マクマリー家の日常風景
その朝、マクマリー男爵家に仕えている執事のヴァレンタイン・パーカーはいつものように食堂で朝食の準備をしていた。
そろそろ主が食堂に入って来る時間のはずなのだが、いまだに来ないということは……嫌な予感に、胃がぎゅっとなるのを感じた。
ばたばたと廊下を走る音がしたかと思ったら、主付きであるメイドのマギーが食堂へと飛び込んでくる。
「お嬢様がいらっしゃらないんです!」
というマギーの言葉に、パーカーは胸に手をあてた。毎度のことなのだが、主の破天荒な行動にはいつまでたっても慣れることができない。
「……またか」
嘆息した彼は、マギーを連れて庭へと出た。朝食前にこの屋敷のお嬢様、レディ・エリザベスがベッドを抜け出すのは珍しいことではない。珍しいことではないのだけれど、それがレディらしいふるまいかと言われれば話は別だ。
「目立たないように探してきなさい……私はこちらの方を探すから」
朝っぱらから主を探して回るのは外聞が悪いから、パーカーはそうマギーに命じた。一礼してマギーは走り去った。
彼は裏口の方面へと広い庭を横切っていく。先日主が脱走した時には、野犬の群れに囲まれていた(そして、そのリーダーを手なずけていた)。その前はたしか、「ちょっとした散歩」で十キロ近く歩いてしまって朝食に間に合わなかったっけ。
彼女の行動は今さらなのだが、使用人としては探さないわけにはいかないのだ。主としての自覚をもう少し持ってほしいものだと思わずにはいられない。
きりきりとした痛みを感じたパーカーの手が、胸のポケットに伸びる。そこからガラス製の瓶を取り出すと、錠剤を三錠手のひらに転がした。口に放り込んだそれを、水もなしに飲み込んだところで、裏側の庭園に向かって歩き出す。
何となくなのではあるが、主は屋敷の中にはいないような気がする。となると、街まで出て探さなければいけないわけで――彼女がこの屋敷に戻ってきてから三か月。彼の胃袋は、日々悪化の一途をたどっていた。
「パーカーさぁん! 見つかりましたよぅ!」
それほどたたないうちに、マギーの大声が響き渡った。
目立たないようにと言ったのに、あんなに大声では目立つことこの上ないではないか。苦笑いでパーカーは食堂へと戻った。
軽やかな仕草で朝食の席に着こうとするエリザベスには、悪びれた様子はまるでなかった。蜂蜜色の髪は肩から背中に流しているが、好き勝手な方向に飛び跳ねている。 深い緑色の瞳は、楽しげに輝いていて、頬は健康的な薔薇色に染まっていた。
「ああ、お腹すいた。ねえ、すぐ朝食にできるの?」
可愛らしい空色のワンピースを自分で着て出かけたのはよしとしても、それがどろどろに汚れているのは何故なのだろう――そこを追求してはなるまい。彼女が「お嬢様」ですむ年齢を過ぎつつあるとしても、だ。
「――どちらへお出かけでしたか?」
「ん、ちょっとね」
エリザベスの目が、わかりやすくパーカーからそらされる。
これは、彼女の叔母であるレディ・メアリに知られたくないようなことをしていたに違いないと確信する。それは、今食堂にいる使用人達の総意でもあるだろう。
いろいろ言いたいことはあるのだが、パーカーは口を閉じておくことにした。とりあえず、どろどろの服で食卓に着くのだけは阻止しなければ。
「朝食の前にお召し替えを」
「えー、お腹すいた」
ぷぅっとわかりやすくむくれたエリザベスは、今年十八になった。
年齢のわりに言動が幼いのは、エルネシア国国内ではなく、暗黒大陸と呼ばれるラティーマ大陸で育ったからなのだろう。あちらでは、まともな教育を受ける機会などなかったとはいえ、少々型破りすぎるのは否定できない。
そんな彼女の行く末を案じた親族が結婚話を何度も持ち込んできたが、一度も合意に達したことはない。彼女が全力で見合いの席をぶち壊してきたからだ。
結婚したなら、今のような生活を送ることはできなくなるのはわかりきっている。
「お腹すいたではありません、お召し替えを。マギー、エリザベス様をお連れしなさい」
着替えるまで朝食は出てこないとさとったらしく、エリザベスはしぶしぶ食堂を出た。勢いよく歩いていくので、空色のワンピースの裾が激しく翻っている。
それを見送ったパーカーは、胃のあたりを押さえた。胃が痛い。つい今しがた胃薬を飲んだはずなのに。
手と顔を洗い、再び食堂にあらわれたエリザベスは、別人のような姿になっていた。あざやかなペパーミントグリーンを着こなせる人間はそうそういないだろう。
たぶん、エリザベス・マクマリーは世間一般の基準からいっても相当な魅力の持ち主だ。エメラルド色の瞳が印象的な顔は文句なしに整っているし、生き生きとした表情は彼女の魅力を最大限に引き出している。
たいそう旺盛な食欲の持ち主なのだが、きゅっとしまった腰は、大半の女性とは違って食事を抜いてまで細くしようとした結果ではない。
「……新聞を出してもらえる?」
「かしこまりました」
先ほどのやり取りなど忘れたかのようにエリザベスはテーブルにつく。
マクマリー男爵家の朝食は、毎朝届けられるゴシップ紙から始まるのだ。毎朝新聞配達の少年が、屋敷の門に備えつけられた豪華な新聞受けに三紙の新聞を届けてくれる。
堅いニュースばかり取り扱う専門誌、『エブリー・ニュース』、女性の教養を高めるための『フォー・レディース』この二つは良家の子女としては当然目を通しておきたい。
さらにマクマリー男爵家の当主が読むにはふさわしくない、ゴシップ満載の『デイリー・ゴシップ』。
最後の一紙に関しては、何度も購読をやめるようにとパーカーは進言しているのだが、毎度退けられている。そして、真っ先に彼女の手が伸びたのはの『デイリー・ゴシップ』だった。