story30‐‐天命‐‐
翌日、まだ日も昇らない早朝。
泉と太一は昨日と同じ登山服に身を包んでいたが、今回は小振りのリュックサックだった。
「昨日泉ちゃんたちが宣伝してくれたからお客さんがたくさん来るかもしれないが、よろしく頼んだぞ」
太一はハルにそれだけ言うと、先に山へ向かって歩き始めた。
「まったく、経営が苦しいこんな時に、食材をとりにいくわけでもないのに山へ行くなんて……」
ハルが素っ気ない愚痴をこぼした。
「すみません、あたしのために……」
「いいのよ。宣伝の効果があったら、チャラにしてあげるから」
整った顔に少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「では、行ってきます」
泉は雛子にも手を振って太一の後を追った。
昨日より歩くペースはやや速かった。
どうやら昨日はだいぶ泉に合わせてくれていたようだった。
黙って歩くことに集中していると、あっという間に昨日山菜採りをしたあたりまで来た。
「まだここは四分の一くらいだからこれからだぞ。高くない山だと言っても、一日で登り下りするのは俺でもハードだ」
そう言いながらも、太一はほとんど息を切らした様子を見せずに歩いていく。
「はい、がんばります」
泉は少し呼吸が乱れている程度だったが、太一よりも体力を消耗しているのは明らかだった。
もう日は昇っているようで、薄暗い木々の間にところどころ細く神秘的な光が差していた。
それからしばらく登ると、前方に木々の隙間が大きく開き、日光に明るく照らされている場所が見えた。
半歩前を歩く太一が泉の方を振り返った。
「あそこは眺めはいいが、崖になっているから気をつけるんだぞ」
そこは太一の警告通り、落ちたら間違いなく命を落としそうなほど急で、岩がむき出しの崖だった。
泉は崖の縁からある程度の距離を取ってその景色を望んだ。
「おおー、すごいですねー」
泉は目を輝かせていた。
それほど高くはないが、この山の森に入る前の町並みや、隣の山の山麓に広がる樹海が見渡せた。泉にとっては滅多に見ることのない貴重なものだった。
眺望をはっきり頭に刻み込んでから、また歩き始めた。
泉は疲れを紛らすため、考え事に耽ることにした。
昨日、太一はこの山で変なお坊さんに会えるかもしれないと言っていた。どう変なのかは想像し難いが、お坊さんが山にいるなら修行でもしているのだろうという見当はついた。険しい山道を何時間も走るのか、冷たい滝に打たれながらじっと我慢しているのか、それとも一日中念仏を唱えたりしているのか、さまざまなイメージが泉の頭の中を往き来した。そういえばと、太一が昨日神秘的な滝もあると言っていたのを思い出し、やはり滝に打たれる修行の線が濃厚かと思い始めた。
そんなことを考えながらも、泉は少し寒さが増してきたような気がした。
最初は標高が高くなってきたせいだと思っていたが、周囲をよく見ると、登るにつれて緑が増え、日光がほとんど遮られてきたことも、寒く感じた要因かもしれなかった。
そろそろ考え事で疲れを紛らすことができなくなってきた頃、ようやく太一が口を開いた。
「そろそろ滝が見えてくるはずだ。その先はもう頂上まで一息だ」
確かに二人のそばに美しい透明な水が流れる川があった。
周囲はまるで山そのものに生命力を与えられたかのように緑が増えていき、それに伴って日光もさらに届きにくくなっていくようだった。
泉たちの目の前に現れた滝はそれほど大きなものではなく、高さもせいぜい五メートルほどだった。
だが、緩やかに流れる水は水というよりもむしろ、幻想的な青白い光にすら見えた。
「まさに神秘ですね」
泉は滝に見とれながらも、雰囲気を壊すまいと静かに言った。
「頂上付近は緑が多くなっているんだ。夏に来れば涼しくて最高だったかもしれないな」
確かに風はなくなったが、気温はまた少し低くなったように感じられた。
不意に泉は眉をひそめた。
「あれ……滝の下に何かありませんか?」
「ああ、きっと例の坊さんだな」
二人は滝壺の縁のぎりぎりまで身を乗り出して滝の下のものを観察した。滝壺の底の大きな岩に座って目を閉じ、鼻から下を水面下に沈めた、お坊さんらしからぬ長さの髪の男の姿があった。白い僧服を着たままのようだった。
さらによく観察すると、男は口に種類の違う大きな葉を二枚咥えていた。
「この葉は二つとも猛毒だ」
太一は愚かな人を憐れむような口調で言った。
「この人……生きてるんですか?」
「死んでるかもな」
太一は放っておけとでも言うように先へ歩き始めた。
泉がしばらく男を眺めていると、男は急に立ち上がり、目を閉じたまま静かに口を開いた。
「憐れみが十パーセント、心配が二十パーセント、そして好奇心が六十九パーセント、その他が一パーセント」
こんな時期の水中にほとんど全身を沈めていたというのに、言葉は震えるどころか、はっきりと断定する口調だった。
泉は呆然として男を見つめていた。
男はまた口を開いた。
「混乱が九十九パーセント」
泉はしばらくして、ようやく男が口にしているのが泉の心理状態であることに気付いた。
「そいつは心が読めるんだ」
奥から太一の声がした。
「そうなんですか?」
「……心が読めるわけではない」
男は静かに目を開けて泉の目を見た。
「実際、君が今何を考えているのか、詳細にはわからない。私は、君の〈気〉がわかるだけだ」
男は滝壺から上がり、太一の通った道から山の頂上へ歩き始めた。
「あの、寒くないんですか?」
「この程度、もはや苦ですらない」
男は歩くたびに僧服から水をぼたぼた落としながら言った。
頂上にはすぐに辿り着いた。
日光が冷えた身体を優しく包み込むように温めていく。
正面にはここよりもさらに高い山が堂々とそびえ立っていた。景色の全てが先ほど見たものよりも一回り小さく、そして一回り広かった。
泉の足もとに、岩の隙間から顔を覗かせる立派なタンポポがあった。
「幻のタンポポだな」
太一も一人懸命に生きる小さな黄色い花を見つめていた。
「かわいい……」
「立派に咲いているというのに、なぜか寂しいな」
太一が虚しく呟いた。
泉はふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、お坊さんはどこへ行ったんでしょうか?」
太一が反転して指を差す。
「あの小屋だ」
太一が指差す方向に、小さくて簡単な作りの木造の小屋が建っていた。屋根の上では、男が全身に日光を浴びながら正面の山を見つめて座禅を組んでいた。
景色に酔いしれたようにその場に座り込んだ太一を置いて、泉は小屋の正面まで行って男に声をかけた。
「あの、今度は何をしているんですか?」
「向こうの山に禍々しい気配を感じる」
「禍々しい気配? あの……あなたは何者なんですか?」
泉が恐る恐るというように尋ねる。さっきから男は謎めいたことばかり口にしている。興味をそそられずにはいられなかった。
男は少し間を空けてから言った。
「……中に聖像がある」
泉は小さくお邪魔しますと言って小屋の中を覗いた。何一つ物がなく、板がむき出しになっている。暗がりの奥に、確かに顔が描かれていない小さな菩薩の銅像があった。
「これは社だ」
外に出てきた泉の頭上から声が降ってきた。
「え……じゃあ、ここは神社なんですか?」
心外そうな口調になっていた。
「そうだ」
言われてみれば、僧服を着たお坊さんがいる以上、神社があっても不思議はない。
「あなたは……ここで何をしているんですか?」
とても、ただ修行をしているだけのお坊さんには見えなかった。
「時が来るのを待っている。天命を果たす時が来るのを……」
「天命?」
「そうだ。決してその時が訪れてはならないのだが、天命であるが故、必ずその時は訪れる。そしてその時は刻一刻と近づいている」
泉は固唾をのんで男の話を聞いた。男の醸し出す謎めいた雰囲気が、言葉の信憑性を一段と高めていた。
「天は、我々人間はどんな種類にせよ幸せを感じると、周りの人間にも同じ幸せを感じさせようとする――つまり幸福感の根源となる物質を周囲に放出すると教え諭された。君もあるのではないか? 幸せそうな人を見ると、自分も何となく幸せな気分になることが。幸せの逆もまた然り。私は精神的苦行によって真の苦痛や真の孤独を知り、同時に真の幸福と真の愛情を思い出した。ここに来る前のものも含めれば、すでに苦行は十五年に渡る。まだまだ未熟ながらも、私はようやっと天の思し召し通り、他者の心にまで影響を与えることができるようになった身である。そうして人間を正しい道へ導かせることこそ、まさに私が天から仰せ付かった天命である」
「……つまり、あたしたち人間が、道を踏み外そうとしているということですか?」
疑問形でこそあったが、もはや確信に近かった。
「残念ながら、そういうことだ」
泉と太一は何とか日が沈み切る前に『都』に戻ることができた。
店の中には、客の姿がまだ一組だけあった。
最近のこの国にしては珍しい、二人とも七十代くらいの老夫婦だった。元気そうに話してはいるが、夫婦ともにもはや骨と皮だけになるほど痩せ衰えていた。何かの病気を患っているようにも見える。
「お、いらっしゃい」
客に気付いた太一が店主らしい口調で声をかけた。
「いらっしゃいませ」
一方、泉は今にも疲労に押し潰されそうな声だった。
そのまま、少し休んできますと太一に言い残して、重い足で階段を上がった。途中、今日の客足のよさを話すハルの声が聞こえた気がした。
寝室に入ると、雛子が真白とともに遊び疲れたように眠っていた。
荷物を隅に放って、布団も出さず、そのまま雛子の横に倒れ込んだ。畳だから痛くはない。
そして数秒と経たずに、睡魔に襲われるがままに寝入った。
小塚は身体に重みを感じた。
目を開けると、眼前に白い天井が現れた。
すぐに、自分が蒼井に、比喩ではなく本当に手も足も出ずに斬り刻まれたのを思い出した。
今こうして病院にいるということは、どうにか命は取り留めたのだと気付いた。
ゆっくりと身体を起こす。だがそれでも身体中に激痛が走った。
佐川が心配しただろうなと急に感じた。
まだ動けそうにない以上、暇だった。
隣のテーブルに、見舞いらしき花を差した花瓶と、見事に真っ二つになった携帯など、斬られた時に所持していたものが載っていた。
「アニメは見れねえか……」
呟いた後で、美奈子がすでに死んでいることを思い出した。
(いつか元気にさせるって約束したのに……ごめんな……)
美奈子は許してくれるだろうかと、表情を沈めながら考えた。
小塚が退院したのは、目覚めてからわずか三日後のことだった。
「あんな大怪我だったのに、本当にもう完治したの?」
驚きと心配の入り混じった声だった。
「ああ」
二人は隼人の運転する車の中で、何日かぶりに言葉を交わしていた。小塚は助手席、佐川と田川は後部座席に座っていた。
「まあとにかく、退院おめ――」
「祝いなら死んでからか全てが終わってからにしろ」
小塚はぶっきらぼうに遮った。
「相変わらずの悪態ね。元気そうで何より」
本心から皮肉の言葉が出てきた。
「それより……蒼井の話だ」
「……蒼井?」
今まで二人の会話を黙って聞いていた隼人の表情が、急に険のあるものに変わった。




