story17‐‐遺された者‐‐
泉がゆっくり目を開けると、視界の正面には真っ白な天井、左隅には風に揺れる同じく真っ白なレースのカーテンがあった。そしてカーテンの隙間から時折眩しく差し込む日光の温もりを感じ、泉は自分が凍えていたことに気付いた。
非常に時間が経っているように感じる。
「やっと起きたぁー」
泉は佐川らしき安堵の声を聞き、すぐに何かを思い出したように真っ青になって飛び起きた。
佐川は泣き崩れていた。
「よかった……泉ちゃんは……無事で」
泉は隣のテーブルに置いてある水を一息に飲み干した。
非常にのどが渇いていた。何日も眠っていたのかもしれない。
やがて泉は心の中で佐川の言葉を反復し、目を見開いた。
「……あたし……は? どういうことですか! まさか隼人さんが……」
泉はあの夕刻の出来事がやはり夢ではなかったのだと気付いた。
「……違う……隼人さんじゃない」
「隼人さんじゃないって……じゃあだれなんですか!」
泉は叫んでいた。
「……岩谷さんが……岩谷さんが殺されたの……」
佐川は泣きじゃくりながら言った。
泉は気付かぬうちに呼吸を止めていた。
十秒ほどしてようやく泉は、岩谷が誰かに殺されたのだということを理解した。
静かに頬を涙が伝う。
泉の頭の中に、秘伝体術を教えてくれた幼い頃の祖父の記憶がよみがえった。家族の中でもとびっきりに大好きだった祖父が事故で死んだと聞かされた時、泉は何日も夜な夜な一人泣いていた。恐ろしい悪夢を見ることもあった。当時の泉は、人は悪いことをすると死んでしまうのだと、本気で信じ込んでいた。光はまだ小さく、両親も泉を慰めることができなかった。
そして今度は、岩谷の家族を語る幸せそうな表情が泉の頭に浮かんできた。
急に岩谷のあの表情が、祖父がいつも泉に見せていた表情と似つかわしく思えてきた。
「……うそ…………うそ……うそ!」
泉が佐川に視線を戻すと、佐川は涙を流しながら目を伏せて黙っていた。
「そんな……待って……待って……ください」
泉はとぎれとぎれに言った。
「どうして……岩谷さんが……何も……悪いことしてないよ」
「……わからない……感知器も反応しなかった」
「岩谷さんの……家族は?」
「雛子ちゃんだけ無事だった」
「雛子ちゃん?」
「そう。外をうろうろしていたところを保護されたの」
そこでまた佐川が泣き出し始めた。
「……雛子ちゃんは……あたしと……一緒……」
泉は黙って佐川の言葉を待った。
「……お姉ちゃんの……沙希ちゃんがかばって……身代りに……」
「かばって……身代り……に?」
泉はまだ小学校にも通わないほど幼いと聞いている子供の、妹のために身代りになる、という行為を想像することができなかった。
「……まだ……幼いんじゃ……」
幼い子供が、死の意味を理解した上でその恐怖に打ち勝ち、家族を守るため身代りになったということになる。
「……だって、岩谷さんの子供だもん。そのくらいできちゃうよ」
泉はようやく、身代りになった沙希と、それにより残された雛子の気持ちを察した。二人とも、祖父を亡くした時の泉よりもっとつらい思いをしたのだと、今さら気が付いた。
「……泉ちゃんのご家族、もうすぐ来るよ」
二人してしばらく泣きじゃくった後、腕時計を見ながら佐川が言った。
「え?」
泉は急に自分にも家族がいることを思い出した。
「ボスが連絡してくれたの」
「そう……ですか」
泉は俯いた。
「どうしてそんな顔するの?」
「こんな姿で、一体どんな顔向けすればいいんだろうって思って」
「素直になればいいと思うよ」
「素直……」
やがて病室のドアをノックする音が聞こえた。
入ってきたのは光、博行、桜の三人だったが、廊下にはボスの姿もあった。ボスが三人を案内したようだった。
佐川は泉の家族に軽く会釈して病室を出た。
「大丈夫? 最初はなかなか意識が戻らないって……聞いて……」
真っ先に声をかけたのは桜だった。
「うん、大丈夫だから、もう泣かないで」
桜は泉の姿を見るなり泣き出していた。
「お姉ちゃん、泣いてたの?」
光も不思議そうというよりはむしろ心配してくれているようだった。泉は改めて家族の大切さを感じ、残された岩谷の子供を思い出して再び涙腺が緩んだが、何とかこらえて光に笑顔を返した。
「ありがとね」
「辛かったらいつでもうちに戻ってきていいからな」
博行の口調は優しかった。
「うん、ちょっとお休みもらおうかな」
「それじゃあ、退院したら帰ってきてね。泉の好きな料理を作って待ってるわ」
「わかった。楽しみにしてるね」
泉の家族と入れ替わりに、今度はボスが入ってきた。
「すまない」
開口一番ボスは謝った。
「どうしてボスが謝るんですか?」
「私は、岩谷も、その家族も守れなかった」
「でも、雛子ちゃんは無事だって……」
「あれで無事とは……私には……」
ボスは俯いた。
「雛子ちゃん、どうかしたんですか?」
「狂魔化こそしていないが、心が砕けてしまったかのように何も感じられないみたいだった。まるで…………『生きた死体』だった」
ボスの例えに泉の心臓がドクンと脈打った。やはり泉が思っている以上に心に深刻な傷を負っているようだった。
「お前もショックが強かっただろう、しばらく休暇を取れ」
「……はい」
泉は少し考えてから言った。
「雛子ちゃん…………うちで預かれないでしょうか?」
「安藤の家でか?」
ボスは少し考えて、すぐに口を開いた。
「……そうだな。少しでも人と触れ合って、何とか心を取り戻してもらいたい。君のご家族は?」
「きっと承知してくれます」
「わかった。それじゃあ、雛子ちゃんをよろしく頼む」
ボスが休憩室に戻ると、小塚がボスのデスクの前に立って待っていた。
「野芝は無事でしたか?」
「まだ意識を取り戻さない」
ボスは椅子に座ってコーヒーを作り始めた。
「孤児院のことで訊きたいことがあります」
一瞬ボスはコーヒーを作る手を止めたが、すぐに何も答えず再び手を動かし始めた。
「孤児院の子供は全員社会に出ているんじゃないんですか?」
「孤児院の子供は全員社会に出ている」
ボスは小塚の言葉をオウム返しした。
「昨日俺たちを襲ってきたのは、確かに孤児院にいた子供だった。もしかしたら野芝と安藤を襲ったあの男も……」
ボスは目を見開いた。
「そんなはずはない。見間違いだろう」
「いや、見間違いじゃない」
小塚が語気を強める。
「本当のことを教えてください」
小塚はまっすぐボスの目を見ていた。その目は冷静だったが、強い意志を感じさせる獰猛な狼のような目だった。
ボスはじっくり一分は思案した後、ついにその重たい口を開いた。
「見間違いだ。私の孤児院にいた子供は、修介が死んで、もうお前以外は全員が死んだんだ」
小塚は考えもしなかったことを聞かされ、言葉を失った。
「私がここのボスに就任した後、全員この本部で確かに死んだんだ」
「でも、あいつは確かに……」
「死んだと言っているだろう!」
小塚の主張を遮ってボスは怒鳴った。最近のボスはよく怒鳴る。長い付き合いの友を失って精神が錯乱しているようだった。
「私のせいで……私が……殺したんだ」
頭を押さえたボスが半泣きの声で呟き始めた。
小塚はボスが強い罪悪感にとらわれているのをすぐに悟った。
昨日見たものが間違いだったと認めようとは思わなかったが、小塚はとりあえずボスをもう少し一人にさせることにした。