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狂魔伝  作者: ラジオ
第一章
19/67

story18‐‐均衡‐‐

 泉は目覚めた翌日の昼に退院し、別れを告げに本部に足を運んだ。

 休憩室には誰の姿もなかった。

 雛子を探そうかと思ったが、ここのどこにいるのかまったく見当がつかなかったため、先に組織の人を探すことにした。

 射撃場に入って誰もいないのがわかると、隼人のもとに見舞いに行って入れ違いになったのかと感じ始めた。

 だめもとで食堂に向かうと、佐川が遅めの昼食をとっていた。

「佐川さん」

 泉は走り寄りながら声をかけた。

「泉ちゃん。お休み取るんだって?」

「はい。すみません、こんな時に」

 佐川は笑って返した。

「いいのよ。あたしたちよりも泉ちゃんの方が岩谷さんのことショックだっただろうし。ゆっくり休んできて」

「ありがとうございます。正直、人の死がこんなに寂しいものだとは……知りませんでした」

 泉は俯いて言った。

「そうだよね。あ、雛子ちゃんはあたしの個室にいるから、ちょっと待ってて」





 昼食を終えた佐川はまっすぐ自分の個室に泉を連れていった。

 色鮮やかなインテリアに囲まれた個室のベッドに、雛子が天井を見つめたまま寝ていた。

「雛子ちゃん、今朝話した泉ちゃんだよ」

 佐川の言葉が聞こえていないかのように雛子は身じろぎ一つしなかった。

 雛子の肌は人形のように真っ白で血色がよくなかった。目は曇っているかのように何の輝きも映していない。

「これから、あたしのおうちで一緒に暮らそ」

 雛子は泉の言葉にも何の反応も見せなかった。

「連れてってあげて」

 佐川が泉に言った。

 泉がそっと雛子を抱き上げた。

 抱き上げたその小さな身体に、泉は何の重みも感じなかった。中身が何も詰まっていないかのようだった。思わず涙がこみ上げてくる。

 佐川が腕時計を確認している間に泉は涙を拭いた。

「そろそろボスが隼人さんのお見舞いから戻ってくるはず」

 泉はそのまま雛子を抱え、佐川と共に駐車場まで出てくると、ボスが車の前に立って待っていた。

 ボスは一瞬雛子に視線を向けたが、その目を見てまたすぐに伏せてしまった。

 佐川の見送りでボスの車は泉の家へ向かった。





「ボス」

 だいぶ田舎の方まで来たところで、後部座席に座っていた泉が思い出したように口を開いた。

 隣には、まだ足が下につかない幼い雛子が座っている。あまり見慣れないはずの外の景色には目もくれない。

「そういえば、この前あたしと隼人さんを襲った男、どうしてか組織の情報をもっていました」

 泉には、この事実が何となくとても重大なことのように感じられ、ボスに必ず伝えなければと思っていた。

「組織の情報?」

 ボスが鋭い口調で尋ねる。ボスが組織の情報を何とか秘匿しようと奮闘していたのは泉も知っていた。

「はい。だから生け捕りにしようとして、うまくいきかけたんですけど、急に異常な量の感情物質を感じて……気付いたら病院で……」

 そこまで言うと、泉は口を閉じた。

「感情物質…………だから隼人はまだ……」

 ボスが何かを悟ったように呟いた。





 空が夕焼け色に染まり始めた頃、ボスの運転する車は安藤家の前に停まった。

 ボスは周囲の豊富な自然を見渡し、ここの自然なら本当に雛子が人間らしい心を取り戻してくれそうな気がした。

 今のボスにとっては、雛子が二度と元に戻らないのではないかということが一番の懸念だった。親友である岩谷が死に、息子はもう何日も意識不明の重体、さらに過去の罪から強い自責の念に苛まれ続けている今のボスに、生きる意味を与えてくれるものがあったとしたら、それは雛子の笑顔以外になかった。

 数年前、組織のメンバーが招待されて岩谷の家を訪れた時、ボスはその頃生じていたさまざまな苦悩に神経を酷くすり減らしていた。本人が隠そうとしていたこともあり、周りの人間は慰めるどころか、ボスが頭を悩ませていたことに気付くことすらなかった。

 だが、そんなボスの心の奥底の苦痛を知るはずのない岩谷の娘――沙希と雛子は、まるで元気づけようとしているかのようにボスにしがみつき、ひっきりなしに笑顔を見せるのだった。その笑顔を見ているひと時の間は、ボスは思い悩んでいた苦痛の種などすっかり忘れ去ることができた。その後も数日間、幼い二人の笑顔を思い出すたび、一時的にではあるが、悩みを振り払うことができた。

 ボスにとって岩谷の二人の娘は、岩谷や組織の他のメンバーとは違う意味で大切な存在だった。

 そして今やその大半を失いかけているボスは、最後の希望を雛子に託して信じることしかできなかった。

「ボス、どうしたんですか?」

 じっと雛子を見つめて動かないボスに、泉はもう何度も声をかけていたようだった。

「いや、何でもない。それより、心が落ち着くまでゆっくり休んでいて構わないからな。雛子ちゃんを頼んだぞ」

 ボスは言い終えると、車に戻ってそのまま安藤家を後にした。





「その子が雛子ちゃんね」

 インターホンを鳴らしてすぐに出てきた桜が、泉が抱えている雛子の姿を見て言った。

「うん。面倒はあたしが見る」

「わかった。光もきっと仲良くしてくれるわ。早く元気になるといいわね」

 泉は久しぶりの我が家にとても懐かしく感じながら、雛子の靴も脱がせて玄関を上がった。

「そうそう」

 桜が思い出したように泉の方を振り向いた。

「そういえば、今日泉が退院するのを知った真梨香ちゃんがね、明日は学校お休みだからうちに泊まらせてくださいって朝頼み込んできたわ。オッケー出したけどよかったよね?」

「うん、嬉しい。ありがとね」

 家にはまだ桜しかいないようだった。

 泉はとりあえず階段を上がり、自分の部屋のベッドに雛子を座らせた。

 窓の外のもみじの木は、もうすっかり葉を落としていた。近年寒冷化でも進んでいるのか、冬の訪れが早い。

 泉は机のそばの椅子に、雛子と向かい合うように座った。

「ここのもみじはちょっと前まですっごくきれいだったんだよ」

 雛子の返事が来ないことをわかっていた上で、独り言を言うように呟く。

 泉が人形のように色を失った雛子のひとみを見つめていると、そのひとみが不意にドアの方を向いた。生きているのに、動いたのはこれが初めての気がしてしまった。

 開いていたドアの隙間から、真っ黒な真白が物音一つ立てずに泉の部屋へ入ってくる。

 真白は雛子の方へ歩み寄っていき、鼻をひきつかせて雛子の手足のにおいを嗅いだり、舐めたりした。

 雛子は嫌がる素振りを見せず、ひとみだけ動かして真白をじっと見つめていた。

「猫は好き?」

 泉は表情を窺いながら雛子に尋ねた。

 雛子は真白を見つめたまま小さく頷いた。初めて泉の言葉に反応した瞬間だった。

「やっと返事してくれた」

 嬉しそうに笑みを浮かべて泉が言った。

「その子ね、真白って名前なんだよ」

 雛子は少しだけ不思議そうな表情をして泉の方にひとみを向けた。

「……どうして?」

 雛子がか細く弱々しい声で訊いた。

「弟の光は、猫は好きなんだけど黒色が嫌いでね、こんなに真っ黒になっちゃったこの猫も自分の色が嫌だろうから、せめて名前だけでもって言って、真白って名付けたの」

 雛子はもう一度真白を見つめた。

「かわいい子でしょ?」

 泉がそう訊くと、雛子は返事こそしなかったが、その口元が微かに緩んだように見えた気がした。





 やがて光が学校から戻り、真梨香も間もなく安藤家を訪れてきた。

 泉が玄関まで下りていくと、真梨香は目に涙を浮かべて抱きついてきた。

「よかったー。泉、元気?」

 真梨香はうずめていた顔を離して泉の顔をじっと覗き込んだ。

「うん、大丈夫。心配かけちゃったね」

「本当に心配したんだからね。この前、隣町の真っ昼間に起きた連続通り魔殺人のニュースをテレビで見て、多数の死傷者が出たって聞いた時、あたしなぜか泉のこと思い出しちゃったんだよ。でも連絡の取りようがなかった。そしたら今度は泉のお母さんから泉が入院してるって電話があって……」

 再び真梨香の目に涙が浮かんできたのを見て、泉は慌てて言った。

「ごめんごめん。でも、もう本当に大丈夫だから」

 泉は真梨香を居間のソファに座らせ、自分も隣に座った。

「あたしね、この仕事を始めて、自分が今までどんなに無知だったのかってことを思い知ったの。ようやく、この世界のことがわかり始めた気がする」

 泉はしばらく間を開けてから尋ねた。

「ねえ、真梨香。世界が終わるっていきなり言われたら、どう思う?」

「世界が終わる?」

 真梨香が怪訝そうに泉を見つめた。

「あたしも、ある男の人にだいぶ前にそう言われてね。最初はそんなこと、考えるだけばかばかしいと思ってた。でも今の仕事を始めて、この世界に立て続けに発生する異常を知って、ようやくあの人の言葉が真実味を帯びてきた気がするの」

 入院中、岩谷や雛子のことで世界の残酷さを嘆いていた泉が、ずっとベッドの上で考えていたことを真梨香に語り始めた。

「この世界にはね、幸と不幸が同じ量だけ存在するの。それらは全てあたしたち人間がもっている。でも、幸をたくさんもっている人がいれば、不幸だけ大量に溜め込んでいる人もいるの。だから今、人間社会のバランスが崩壊しかけてる。生物界のトップである人類の崩壊はすなわち、直接この世界の崩壊につながるの」

「泉? 何言ってるの?」

 真梨香は明らかに戸惑っていた。

「あたしも最初はそうだった」

 泉は森岡の病室で彼と話した当初、自分も今の真梨香と同じようになっていたのを思い出した。

「あたしは、この世界は平和だと思ってた。凶悪犯罪はたびたび発生してたけど、戦争とか、奴隷制度とかがたくさんあった昔に比べれば、今のこの世界は平和だって…………でも、違った」

 真梨香は眉を寄せて泉を見つめていた。

「あたしたちは罪深いことに幸せだったの」

「幸せが…………罪?」

「そう。不幸をもたず、幸だけをもっている罪深い存在だったの。世界の崩壊はあたしたちが招いていたようなもの。あたしたちは自分たちだけ幸せを感じ、他の人は不幸だけ感じていればいいんだって、そう叫びながら暮らしていたの」

「待って。あたしも泉も、そんなこと一度も思ったことないよ」

「そう。でも意識してなかっただけで、事実はそうなの。あたしたちは、不幸な人がいることに気付いていなかったんだよ。みんな幸せなんだって思ってた。自分が幸せだから」

 真梨香は黙って泉の話を聞くことにした。

「あたしたちはたくさんの幸をもっていってしまったから、取り遅れたごく少数の人たちには不幸しか残っていなかったの。あたしたちは、誰一人進んで不幸をもっていった人はいなかったから、遅れた人たちは、あたしたちがもっていった幸とは釣り合わない量の不幸をもたなければいけなかった。幸をもったあたしたちは、周りの人に自分の幸を見せびらかしていた。あたしたちが普通に暮らすってことは、そういうことだったんだよ。一方、不幸をもった人たちは、周りで幸を見せびらかすあたしたちに怒り、嫉妬し、恐怖し、そして絶望したの。だから気付かないうちに、その人たちは死んだ人がばらまいていった不幸を吸収し、溜め込んでいたの。不幸の連鎖だよ。そして幸をもった人は自分が死ぬと、もっていた幸を家族や友達に分け与えた。こうして幸は一定の量を保って引き継がれ、不幸はより少数の人に蓄積するように溜まっていった。でも、あたしたち人間には、もてる幸の量と不幸の量が限られていたの。やがて不幸をもちきれなくなった人々は、暴走を始めた……」

 泉は森岡が最後に言っていたことを思い出した。

(……それが狂魔なんでしょう、森岡さん。あたしは狂魔が正義かどうかはわかりませんが、少なくとも、あなたと同じ、悪ではないと思います。これが、あたしの意見です)

「その人たちの暴走を、泉たちは止めようとしているの?」

「うん」

「……止められそう?」

「今のところは何とか」

「そっか。じゃあ、泉は世界を救おうとしているんだね」

「でも、世界の危機は勢いを増している気がするの。何だか、とっても近い気がしてならない。恥ずかしい勘違いだったらいいんだけどね」

 泉は最後は笑って言った。

 だが真梨香は笑うことなく泉の言葉を真面目に受け入れていた。泉の真実を見抜く力を真梨香はだれよりも信じていた。

「何とか止められてるんじゃないの?」

 真梨香が真面目な表情のまま尋ねる。

「暴走する人が生まれるのを阻止できているわけじゃない。それに暴走している人たちは、最近特に力を増してきているみたいなの」

 険しい顔をする泉に、真梨香は静かに言った。

「でも、きっと大丈夫よ。泉の言う通り、幸と不幸みたいに相反するものが同じ量だけ存在するなら、きっと世界が滅びようとする力に対して、同じ強さの抑止力もまた生じるはずでしょ?」

 当たり前のことを主張するかのような口調だった。

 泉の口元に、自然と笑みが浮かんだ。

「真梨香は昔から頭がいいよね」

「泉ほどじゃないよ」

「そういう種類じゃなくて。何かこう、話を聞いたら、今みたいに最終的な当たり前の結果を見通しちゃうところとか」

 真梨香がふふっと笑った。

「そう? ねえ、泉の部屋に上がっていい?」

 真梨香は不意に話を切って言った。

「うん」

 二人は立ち上がって泉の部屋へ向かった。

 不意に泉の脳内に、森岡の言葉が文字となって浮かび上がってきた。真梨香の言葉に安心しようとした泉を戒めようとするかのようだった。


『君は今、世界の終わりがすぐそこまで近づいていることに気付いているかい?』


 世界が泉の考える通り、万物が均衡を保つようにできているとして、もしも、世界の終わりが世界の始まりに対するものだったとすると、それは必然的にいつか訪れることになる。

 泉は階段を上がりながら、その先の部屋にいる雛子のことを思い出した。今はこんなことを考えるのはやめて、ゆっくり休むことに専念しようと決めた。


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