story3‐‐狂った悪魔‐‐
「エレベーターはいつ誰が必要になるかわからないから、急用の時しか使えないんだ」
階段を降りながら栗原が説明した。
「悪いけど、訓練の後で疲れてても足で上がってね」
「はい」
休憩室があった地下六階からだいぶ下りるんだな、と思いながら泉は栗原に質問してみた。優しそうな雰囲気だったため、あまり緊張しないで話すことができた。
「あの、確か休憩室は地下六階でしたよね」
「そうだよ」
「もうあそこから何階も下りてますけど、過ぎていった階には何があるんですか?」
「地下七階から地下一一階には病室。地下一二階から地下一五階は訓練施設。それより下は僕もあんまり行ったことないけど、研究室とか管理室とかがあるはずだよ。あ、休憩室がある地下六階には、組織のメンバーの個室もあるよ」
「休憩室より上の階には何があるんですか?」
「医療設備が充実していて、薬品保管庫や治療室、手術室がある。僕らがそこで治療を受けた後入院する場合は、一階より上の病室で、日光の中で気持ちよく入院できるんだ」
どうやら泉は地下一二階に連れて来られたらしい。階段を下りた先の壁に『B12』と彫られていた。少し歩いた先の扉の中央にも大きく『B12』と彫られている。扉の先はさまざまな黒いトレーニング用の機械が両隅に並べられた、やたらと細く長い息苦しい部屋だった。奥に黒い巨大な塊が見える。
栗原は真ん中を軽い足取りでどんどん進んでいく。田舎者の泉は両側の機械を物珍しげに眺めながら、栗原の歩調に合わせて少し早足になる。
「今度ここ片付けてくれるようボスに頼んどかないとな。ここの機械は滅多に誰も使わないんだ」
栗原は独り言のように呟いた。
少し歩くと、巨大な黒い塊は箱状で、中に空間があるのが窺えた。
箱への入り口に扉はなく、そのまま入ることができた。現れたのは十畳ほどの密閉されたスペースで、入るなり栗原が説明した。
「ここは一対一の模擬戦をするための場所。まあ本番でこんな接近戦するのは小塚くらいだけどね。それでも僕らも一応最低限の格闘術の訓練はしてるわけ。だから素人の君に負けるわけにはいかないんだよ」
栗原は奥へ行って泉を振り返り、二人は向かい合った。
「さ、君の秘伝体術とやらを僕に披露してくれ」
「え……でも……」
泉は口ごもった。
「伝授してくれた祖父には、絶対に悪人にしか使うなって言われてて……」
栗原が笑って言った。
「安藤さんは本当に正直者なんだね。僕、そういう純真な心をもった人、好きだよ」
あまりそういうことを言われ慣れていない泉は、耳まで赤くなった。ここまで栗原に好印象をもっていたためか、ドキドキしてしまう。
「でも、実際のところ僕らは悪人なんだよ」
栗原の表情が陰った。
「僕らの仕事は狂魔を殺すこと。でも、狂魔は人間だから、僕らは人間を殺してることになる。狂魔を殺してもいいなんて法律もない。僕らは……立派な人殺しだ」
栗原が泉の顔を見つめた。泉はまだ躊躇っているようだった。泉の目には、どうしても栗原が言葉通りの人間には映らなかった。
「まだだめそうか……」
栗原は急に声を低くし、目つきが鋭くなった。
「あのねえ、本番は命を賭けた一本勝負の殺し合いなんだよ。本番でもそんなんだったら間違いなく天国行きだよ? ここはもう、今まで君が暮らしてきたようなのどかな場所じゃないんだ。君が何も知らずに平和に暮らせていたのは僕らが命を張って戦っていたからなんだ。今度は君が君の周りの人たちを守ってあげなきゃいけない。君には力がある。だからその義務がある」
泉は栗原の言葉の意味は理解できた。しかし、それでもまだ俯いていた。
栗原は深い溜息を吐いた。
「本当に僕は君に何かしなきゃいけないみたいだね」
栗原はゆっくりと泉に歩み寄っていった。
「僕はボスに、君の力量を量るよう命令された。僕はボスの命令なら、それがどんなことでも軽んじたりしない。命令通り遂行する」
栗原は泉の目の前で足を止めた。
そして栗原が泉に向って手を伸ばした――その時。
泉が急に動いたかと思うと次の瞬間、栗原の目にはシーンを切ったように自分の腹部に泉の手の平がめり込んでいた。
栗原は後ろへよろけた。
「すみません、栗原さん。もう、覚悟を決めました」
栗原は呼吸を荒く乱しながら言った。
「いや、もう結構だ。次は内臓を潰されそうだ。ただ、本番は躊躇なくできるといいな」
少し落ち着くと、栗原は優しい声に戻って謝った。
「さっきはごめん。怖がらせちゃったよね」
紳士の言葉だった。
「い、いえ。こちらこそ……すみませんでした」
泉は慌てて謝った。
こんな優しいお兄さんでもいたらなあ、と心の中で呟く。
「もっと注意しとくべきだったよ。さすがはボスが連れてきた新入りだ。いい意味の化け物ばかり連れてくる」
泉を連れて休憩室に戻った栗原は、まだ泉に入れられた腹部のあたりを押さえながらボスに言った。
「安藤さんの訓練は小塚じゃないと話になりません」
ボスは書類から目を離さなかった。
とても忙しいようだった。
「それはよかった。佐川が来たら銃の方も見てもらう」
「じゃあ、僕は昼食を取ってきます」
休憩室を出ようとしていた栗原は、不意に足を止めて泉の方を振り返った。
「安藤さんはお昼どうするの? まだ食べてないでしょ?」
「あ……はい……えーっと……」
そう言われても、本部に来たばかりの泉にはお昼をどうすればいいのかなどわからず、まごついていた。
「栗原にいろいろ教えてもらいながら昼食を取って、また戻ってくればいいんじゃないか?」
ボスが泉に言った。
書類を見たままなのに、非常に気が回る人なのだと泉は感心した。
「じゃあ、お願いします、栗原さん」
泉は頭を下げた。
「はいよー」
栗原は快く引き受けた。
組織の建物からいくらか離れた店に案内してもらう間、泉は栗原から聞いた狂魔の話を整理していた。
狂魔は殺戮衝動に駆られた人間で、個人差が大きいが、一定量以上のストレスで発症する病気に近いものらしかった。狂魔化すると、負の感情物質というものが狂魔化した人間から放出され、他者の脳に蓄積する。多量の負の感情物質を溜めると不快感や嘔吐、抑鬱状態を引き起こすという。さらに狂魔の身体能力は人間のそれをはるかに凌駕しており、目や耳の感覚器官も黒人のどこかの民族並みに優れているそうだった。だが同時に、著しい内臓の機能低下も生じるようで、寿命は非常に短い。狂魔と戦うにはそれ相応の訓練と才能が必要で、今のエリート中のエリートが揃うまでは組織の被害が絶えなかったという。
大昔、自己の利益のため、互いを殺しあっていた人類はやがて平和と安定を求めるようになり、争いは絶えた。人間社会は長い年月を経て発展していった。
社会の平和と安定化に伴い、情緒豊かな人間が生まれるようになった。彼らは人並み以上にものを感じ、理解することができた。しかしそれ故、負の感情によるストレスが常人を上回り、許容量を超えて身体に異常をきたす者が現れ始めた。それが狂魔だという。
狂魔の歴史は浅く、初めて出現したのは記録がある限りでは二十一世紀初頭らしかった。
「人間の心は豊かになりすぎた。それは心が繊細になっていったとも言い換えられる。つまり、人間の心は豊かになると同時に脆くもなっていったんだ。だから今、こうして国家、いや、人類レベルで危機に陥ることになった。ほとんどの人はまったく気付いてないけど、人類は本当に今、古くてぼろぼろになった今にも崩れ落ちそうな橋の上にいるんだよ。でも、人々は周りを眺めては危険に気付かずのんきにはしゃいでる。もし日本全国で人間の狂魔化が始まったらもうどうしようもないっていうのに……」
泉は、栗原の言葉には怒りや憎しみといった感情がこもっているように感じた。だが、それが何に対するものなのかはわからなかった。
栗原が案内してくれたのは、年季の入っていそうな小さな木造建ての『都』という老舗和風料理店だった。
他に客の姿は見当たらない。
泉は自分の家から本部に近づくほどに田舎から都会になっていくのを感じていたが、この店はそれでもまだ泉の住む田舎とほとんど同じような景色の中に建っており、泉の心を落ち着かせた。
注文した料理が出てくると、安価な割に非常に手の込んだものだとわかり、泉はちょっと真似してみようかとさえ思った。
「おじさん」
泉は奥で泉たちの料理を作っていた店主らしき年配の男性に声をかけた。
「この料理、淡白なのに深みがあります。どうやって作ったんですか?」
「おお、嬢ちゃん。この料理の良さがわかるのか。料理やってるのかい?」
年の割にがっしりした大柄の店主は、うれしそうな顔をして早くも打ち解けたように泉と話し出した。
「家でちょっと作る程度ですけど」
「おお、そうかそうか。だがこの料理の秘密だけは言えんな。何しろこの近くの山でしか取れない珍品が関わってんだ」
意外とあっさりくれた男性のヒントに、泉は心当たりがあるのかすぐに反応した。
「もしかして、あの幻のタンポポですか?」
男性は目を丸くした。
「嬢ちゃん、あそこの山登ったことあるのかい? 嬢ちゃんのような子が登れるところじゃないんだがなあ……でもいい勘してるが、あそこの山にはもっと良いものがあるんだよ」
二人のお喋りは長々と三十分は続いた。
店主の奥さんと思しき女性は、やや老齢のようだが整った顔立ちで、上品そうな雰囲気を醸し出す静かな人だった。今も若々しかったが、若い頃は今以上に美しかったであろうことを窺わせた。
その女性との話のネタに尽きてきた栗原は、遠慮がちに泉に声をかけた。
「安藤さん、そろそろ戻ろうと思うんだけど」
泉は慌てて言った。
「あ、すみません。あたし、すっかり話し込んじゃってましたね。それじゃあおじさん、また来ます。奥さんも、何だか長々と話しちゃってすみませんでした」
女性はにっこり微笑んだだけだが、結構よ、と言っているのが泉には伝わった。
結局泉と栗原が本部に戻った時にはお昼が遅くなったこともあり、もう日は傾きかけていた。
休憩室にはボスの他に泉の知らない若い癖っ毛の男と、小柄で金髪、耳に金のピアスをつけた少年がそれぞれ自分のものらしきソファでくつろいでいた。
癖っ毛の男は入ってきた泉と栗原に気付いたが、少年の方は、田舎者の泉が見たこともないような小型の電子機器から延びるイヤフォンを耳につけて、電子機器の画面に見入っている。
「隼人、小塚、彼女が新入りの安藤さんだ」
休憩室の二人に気付いた栗原は、なぜか組織にすでに加入したかのように泉を紹介した。
癖っ毛の男が泉に近づいてきて挨拶した。
「こんにちは、野芝隼人です」
泉は何か違和感があるように感じた。
「ボスの息子です。よろしく」
「ああ、どこかで聞いた名字だと思いました」
泉はボスの方を見ながら違和感の正体に納得したように言うと、もう一人の少年の方に視線を移した。
「携帯見てるのは小塚だよ」
視線に気づいた隼人が歩いていった。ソファの淵に膝を載せ、泉たちに背を向けていた少年の視界に入り、泉が来ていると指で泉の方を示した。
少年は振り返っただけだったが、ヤンキーのような派手な格好とその鋭く冷たい目つきから、泉に強い悪印象を残した。
「栗原、安藤君を射撃場に案内してくれるか」
ボスは相変わらず書類に目を通しながら口を開いた。
「あ、俺も安藤さんの射撃見てみたいな」
隼人も射撃場へ向かった栗原たちについて休憩室を出ていった。
射撃場ではすでに先客が銃を撃っていた。人型の的の頭部の中心を的確に撃ち抜いている。
その女性は栗色の髪を肩まで伸ばしていた。女性が撃ち終えるのを待って栗原が声をかけた。
「佐川、新入りの安藤さんだ」
佐川が振り返り、泉の姿を捉えると、満面の笑みで抱きついた。泉と同じくらいの体躯で線が細く、まだ顔にわずかに幼さが残る若い女性だった。化粧っ気がないのにきれいに見える。もともと容姿端麗な人のようだった。
「待ってたよー、泉ちゃん。ここ男ばっかだったから。ボスから聞いてるよ」
声は高く、調子も明るい。根っからの明るく元気な女性に思えた。
佐川は泉を射撃位置に立たせて、手に小型の拳銃を握らせた。
泉は意外な重さと初めて見る危険な武器に緊張して、力が抜ける感じがした。
「あの頭狙って撃つだけよ。音はほとんど出ないように改良されてるから、心配しないでいいよ」
佐川は丁寧に構え方を教えた。
「難しいけど、なるべく手先がぶれないようにするのがコツね」
すっかり時間が経って休憩室に戻る途中、泉はのぼせたように真っ赤になってみんなに慰められていた。
「泉ちゃん、気にすることないよ。誰だって最初はあんなもんだから」
「あれ、佐川って最初から全弾ピンポイントじゃなかったっけ」
「空気を読めよ、隼人。大丈夫だよ、安藤さん。安藤さんには僕らじゃ相手にもならない秘伝体術があるのも事実なんだ」
休憩室に入ると、ボスが真っ赤になっている泉の顔を見て大笑いした。
「やっぱり君は神崎さんのお孫さんだな。あの人は体術オンリーの接近戦でやっていたよ」
泉の顔色が変わった。
「祖父はここで狂魔と戦っていたんですか?」
やや間を置いてからボスが答えた。
「君のおじいさんはここの元ボスだ」
他のメンバーも知らなかったようで、泉と同じように心底驚いているようだった。
泉は表情を歪めてボスに訊いた。
「じゃあ、祖父が亡くなったのって……」
広い真っ白な休憩室に似つかわしくない黒々とした重苦しい沈黙が流れた。
「そうか。君には事故という形で知らせてあったんだったな」
ボスは沈んだ表情で言った。
「本当は君のお父さんは――」
言い終わらないうちに、緊迫した空気を複数のサイレン音が引き裂いた。
泉以外の者が反射的にポケットから小型の機械を取り出してその画面を見つめた。
「悪いがこの話はまた今度だ。君も車に乗って一緒に来てくれ。動き方を車で教える」
ボスが出ていくと、休憩室にいた全員がソファやテーブルに置いてあったそれぞれのケースを持ち、ボスの後を追って走り出ていった。
もやもやした心を何とか振り払って、泉もさっき栗原に示された自分のエリアのケースをもって、みんなについていくことにした。