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マンションのドアを開けると、白いシャム猫が、ニャアと稲子の脚にまとわりついてきた。
稲子は巻き上げた髪のヘアクリップをはずし、パラりと肩に落とした。手入れの行き届いた長い髪が、シャンデリアの灯りにつやつや光っている。
猫を抱き上げて頬ずりしながら、ちらっと壁に掛けた鏡を覗いたあと、やかんに水を入れてヒーターに置き、タイマーを五分にセットした。出かける前に駅前のカフェで軽い食事を済ませていたので、大して空腹でもなかった。
ソファに腰を下ろし、グラスの三分の一ほど甘いリキュールをついでぐいと飲み、クッションに身を沈めてコンサートの余韻に浸っていた。
稲子はブーニンのあの軽やかで繊細な演奏を、自分の頭の中に再現していた。ショパンのノクターン遺作は稲子のお気に入りの曲の一つなのだ。鍵盤の上を滑る手が醸し出すあのタッチは、ブーニン特有の雰囲気を醸し出す。
初めて彼の演奏会でこの曲を聴いたとき、稲子は自分の弾くピアノの音色との違いに衝撃を受けたものだ。ピアノは鍵盤を叩くものと思っていたこれまでの意識が変わった。ピアノは夢を奏でる魔法……そんな気がしていた。




