story2‐‐狂魔特別対策組織‐‐
放課後、泉は校長直々に校長室への呼び出しを受けた。校長の表情から何か重々しい雰囲気を感じたが、成績も悪くはないし、教師の反感を買う心当たりも一切なかった。
真梨香の下駄箱に先に帰るよう書いた手紙を残すと、泉は深呼吸して校長室のドアをノックした。
「入ってください」
校長室の中は西日が差して部屋全体が黄色く染まっていた。
校長と目が合うと、泉はドアを閉め、やや緊張気味に挨拶をして軽く頭を下げた。
「そう緊張することはありません。もう日も暮れるし、すぐに帰ってもらいますから」
校長は常に微笑を浮かべていた。元来柔和な顔であるだけに、いっそう穏やかそうな人物に見えた。
「はい。で、お話というのは」
泉の声は、緊張と好奇心がほどよく入り混じって落ち着いていた。
「話というのは、明日の午前中もう一度ここに来てもらいたいというだけなんです。ただ、他の生徒には聞かれたくなかったものでしてね。どうやら、あなたに会いたいという方がいらっしゃるんですよ。ちゃんと日が昇ってから一人で来てくださいね。制服じゃなくて結構です」
校長は自分でドアを開けた。
「さ、さ、もう帰ってください。日が暮れちゃいますよ」
校長は押し出すように泉に帰るよう促した。
泉が学校を出てきた時には、もう日が傾き始めていた。
全員下校し終えたようで、生徒の姿は見当たらず、校門で日直の先生が最後の生徒である泉を待っていた。その先生は非常に短気なことで有名だったため、怒られることを覚悟で小走りで校門へ向かったが、事情は聞いているらしく、静かな口調で早く帰るようにと言われただけだった。
いつも怒ってばかりで苦手意識をもっていた先生に急に優しくされると、こんな人にも素敵なところはあるんだなどと思ってしまう。もちろん自分が偏見をもっていただけで、それが当然であることも、泉はよく承知している。
ここ黒江町とその近隣の町では特殊な条例が施行されており、未成年が日が沈みきった後に外を出歩いていると、厳しく補導される。明確な理由はわからない。ただ、ここ最近急にそういう習慣が出現したらしく、子供はみなそれが当たり前だと思って生活している。他の町では、人々が夜普通に出歩いているのを知っているが、このあたりの人たちは、どうしてそんな恐ろしいことができるのかと、みんな不思議がっている。夜はいつどこで、どんな恐ろしい人間に出くわすか知れない。人殺しに出くわし、実際に近所の人が亡くなったという話は毎週のように耳に入る。特に泉くらいの年齢の者は、生まれた時からそう教え込まれているため、非常識極まりないことに思えてならないのだった。
泉は無意識のうちに急ぎ足で歩いていた。
道の両側の田んぼには、もう稲刈りが終わって乾き、白くなった土が残っているだけだった。住宅もいくつも目に入り、デザインこそそれぞれ異なるが、毎日何度となく目にしている。泉は見飽きた景色を眺めるのはやめて、前だけ見て、意識的にも歩調を速めてまっすぐ歩くことにした。
加藤家の殺人事件。
校長の柔和だが重々しい表情。
そして泉に会いたいという謎の人物。
泉の頭の中には不安な何かが渦巻いていた。確かな根拠はないが、これらは全て明日わかるような気がしてならなかった。
家に着いた時には、もう西日が赤くなり十分補導されるほど夜の帳は下りかけていた。
泉の母親――安藤桜は泉が帰ると、ヒステリックな様子で問い詰めてきた。
「こんな時間まで何してたの! 心配したのよ。加藤さんの家のことは知ってるでしょう。心配かけないでよ」
何とか母親を落ち着かせると、泉はバッグを居間のソファに放り投げ、すぐに夕飯の支度を始めた。
四十分ほどかけて夕飯ができたときには、すでに博行が帰宅していた。桜のことを心配して早く帰ってきたようだった。
四人で食卓を囲み、光が学校の話を始めた。
「今日ねえ、体育のリレーやったんだけど、僕、最後に蔵人君抜かして一番になったんだよ」
「おーすごいな。僕も小さい頃は足が早かったんだぞ」
博之は誇るように言った。
「じゃあ、明日の朝、どっちが早いか競争しようよ」
光は負けず嫌いらしいことを提案した。
それを聞いた桜が笑って言った。
「だめよー、ひかり。お父さんもう、そんなに早く走れないんだからー。駆けっこならおねえちゃんとやったら?」
「え? あたし? あ、うん、いいよ」
考え事をしていた泉は、急に話を振られてしどろもどろになりながら返事を返した。
「よーし。もうおねえちゃんには負けないからね」
その後もしばらく光の話が続いた。
泉は何とか話が途切れる瞬間を待った。
そしてその瞬間が訪れると、泉はさりげなさを装って呟いた。
「そういえば明日、先生に呼ばれたから、休みだけど学校行くことになっちゃった」
泉の言葉に博行が固まった。
「校長先生か教頭先生に呼ばれたのか?」
今度は泉が固まり、目を丸くした。
「なんでわかったの? そう、校長先生だよ」
「…………そうか」
博行は溜息を吐いて俯きかけたが、すぐに顔を上げて話題を変えた。
深夜〇時。
光と桜が眠ったのを見計らって、泉は机に突っ伏している博行に声をかけた。
「お父さん。さっきの話だけど、何か知ってるの?」
「まだ起きてたのか」
博行が泉の姿を確認して言った。
そして一度ゆっくり深呼吸してから続けた。
「泉は別に成績は悪くないし、学校で悪さをするような人でもないだろう。だから休みの日に学校にお前が呼び出されたとしたら、おそらくおじいちゃんの秘伝体術に関することだろう」
「でも、あたしおじいちゃんの言いつけ通り、一度だけあんまり人がいないところでひったくりに使っただけだよ」
心配そうな口調で泉が言った。
「それでも嗅ぎつけられたんだろう。そういうところだからな。悪いが僕もほとんど知らないんだ」
それ以上は教えてくれず、博行は俯いて階段を上がっていった。
泉も自分の部屋に戻り、その日はいつもよりちょっと遅い就寝となった。
眩しい光と微かな温もりを感じて泉は目を開けた。
窓の外のすっかり色を変えたもみじの真っ赤な葉が脳を刺激して目が覚めた。
日が昇ってまだ間もなく、気温はかなり低い。壁にかかった時計はまだようやく六時を過ぎたところを示していた。
適当な服に着替えてコートを羽織り、玄関のドアを開ける。風は凍えそうなほど冷たいが、日向に出ると心地よい。郵便受けから新聞を取り出してざっと目を通す。
どうやら国は、人が病にかかりやすくなったことが原因と思われる人口の激減と、それにともなう都会の消失、町の過疎化、そして第二、第三次産業の退廃を深刻に問題視しているようだった。
海外との貿易も凍結し、食糧の生産についても議論されていた。
調査の結果、二十一世紀初頭は一億人を超えていた人口は、今ではその十パーセントの一千万人にまで減っているということだった。
つい三十年前までいくつもの大都会の存在したこの国は、今やそのほとんどを失い、自然が町を侵食していった。その結果完全に自然に囲まれたこのあたりに至っては、黒江町とその他三つの隣町を合わせてもやっと数万人を数える程度だった。
泉が学校に着いた時、すでに来客は校長室で待っていた。校長は中には見当たらず、大柄のがっしりした初老の男がソファに腰を下ろしていた。
「すみません。お待たせしてしまいましたか?」
「私も今来たところだよ」
初老の男は厳かな声で言った。
「君が安藤君だね」
「はい」
男は腰を下ろすよう促した。低いテーブルを挟んだ向かいに座る男は威厳に満ち、緊迫した雰囲気を醸し出していた。
「校長先生には席を外してもらった。関係者以外には話せないようなことなのでね。ところで、君はこの世に悪魔がいると思うか?」
「悪魔……ですか?」
急な質問に泉は戸惑った。しかも考えたこともないような質問だった。何か哲学的な意味が込められた質問なのかと考えたが、泉にはその真意が、本当にそのままの意味であるように感じた。
「答えにくい質問だったかな。でも、残念ながら答えはイエスだ。少なくともこの町にはいる。我々の仕事はその狂った悪魔共から人々を守ることだ。君にもそれを手伝ってもらいたくてね。人手が多いに越したことはない」
泉は次々進んでいく話にほとんどついていけなかった。
「あの、全然わからないんですけど」
泉が正直に言うと、男は小さく笑った。
「すまない。いきなりだったな。百聞は一見にしかず、だ。ついてきてもらえるかな」
男は立ち上がった。
「そういえば、確認するのを忘れていたが君はおじいさんから何か教えてもらっていることがあるな?」
「祖父曰く、秘伝体術だそうです」
「やっぱりか」
その言葉には何か懐かしむような表情が窺えた。
教員用の駐車場に見慣れない黒い高級そうな車が停めてあった。
車は泉の知らない道を走り始める。
「まだ自己紹介していなかったな。私は野芝東一郎、狂魔特別対策組織の長だ。ボスと呼ばれている」
ボスは誇らしく言った。
「あの」
安藤は気になっていたことを聞いた。
「父は私があなたに呼ばれるのがわかっていたみたいなんですが」
「警察幹部の安藤博行さんだな。基本的に私たちのことは一般人には秘密にされているが、役職の高い一部の人には私たちに協力してもらうことがある。君のお父さんには狂魔の被害が公になってしまったときに通り魔殺人が起きたことにしてもらっている」
「狂魔って何ですか?」
「さっき話した悪魔、文字通り狂った悪魔だ。詳しいことはそのうちわかるだろう。それも近いうちに」
ボスは最後の言葉はトーンを落とし、暗い顔で呟くように言った。
二時間以上走り、そろそろ黒江町を出るかという頃、ようやく車は止まった。方角的には、黒江町の北西端のほとんど人家のないあたりらしい。
車を降りた泉の目の前には、巨大なコンクリートの病院のような建物があった。
「こんなところに病院?」
「まあ、病院だが、名前は狂魔特別対策組織本部だ。病院の体裁を取ってはいるが、偶然見つけたりしたんでなければ、一般人がここで治療を受けることはないだろうな」
泉は初めて黒江町に、黒江総合病院以外の病院があることを知った。だが、あまりの静寂さに、とても患者が入院したり看護士が働いているようには見えなかった。救急車も見当たらないし、廃病院だと勘違いしてもおかしくはない。
ボスは入り口前の階段を上がり、自動ドアから建物の中に入っていった。
まず円形の広いロビーのような場所が現れた。いかにも病院らしいが、受付以外に人の姿が見当たらない。
ボスは、受付の左側のベンチのそばにあるガラスのドアにパスワードを入力して奥へ進んだ。
廊下の突き当たりには金属製の扉があった。
再びパスワードを入力して扉が自動で開き、その先の階段をボスに続いて下りていった。
「そういえば、さっきから階段を下りてますよね。地下に行くんですか?」
泉は何か珍しいものはないか探しながらボスに訊いた。
「我々が使うのはほとんど地下の方なんだよ」
ロビーのような場所とは雰囲気がまったく違った。無機質なコンクリートの床と壁、天井に点々と取り付けられた青白い蛍光灯。廊下の扉も地下のものは全て金属製で電動のものになっているようだった。まるで電力や費用も全て地下に集中しているようだ。
やがて、ボスが一つの部屋の前で止まった。
「ここは休憩室だ」
頑丈そうな電動の扉は電子音を立てながらスムーズに開いた。
部屋は非常に広かった。壁、床、天井を始め、ソファとそのそばに置かれた低いテーブル、コードの繋がった給湯ポットとそれが乗った机、どれも七つずつ部屋を区切って置かれており、全て汚れ一つない純白で思わず泉は目を細めた。
部屋の区切り方は、入って右側に六つ、左側に一つとなっている。
ボスは右側の一番手前のソファで横になっていた男に声をかけた。
「栗原、起きろ」
「……んー……はい」
栗原と呼ばれた若い男は寝ぼけ眼で返事をすると、泉の姿を見て完全に目を覚ました。
「あ、君が安藤さん? ボスから聞いてるよ。栗原京です、よろしく」
栗原は言い終えると、給湯ポットが置いてある机の引き出しから、インスタントコーヒーを取り出した。ソファのそばのテーブルのカップに粉末を入れ、ポットから湯を注ぐ。常時湯が入っているらしい。
栗原は幸せそうな表情でコーヒーをすすった。
ゆっくりと時間をかけ、よく味わうようにコーヒーを飲み終えると、入口正面の奥に一つだけ取り付けられた流しまで歩いていってカップを洗い、もともと置いてあったテーブルに戻した。
不思議そうに眺める泉に気付いた栗原が説明した。
「ここのものは流し以外ほとんどメンバーの分だけ用意されてるんだよ。このエリアが僕のもの。君のは僕の正反対のあっち」
栗原は隅っこの泉のエリアを指で示した。
「あたしここに入ること決まってるんですか?」
泉は驚いたように言った。
「あれ、ボス、違うんですか?」
栗原も驚いたような顔をした。
いつの間にかボスは、左側の特別感ある自分のエリアのデスクで、メガネをかけて書類に目を通していた。
「そのつもりだが、何となく君は断らない気がする」
ボスが泉の方に顔を向けた。
「もしあたしが断ったら他の人を探すんですか?」
泉が尋ねる。
「今の日本は人口が激減してる。君のような逸材は見つからないだろう。でもまあ、君が断れば、誰かが代わりにここに加わることになるだろうな」
ボスは静かに続けた。
「それに君なら断らないはずだ。ほとんど説明はしていないが、命に関わる非常に危険な仕事であることは察しているだろう。君なら、見ず知らずの他人の命であっても、自分の代わりに危険に晒されるくらいなら、自分の命を差し出そうとするんじゃないか?」
「あたしのこと、知ってるんですか?」
「君じゃない。君のおじいさんを知っている。彼の秘伝体術もこの目で直に見たことがある」
秘伝体術と聞いて栗原が思い出したように言った。
「そういえば、君の力量を量らなきゃいけないんだったな」
「えっ、でも、あたしまだ訊きたいことが……」
「おじいさんのことはまた後で。どうせ僕は知らないし。狂魔のことだったら、最近の出現率ならどうせ明日か明後日、運が悪ければ今日にでも知ることになるよ」
栗原はボスの方を向いた。
「じゃあボス、行ってきますね」
泉は突然事故死したという自分の祖父について、ボスに聞きたいことがたくさんあったが、半ば強引に栗原に連れられて部屋を出ていった。
休憩室で一人になったボスは、遠い過去を思い出すように呟いた。
「よく似ていますよ、神崎さん」