―閑話 ― ある執事の受難その1
彼の名は、ヴァレンタイン・パーカー。二十六歳、マクマリー元男爵家の執事である。
執事として働くには、年が若いのだが、父親が死亡した後、執事職を引き継ぐようにと主から命じられていた。
主、と言っても最後に姿を見たのはもう五年以上前のことだ。暗黒大陸と呼ばれるラティーマ大陸に出発したその日。
「絶対に、帰ってくるから」
と誓った少女は――今やマクマリー家当主となっている。
先代のマクマリー男爵は、エルネシア王国では何かと失敗が多かったものの、大陸に渡ってからは必死に働いたらしい。
けれど、莫大な財を築いた後、無理がたたったのか死去したのは数年前だ。一人残された令嬢エリザベスはすぐに帰国するのかと思ったのだが――。
執事であるパーカーや、叔母であるレディ・メアリの予想に反して、彼女は大陸にとどまることを選択した。
十七歳になった年に帰国したが、買い戻した田舎の領地に引っ込んでしまっていて、都にはなかなか出てこない。何でも田舎ならではの商売があるのだそうだ。
先代が死去した時に、商売は手放すものだと思っていたパーカーは仰天させられたのだが、父の商売を継いだエリザベスは、それなりに上手く切り盛りしているらしい。
らしいというのは、パーカーの耳に入ってくる噂話の範疇でしかないからで、実のところはどうなのかよくわからない。
貴族が商売を営むというのは誉められたことではないし、それが若く未婚の女性となればなおさらだ。エリザベス・マクマリーの名は、かなりの部分を好奇心と、そしてわずかな嫌悪感を持って社交界で知られるようになっていた。
エリザベスが姿を見せれば、噂の歯止めになったかも知れないのだが、当の本人は田舎にひっこんだままなものだから、噂ばかりが一人歩きしている。
そんな姪を心配したレディ・メアリは何度か領地を訪れ、今後について相談に乗ろうとしたが(実際には見合い話を持って行ったというのは知っている)ことごとく撥ねつけられて現在に至る。
その令嬢がついに屋敷へと戻ってくるのだ。パーカーは、主の出迎えに相応しく、屋敷の中が整えられているのかを確認するために、もう一度上から下まで屋敷を点検しているところだった。
そろそろ、主が戻ってくる頃合いだろうか。すぐに出迎えられるように玄関ホールで待ちかまえようとそちらへ向かって歩き始めた時、玄関の扉が勢いよく開かれる音がした。
慌ててパーカーは玄関ホールへと足を踏み入れる。そこに立っていたのは――彼の記憶にある少女がそのまま成長した、たいそう愛らしい女性だった。
「ただいま」
鮮やかな赤い色のドレスが、彼女のすらりとした身体を包んでいる。小粋にかぶった帽子の陰から、好奇心が一杯の瞳がパーカーを見つめていた。
「やっと……ここに帰ってこられたわ! ねえ、帰ってくるって言ったでしょ!」
帽子を勢いよく放り出して、エリザベスはパーカーの首にすがりついた。
「お、おおおおお嬢様! な、何を……!」
いきなり若い女性にすがりつかれるとは思わなかった。エリザベスの勢いに押されたパーカーは、よろめいて数歩、後退してしまう。
「何をって……、あら、悪かったわ」
けろりとして、エリザベスはパーカーから離れた。
「……ラティーマ大陸ではどうかまでは存じませんが、こちらでは男性の首にいきなり飛びつく女性はおりません」
「……執事でも?」
エリザベスは首を傾げる。
「執事でも、です。お嬢様」
露骨につまらなそうな顔になって、パーカーから離れたエリザベスは頬を膨らませた。
その様子を見ながら、パーカーは深々とため息をついた。奔放に育った、とレディ・メアリから聞かされていたが、まさかこれほどとは。
「本当は、私の屋敷に来てもらえたら一番いいのだけれど……本人がうんと言ってくれないのよ」
数日前、いざエリザベスが戻るという知らせが来た時に、レディ・メアリから聞かされた言葉が頭に蘇る。
「だから、屋敷にいる間はあなたがしっかりと監督してちょうだい……ね?」
その時は、かしこまりました、と返事をしたが――さて、この令嬢をどうにかすることなんて自分にできるのだろうか。
◆ ◆ ◆
エリザベスは、すぐに屋敷に馴染んだようだった。彼女の身の回りの世話をするために新しく雇い入れたマギーとも気があっているらしい。
毎朝、マギーは紅茶とミルクを持ってエリザベスの部屋へと上がっていく。そして、エリザベスがベッドで紅茶を飲み終えてから身支度を手伝うことになっているのだが――。
「パーカーさぁぁぁんっ!」
エリザベスが屋敷に戻って二週間ほど経過した朝、どたどたと階段を駆け下りてきたマギーが、パーカーが朝食の支度を調えている食堂へと飛び込んでくる。ベッドで朝食まで終える貴族も多いのだが、エリザベスは食堂でとることを好んでいる。
けれど、今日は一人で着替えて朝から出かけたらしく、寝室に寝間着が残されていて、一人で簡単に着ることのできる外出着がクローゼットから消えていた。
「……どうしましょう? どうしましょう? 探しに行ったりとか……」
おろおろしているマギーは、すがるような目をパーカーに向ける。パーカーは深々とため息をついた。
「朝食の時間を過ぎてもお帰りにならなかったら、探しに行きましょう」
恐らく、それほど遠出はしていないであろうけれど。
結局朝食の時間を過ぎてもエリザベスは戻ることなく、パーカーとマギーは主を探しに外へと出た。広大な庭か、それとも外へ行ってしまったか。
パーカーが裏口から外へ行こうとすると、向こう側からエリザベスがやってくるのが見えた。
「お、お嬢様! それは一体……」
「そこで拾ったの」
悪びれない笑顔で、エリザベスは言った。
「ひ……拾ったの、ではありませんっ!」
エリザベスが肩を貸す様にして引きずってきたのは、十代前半と思われる少年だった。行き倒れているのを拾って来たらしく、どこもかしこも汚れている。少年の汚れが移ったらしく、エリザベスの着ているものもどろどろに汚れていた。
「……拾った以上、最後まで面倒は見るわよ?」
「問題はそこじゃありませんっ!」
こんな得体の知れない少年を屋敷に入れるなんてとんでもない。
「じゃあ、見捨てろって言うの? あなたがそんな……そんな酷い人だとは思わなかった!」
みるみるうちにエリザベスの瞳に涙が浮かぶ。
「……な、納屋……でしたら……よろしいのでは?」
しまった、エリザベスのペースに乗せられた……が、まさかこういう方向から攻めてくるとは思わなかった。
胃薬はどこにあっただろうか。後で薬局に走ることにしようか。
けれど、彼はまだ気付いていなかった――この先、常に胃薬を携帯するようになることに。
この時拾われた少年が、屋敷で働くようになったのはそれから少したった後の話。