉の姿を目にして何かを思い起こしたように身体を一瞬震わせた。
泉を見たまま何か言いたげに口をパクパク開け閉じしている。
「ぅ……や……やめてくれ……殺さないでくれ!」
日比野はすでに飛び出している目をさらに見開き、悲鳴を上げるように言った。今にも眼球がポロリと落ちてしまいそうだった。
泉はそばの丸椅子にゆっくりと腰を下ろす。
殺すつもりはありません、と言いかけたが、言ったところで取り乱している今の日比野を落ち着かせることはできないだろうと思い、やめておいた。
「いいお天気ですね」
代わりに泉は窓に視線を向けて言った。日比野の返事を求めて言ったわけではなく、ただ純粋に思ったことを口にしただけだった。
「だ、黙れ化け物! 早く出ていけ!」
日比野の口から『化け物』や『怪物』といった言葉が出るであろうことは予想の範疇だったが、それでも心の中にある狂った自分の記憶に深く刺さった。事前に心の準備をしていてよかったと泉は思った。実際に破壊衝動に駆られ、我を失ったように暴れた事実がある以上、反駁するつもりはなかった。ただの事実として自分に受け入れようと決めていた。
「雲一つありません。さすがは冬ですね、空が澄み渡っていて真っ青です」
泉はなおも窓から空を見上げて言う。
「人は死ぬ間際の死刑囚に憐れみの目を向けてそういうことを言うそうだな。お前もきっとそうなんだろう。俺を殺そうとするお前らは、俺の死を憐れみ、偽善者ぶってそういうことを言うんだろう!」
日比野は息を切らし、感情を高ぶらせていた。
「……恐怖、疑心、怒り……あなたは蒼井と一緒にいる間に、とんだ疑り深い人間になってしまったんですね。あたしにわかる限り、あなたの感情物質は禍々しい気でいっぱいです」
泉は気味悪がることなく、日比野の爬虫類のように飛び出した目を見つめていた。
「お前……やっぱり――」
「少しは落ち着きましたか?」
日比野は泉の純白の髪を見て何か言いかけたが、泉に口にするなと言うように遮られた。
泉がまっすぐ日比野を見据えた。威圧をするわけでも何かを探るわけでもなく、ただ話をする礼儀として相手の目を見つめているようだった。
「あなたは、今でも死にたいと思いますか?」
「当たり前だ。人の肉を切り開いて生きた内臓を弄ぶことこそが、俺の生きる意味そのものだ」
日比野は躊躇うことなく言い切った。
「本当ですか? 本当にそれがあなたの気持ちですか?」
泉は相手を見つめたままゆっくり噛んで含めるように訊いた。
「どういう意味だ? 俺が蒼井に操られてるって言いたいのか?」
「そうではありません。ただ、あなたの本心を知りたいと思っているだけです…………捧尽!」
泉はドアの外に呼びかけた。
すぐに慇懃なノックをしてから、病室に捧尽が入ってきた。手に数枚の紙をもっている
日比野は目を細めて捧尽を観察した。怪しいものでも見るような目つきだった。
「岩谷さんの言う通り、もとから本当に疑り深い性格の科学者のようですね」
日比野は驚いたように視線を泉に戻した。
「岩谷? なぜその名前が出る? あいつはもう死んだんじゃ……」
「はい。確かに岩谷さんはもう亡くなりました。しかし彼は、次々と発生する事件の裏で、狂魔を操っていると思われる人物の存在に気付き、自分の命が狙われることを悟ったようです。そして、自分の全ての研究資料と日記をデータにして保管していました。それもいくつも複製して厳重に、です。まるで、敵が蒼井のように恐ろしく強い相手だとわかっていたようでした。天才科学者の脳がそう結論付けたんでしょうね」
日比野は天才科学者という言葉にピクッと片方の眉を上げた。
「……だから……何だ?」
日比野は妙に落ち着いていた。泉はすぐに、それが偽りのものであることに気付いた。
「あなたは、その存在を知った時から岩谷さんを負かしたかった、自分こそが日本一の科学者だと自負していた、そうですね?」
日比野は何も答えない。
「だけどそれには、普通に対抗してもまったく歯が立たないのをあなたは自覚していた。岩谷さんは天から才能を授かった本物の天才。だからあなたは、岩谷さんの手の届かない法の外の分野に手を伸ばした」
岩谷への尋常ならぬ嫉妬。それが、二十一世紀初頭から著しく発達を始めた人間の脳が、日比野にもたらした豊かな感情。泉は現代の人間のほとんどが、日比野と同じように、何らかの豊かな感情を獲得しているだろうと確信していた。最初に栗原に会った日に彼が口にしたことを思い出した。『人間の心は豊かになりすぎた。それは心が繊細になっていったとも言い換えられる。つまり、人間の心は豊かになると同時に脆くもなっていったんだ』。この人間社会に変革をもたらした根本的な原因。この脳の発達、豊かな感情の獲得こそが、現在日本が危機に陥っている全ての元凶だと泉は考えている。そしてそれが今、急激な加速をもって世界の崩壊に繋がっていることも、泉の冴えすぎる脳は本能的に感じている。
「大学には俺の方が岩谷より先に入学した」
日比野が何ともなく過去を語り始めた。
「俺は小さい頃から周りの人間とまったく違った。俺の才能は科学一本に明らかに偏っていたんだ。それを理解できない周りの人間を、俺は軽蔑の眼差しで刺し貫いてやったな。そして超一流大学でようやく、俺の才能を理解できる人たちに出会えた。俺は十年に一人の逸材だなんてもてはやされたが、二年後には、今度は百年に一人の天才と称される人間が現れた。それが岩谷だ。周りの人間はまたすぐに俺から離れていった。百年に一人の天才の前には、十年に一人の逸材なんていてもいなくても変わらない。その事実が、俺には痛いほどよく理解できた。だが、俺の脳の一部が、一度味わったあの幸福を否定することを許さなかった。それには『嫉妬』って名前が付いているらしいな。俺はせっかく抜け出した孤独の闇の中に、また引きずり戻された」
「岩谷さんもあなたと同じことを感じていたようでした。それも、あなた以上に。岩谷さんは、自分と同じ目線で話せる人が周りにはいなかったと、日記に綴っていました。科学に関してはだれと話しても話にならず、科学を研究する以外に自分の虚ろな日々を紛らわすことができなかったそうです。ただ一人、日比野徹という男を除いて……最初に言葉を交わした時、初めて本当の意味での友人になれると感じたそうです。岩谷さんは、その時、自分のような人間が他にもいると、孤独なんかじゃなかったんだと気付いた、そう日記に残していました。しかしすぐに、日比野徹に関する絶望するほどショックな噂を聞いたそうです。『人体実験』。証拠はありませんでしたが、岩谷さん自身、心当たりがあったんでしょう。日比野徹の科学は、岩谷さんが信じる科学の正義――人類を科学で正しい道へと導く――に相反し、全面的に否定するものでした」
日比野は罪悪感に身を切り裂かれるのを必死に耐えようとするかのように、堅く瞼を閉ざしていた。
「頼む……その日記……俺に見せてくれないか?」
瞼を開いた日比野の目は潤い、日光を反射して熱く輝いていた。
……もう何か月ここに閉じ込められているんだ。
毎日実験、観察、記録の繰り返し。いいかげん嫌気が差す。
科学を憎みたくすらなってくる。
香苗、沙希、雛子……こんな研究放り出してお前らに早く会いたいよ。
目の前の卵の黄身のようにとろとろなクリームの上に、粉上に砕いた金属をまぶした。
知らず知らずのうちに溜息がこぼれる。
「こんな道を選んじまって……俺は本当に幸せだったのか?」
口に出して自問したが、それはだれもいない研究室の静寂さを際立たせるだけだった。
また気付かぬうちに溜息をついていた。
ガラスケースの横の蓋を開け、金属を練り込んだクリームを中に入れる。ケースの天井に取り付けられた管状の金属は、背後の大きな黒い機械に繋がっており、その機械のスイッチを押すと、管が淡く光った。そしてすぐに背後の機械からけたたましいサイレンが鳴る。
結局、また失敗。もう何十回と失敗している。すでに成功するだろうなんて期待はしていない。ただ、脳が導き出す解答を一つ一つ潰していってるだけだ。まだ半分も終わっていない。
椅子に座って息抜きにプライベート用のパソコンを開く。
ホーム画面に、この前家に帰らせてもらえた時に家族全員で撮った写真が映し出された。家族三人にペンダントとしても渡した。
自分の両足に絡みつく二人の娘の笑顔が、一瞬疲れを吹き飛ばす。
やがていつものように疲労の感覚が戻り出し、溜息が口から漏れ出る。
……毎日三桁に上る回数の溜息が出ている気がする。もう四か月はここに閉じ込められているから、累計すると、千回を超えて……いや、一万だ。こんな単純な計算も間違えるのでは、もしかしなくても脳が導き出した解答はどこかに欠陥があるのだろう。
ボスを呼ぼうか。いや、一昨日呼んだばかりだ。
ふと画面右下の時間を目にした。もう日付が変わる頃だった。
慌てて日記の画面を開く。
もう日記を始めて数か月になるが、男でも意外と長く続くものだ。
まあ、毎日気が済むまで同じようなことを綴っているだけだが。
今綴り始めたものも、昨日や一昨日と大差ない。単にストレスを発散させているだけかもしれない。
『二〇五二年、十月一八日。
結局、今日も実験は失敗。組織のメンバー、特に隼人のために新しいクリームを開発中だが、これがなかなかうまくいかない。
実験が失敗するたびに自分が無能の人間に思えてならない。だが、新しく安藤泉が加わって、組織からさらに頼りにされている以上、あいつらを裏切るようなまねはできない。俺から科学を取ったら何も残らないからな。きっと香苗も沙希も雛子も、俺が仕事で使えない人間だと聞かされたらショックを受けるだろう。ショックを受けなかったら、それこそ俺がショックだ。
人工人体パーツの開発の方はうまくいきそうだ。こちらは見込みがある。せいぜい一か月程度でどれも完成するだろう。日比野の実験データを利用させてもらっている。あいつの実力は本物だ。倫理的に多少の問題はあるが、最近の事件の陰に隠れている謎の男は、相当手ごわい相手のはずだ。そんなことを気にしている場合ではないだろう。
今日、改めて日比野の実験データを見直したが、やっぱり何度見ても鳥肌が立つ。あいつの思考回路には俺にないものがある。
大学で初めてあいつと話した時もそう感じた。あいつとあの時話した内容は、今でも一言一句まで覚えている。開口一番に、俺の研究資料を盗んだら殺す、って言われたな。まったく、疑り深いというか人間不信というか。おそらく、過去にそういうことがあったんだろうな。俺はあの時言葉を交わして、すぐにあいつが切れ者の科学者だって気付いた。あいつの言葉には、〈研究〉に対する真摯な誇りが感じられた。まるで、唯一の本当の家族だとでも言うように〈研究〉を大事にしていた。あんな立派な心は俺にも他の人間にもない。俺はあいつのあの心を尊敬していた。
俺は生まれて初めて、本気で友人になりたいと望んだ。俺と同じ孤独を知り、俺と同じ科学者の頭脳をもち、そしてあの、俺にはない、研究に対する真摯な誇りを心に宿した男――日比野徹。いつか俺たち科学者の正義についても語り合いたいと、期待に胸を膨らませていたのを今でも覚えている。
そこにあの人体実験の噂だ。日比野、俺はお前を同じ科学者としては尊敬していたが、同じ人間としては憎悪する。お前だけは、俺たち科学者のあるべき道を共に歩んでいける仲間だと思っていた。
あの事故が自業自得だとは言わない。ただ、俺にはお前が事故を起こすような人間には見えなかった。お前は〈研究〉に対しては、常にだれよりも注意深かったばずだ。最初は、狂魔に関する未知の領域に手を出して予想外のことでも起こったのかと思ったが、俺にはやっぱり、お前はそれでも唯一の家族である〈研究〉を誤って事故に導くような男には思えないんだ。
だがこんなことを言っても、今さら過去は変えられない。もし変えられたら、お前の人体実験の噂を聞いた時点で迷わず変えていただろう。
そろそろ眠るか。科学者だって身体は大事だからな。
久しぶりに、夢の中でもいいからお前に会いたいよ、日比野。人体実験を始める前の、あのひと時に戻りたい。亡霊姿でもいい。ちゃんと俺の夢の中に現れろよ! 待ってるからな。』
「そしてその約一か月後。二〇五二年、十一月二四日、岩谷さんは蒼井に殺され、この世を去りました」
日比野は捧尽から渡された岩谷の日記を眺めていた。泉の命令でここに来る前、捧尽は自分のメモリーに残されたデータから岩谷の日記を印刷していた。
「この身体は……俺が岩谷を裏切った報いか。左足一本で墓まで背負わなければならない十字架だな……」
日比野はしばらく日記を見つめていたが、泉が黙って待っていると、意を決したように自分から話し出した。
「蒼井のことが知りたいんだろう。俺が知っていることは全て話そう」
「お願いします」
「……蒼井の正体は、最初の『神隠し』の狂魔から人工的に生み出された二人の子供のうちの弟だ」
いきなり衝撃の事実を口にした。二〇四三年の嵐の夜、『二度目の神隠し』を起こしたと思われる、消息が知れない二人の子供のうちの一人があの蒼井秀一だと目の前の男は言っている。
「まさか、『二度目の神隠し』を起こしたのって……」
泉は一呼吸置いてその先を言おうとしたが、
「違う、蒼井秀一じゃない」
日比野に強い口調で否定された。
泉は蒼井が超危険人物であるという先入観をもっていたため、日比野の蒼井を擁護するような口調に嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「……じゃあ、兄の方なんですか?」
恐る恐る訊いてみる。
「そうだ……兄の蒼井ヒロ……いや、この名前じゃあんたたちにはわからないな」
まるで、泉たちが知っている別の名前があるかのような言い草だった。急に空気が張り詰めた。
「二〇四三年の嵐の夜、『二度目の神隠し』を起こしたのは……狂魔特別対策組織のメンバー、栗原京だ」




